水曜日, 9月 12, 2012

エドガー・シャイン著「人を助けるとはどういうことか」


人を助けるとはどういうことか 説明

だれかを支援することが求められる関係は、どこにでもあります。親子、友達、恋人、夫婦、先生と生徒、女子と部下、患者と看護師。今日は、相手を尊重しつつ、相手が問題解決するプロセスを支えるためにどうすればいいか、を考えたいと思います。

まず、次の場面について、自分ならどう答えるかを考えてみてください。

「○○にはどのように行けばいいのですか。」と、自分になじみの場所で、見知らぬ人に尋ねられた時、あなたならどう答えますか。


ここでのポイントは、相手が本当はどこに行きたいのかをまず確認することが大事です。例えば、道に迷って恥ずかしという気持ちから、本当の目的地ではなく、そこまで行けば後はわかるという地点を尋ねていることもあるでしょうし、相手が思っている道順が実は遠回りになっている、ということもあります。自分は支援しているつもりでも、実は相手の役立っていないひとりよがりの支援をしていることがあります。あまり知らない相手に対していきなり「こうしたほうがいいですよ」という答えをする前に、まず相手のことを知らなければいけない、ということです。

もう一つ、質問をしてみましょう。

「一緒に行くパーティだけど、どの服を着ていけばいいかしら」と、恋人に聞かれた時、あなたならどう答えますか。

これは、もしかすると、どの服を着ても似合うと応えて相手に愛情があることを伝えることが正解かもしれませんし、新しい服を買ってほしいというメッセージを読み取って、一緒に買いに行くことが正解かもしれません。

今日の話は、エドガー・シャインという人の書いた「人を助けるということ」という本を題材にしています。先の2つの質問は、それを訳した人が書いたものです。シャイン先生は、組織について専門家で多くの企業の支援をしてきましたが、この本を自分の奥さんに捧げています。結婚生活は50年に及んでいます。つまり、50年に渡って、支援について考え、実践してきたことを書いた本です。


支援は、人間関係の基本ですが、意外にもこれが関係する感情的なダイナミクスにはあまり知られていません。なぜ友人を助けようとしたのにそっけなく断られるのか。経験的に理解しているのは、支援を受ける人との間に一定の理解と信頼がなければいけない、ということです。理解が必要なのは、いつ支援を申し出ればいいか、助けを求められた場合はどうすれば役に立つかを知るためです。また、信頼が必要なのは、真の問題が何かを突き止めるためです。そして、提供された支援を受け入れ、支援者との会話から生まれた解決策を実行するため、とシャインは言います(p.12)。


1.       人を助けるとはどういうことか

 役に立つ支援と役に立たない支援を分けるのは何なのでしょうか。自分の経験を振り返って、一度それぞれの例を考えてもらえますか?

(役に立った支援とうまくいかなかった支援をそれぞれ考える)

例えば、コンピューターの使い方や、クレジットカードをなくしたときの電話での対応などは、相手は細かなステップを踏んでいるつもりでも、こちらは全く要領を得ずにイライラすることがあります。
「おせっかい」という言葉もあります。こちらの問題とまったくかけ離れた提案や申し出を相手がしてきて、それを断ると、自分は役に立とうとしているのに、それを受け入れないあなたはどうかしている、といわれたことはないですか。
例えば、弟や妹がいる場合、別に友だちでもいいですが、宿題を教えて、といってきたとき、本当は宿題ではなく、別のことを相談したかった、ということもあるかもしれません。
つまり、人を助ける、または支援する、ということは支援者になる可能性がある人と、支援を受ける可能性がある人との最初の接触から、支援を生み出す関係へとどう発展していくかという人間関係のプロセスを理解することが必要だということです。


2.       経済と演劇 人間関係における究極のルール

人間関係におけるルールにはどのようなものがあるでしょうか。これを、経済と演劇の二つの観点から考えて見ましょう。
私がアメリカでホームステイをしていたとき、アメリカの子どもが最初に学ぶ言葉は、プリーズとサンキューだと言われました。アメリカの高校は遠いので、家族に車で迎えに来てもらう必要があります。そのとき、ホームステイ先の子どもが電話で「Pick me up, Mam」と言ったのと同じように言うと、「Please」をつけなさい、といわれました。そして、迎えに来てもらったら、「Thank you」と言うのです。当たり前のことですが、これは人間関係の原則を示しています。「ありがとう」という言葉は返礼であり、お返しの行為です。

社会はこうした交換のシステムでできているといいます。マリノフスキーという人は、パプアニューギニアの島々ではクラ交易と呼ばれる部族間の品物のやり取りがあるといいます。これは、貝で作られた首飾りや腕輪というものを、島から島へ受け渡し、2年から10年かけて一周するといいます。こうした儀式を通じて、海を隔てて離れた部族との交流が生まれ、そこに社会が生じています。甲子園の優勝旗を持ちまわりする、というイメージを持ってもらうと良いでしょう。それは、単なる経済行為ではなく、威信や名誉もそこに引っ付いてきます。なんだかよく分からないものをやり取りする、というのは日本の結納にも似ていますね。レヴィ=ストロースという人類学者は、婚姻関係とは女性の交換システムであり、近親婚が生じないようにする構造がある、と、ジェンダーの観点から言うとえらく批判を受けそうなことを言っています。また、モースという人は「贈与論」という本の中で、アメリカのインディアン社会では裕福な家族や部族が他の人を招待して豪華な祝宴を開き、富を再分配するポトラッチという文化について書いています。

教室で先生が騒がしい生徒に対して「注目。」というとき、英語で言えば「Pay attention」ですが、そこに「支払う」という言葉が含まれるように、生徒に対して自分の話を聴いてほしいという要求をしているわけです。ここで、生徒がその要求を受け入れないと、先生は面目を失うわけですね。そうすると、先生も、その生徒に対して、熱心に教えようという気持ちが萎えていくでしょう。そこには、お互いに面目を保ち、要求し、それを受け入れるという関係が微妙なバランスで現れています。

さて、私たちは支援を生み出す関係について考えているわけですが、たとえば、支援というのは一つの社会的通貨、お金だと考えて見ましょう。すると、先ほどの贈る、受け取るという関係は、「Pay」「Pay back」という関係、持ちつ持たれつ、相手がしてくれたから、こちらもお返しする、という関係の中で、「支援」という行為がお金のようにやり取りされていると考えることもできます。「Pay Forward」という映画は、こうした閉じた関係でなく、自分が受けた支援を、次の誰かに渡す、ラグビーのようにどんどん後ろにつないでいく、という別の関係の可能性について考えられました。

話しがそれましたが、人間関係においては、何かを贈り、それに返礼する、それが期待されている、という関係があることを、私たちは経験的に知っています。

もう一つ、私たちは社会において、その状況において、自分がどのように振舞うべきか、その役割を演じるべきか、ということを学びます。たとえば、私があなたに対して、何か大事なことを言おうとしたとき、少し改まって、やや低い口調にすれば、あなたはおそらく、私が何か大事なことを言おうとしていると察して、「話しを聴く人」という役割を演じ始めると思います。私は、そのために、「大事な話しをする場」という状況を作ったわけです。外科手術で名高いお医者さんを前にしたときは敬意を払うことが求められますし、上司と一緒にいるときは部下としてふさわしい態度を取ることが要求されます。ゴフマンとうい人は、日常生活で私たちは目に見えない台本にしたがって役割を演じている、といいます。

このように、私たちの人間関係は有形無形のもの、それは善意や支援というものも含まれますが、をやり取りし、その時々の状況に応じた役割を演じています。それは、社会のルールに基づいた行為であると同時に、その行為がルールを強化している、と見ることもできます。しかし、お互いが思っている状況やルールが異なるとき、その関係がギクシャクします。

たとえば、看護師が「頭を洗いましょうか」と支援を申し出ても、相手がそれを受け入れない、というような状況を考えて見ましょう。看護師は、これまで習ったことや経験に基づき、看護師としてのルールを背景として、頭を洗いましょうか、という支援を申し出ています。しかし、相手はそれを受け入れず、看護師は面目を失います。これは、看護師と患者という関係づくりに相手が協力しなかった、看護師のルールを押し付けられることを拒否した、と解釈できます。
同じような状況は、服を買いに行ったときにもありませんか。「いらっしゃいませ。何かお探しですか。」と近づいてくることがマニュアル化されているのかもしれませんが、こちらは、見ず知らずの相手に「そうですね」といきなり心を開いて信頼してよいのかどうかを判断します。なぜなら、相手の申し出を受ける、ということは、こちらの要望することが理解されるという信頼が必要ですし、相手の支援を受ける、という立場に自分をおくことを受け入れるという意思表示をすることになります。そうした関係をすぐに結びたくない、と思うので「いや、また後で。」などと距離をとる、つまり、そこに人間関係を成立させない、という反応になるのでしょう。それが、美容室などさらに身体的距離の近いものであれば、なおさら緊張した関係になるかもしれません。

ここで、先に放した社会的通貨としての支援、という考えをもう一度持ってきましょう。つまり、支援を生み出す関係を始めようとするプロセスにおいては、まずその通貨に不均衡が生じるということです。相手から何かを受けるということは、心理的物理的負担を受けるということですので、そこに緊張関係が生まれます。また、支援する、支援を受ける、という役割が要求される、ということです。それは、時に自分の意に沿わないことも受け入れるということです。こうしたハードルが、支援関係を始める前に存在するということです。

3.       成功する支援関係とは?

支援関係について考える際、重要なキーワードとして「ワン・ダウン」があります。これは、支援を求めた場合、人は「一段低い位置」に身をおくことになる、という意味です。たとえば、次にすることがわからない、できない、など一時的に地位や自信を失った状態です。ディズニーの「カーズ」というアニメでは、「なんで男の人って、道に迷っても人に聞かないんだろ」という台詞がありますが、これは、支援を求めることが、自分の問題を自力で解決できないと認めることだというアメリカの文化を背景にしたジョークです。一方、支援を求められる立場は、相対的に「ワン・アップ」、つまり一段高い位置におかれます。そうした支援の申し出を受け入れることで、自分には何かができる、人の役に立っている、と感じたいという誘惑は誰もが持っている、とシャイン先生は言います。みなさんはどうでしょうか。そして、専門的知識や経験を持って支援関係を生業とする人、医者やコンサルタント、教師や看護師は、常に支援を与える人、という役割が与えられます。制度によって権威付けられた「専門」性が、そうした関係を作っていきます。教師について考えますと、こうした「専門性」を生徒や保護者が認めないことで、その支援関係を拒否するわけです。支援関係には、こうした不均衡があるということを自覚した上でそれに対応することが成功する支援関係のために必要です。

4.       支援の種類

(割愛)

5.       控えめな問いかけ 支援関係を築き、維持するための鍵

では、支援関係をどのように始めればよいのでしょうか。それは、「控えめな問いかけ」だといいます。状況を固定概念で決め付けず、相手が本当は何を求めているか、こちらが提示しようとすることは相手にとって適切なものかを考えることが大切です。
たとえば、手術を受けたあとで寝たきりの患者が尿意を催し、看護師に手伝ってほしい、といった場面を考えてみましょう。患者が自尊心を失わずに支援するにはどうしたらよいでしょうか。「どうしてほしいですか。」「一番痛むところはどこですか。」「どこへ連れて行ってほしいですか。」など、相手の真意を引き出すような質問が最初にあったほうが良いのではないでしょうか。
福井県の東尋坊は自殺の名所ですが、そこで自殺防止に取り組んでいらっしゃる人がいるそうです。その方は、危なそうだな、と思う人にどのように声をかける、と思いますか。「どうされましたか。」だそうです。
こうした、相手の情報を求めるような質問を最初にすることで、支援する人は三つの重要なことを成し遂げているといいます。
     何か重要なことを知っているという役割を与え、相手の立場を確立する
     その状況への関心や思い入れを伝えて、一時的であったとしても、人間関係を築く意欲を高める
     重要な情報を得る

最初は、沈黙を保ったまま、ボディランゲージやアイコンタクトを通じてラポールを取る必要があるかもしれません。こちらが黙っていてはどうにも話しが進まない、というときには、次のような促し方もあるでしょう。

     「続けてください。」
     「もっと話してください。」
     「どうなっているか教えてください。」
     「少し詳しく話してもらえますか。」
     「すべてを話してくれましたか。」
     「関連して、他に何か思い浮かびますか。」

重要なことは、問題を前提とした質問で話しを促さないことと言います。具体例を尋ねていくことが大切かもしれません。
そのプロセスをまとめますと、

     相手に主導権を握らせ続け、自分のために問題を能動的に解決する立場を取り戻せるようにすること。
     ある程度まで自分のジレンマを自力で解決できるという自信を与えること
     支援される人と支援する人が協力できるように、多くのデータを明らかにすること

6.       「問いかけ」を活用する

ワンダウン、について日常的な場面から考えて見ましょう。みなさんが家でくつろいでいるとき、家族や恋人から「冷たい飲み物を持ってきてくれない?」と頼まれたとします。このとき、相手は一段低い位置に自分を置くことになり、すぐに対処しなければならない支援の状況を作り出しています。
これまでの話しからすると、最初にどのような控えめな問いかけをすればいいでしょうか。

     少し待って、相手がそれ以上何も要求しないのであれば、頼まれたことをする
     「冷蔵庫に何があったかな」と聴く
     「どんな飲み物がいい?」と聴く

ポイントは、新しい情報が現れるように、会話する余地をつくる、ということです。

病院と関係する事例を考えて見ましょう。アメリカには退院コーディネーターという人がいるそうです。この本の著者であるシャイン先生の奥さんが、ある病院で外科手術をしたところ、感染症を引き起こし病院で9日間、抗生物質の静脈内投与を行わなければならなくなったそうです。ただでさえ、癌の治療で弱っていたところ、退院後も外来で毎日病院に来なくてはいけない、という状況は奥さんにとっても、家族にとっても、いつまた新しい感染があるかもしれない、と不安だったといいます。退院コーディネーターは、病院の近くに住んでいて良かったですね、と言ったそうですが、別の人から訪問看護の選択肢もあったことをきき、そのことを退院コーディネーターに伝えると「それはとても高額なんですよ。それは利用したくないでしょう。」と答えたそうです。この答えに、シャイン先生はとても苛立ちを覚えたといいます。なぜでしょうか。
それは、コーディネーターが勝手に費用という尺度で物事を決めようとしていたためです。シャイン先生にとっては、奥さんの健康や安心感の方が大事だったのです。最初に相手にいくつか質問をしておかなかったために、その退院コーディネーターが親切心で行った支援も、役に立たないものとなったという話です。そして、相手の真意を尋ねる質問をしないということ自体が、相手に対して関心を寄せていないことであり、その無関心さも腹を立てる原因となったといいます。

シャイン先生の奥さんは、その後衰弱し、シャイン先生が介護しなければならない状態となりました。そこで、慢性的な支援が必要とされるときに、つりあいの取れた人間関係を維持することがとても難しいことを理解したといいます。寝室は二階にあり、何か用事があるごとにシャイン先生は階段を上り下りすることになりましたが、奥さんがそのたびに、一段低い位置にいると感じないためにはどうすればよいかを考えたといいます。
その方法の一つが、頼まれるのを待つのではなく、何かないかと、シャイン先生から促すことだったといいます。下に行くついでに何か取ってきてほしいものは無いかとたずねたり、新聞を読んでいたのならそれを渡せばいい。手を貸したいという気持ちをあらかじめ示しておけば、頼みごとをするたびに奥さんがワンダウンの気持ちを味わうこともない。つまり、相手が慢性的に支援を必要とするならば、支援する側がイニシアティブを取って支援を申し出るべきだといいます。
ここは、先ほどの控えめな質問、とは異なります。その違いは、控えめな質問は支援関係の始まりのプロセスについてのことですが、ここでは、慢性的な支援関係について考えているということです。
一方で、うまくいかなかった事例も書かれています。訪問看護師が薬を投与するために家にやってきて、奥さんに体調を尋ねたときのことです。奥さんは、問題ないと答えたのですが、シャイン先生は奥さんのおなかの調子が悪いことを知っていたので、それを伝えたそうです。奥さんは、後で怒ったそうです。その理由を次のように考えています。シャイン先生が口を挟むことで、自分が看護師に伝えた言葉が間違っていたこととなったこと、また医者でもないシャイン先生がそうした判断をすることも適切ではないこと。看護師に対して、自分で病状を伝えることができるという気持ちや機会を、シャイン先生が摘み取ってしまった、と考えます。シャイン先生は、奥さんが何を言うつもりかをあらかじめ聴き、もし看護師や医者との会話の中で何かが省かれていたなら、二人きりの時にそれを伝えるべきかどうかを話し合うようにしたそうです。

支援関係の問題を避けるためには、次の二つのプロセスを取るのがよいといいます。

     支援する人が、自分の内面でおきていることを認識できているか自問する(無意識に相手をワンダウンしていないか、など)
     相手からもっと情報を引き出すために、控えめな質問をする。(どうしてそんなことをしたのか、それが相手にとってどれほど重要なことなのか、など。)

特に、慢性的な支援関係においては、自問することと、必要に応じて役割を変えること(相手が自主的に何かをするようになれば、自分の支援してきた役割をいくつかやめること、たとえそれが見ていてもどかしくても。)を学ぶことが重要だといいます。

7.       チームワークの本質とは

効果的なチームワークは、効果的な相互の支援として理解できます。成果を挙げるチームとは、各メンバーが自分の役割を適切に果たすことによって、他のメンバーを助けているチームだと定義できます。つまり、チームワークの本質とは、すべてのメンバーにおける相互の支援を発達させ、持続させることです。
エイミー・エドモンドソンという人は16の外科チームを研究し、成果を挙げた7つのチームが他のチームとどのように違っていたのかを発見しました。成功したチームは、支援が必要であると初めから認識し、公平な人間関係を育てていたといいます。一方、成功しなかったチームは、自分を主役とみなす外科医たちであり、他のメンバーを単に仕事をする「スキルを備えた補助スタッフ」として扱っていたといいます。ここで大事な教訓は、グループの中でより高い地位にある人間が、他人の言葉に積極的に耳を傾けることによって謙虚な姿勢を見せるチームは、ほとんどの場合、うまくいくという点です。
チームのリーダーは、メンバーが次の4つの問題について安心感が得られるような状況をつくる必要があるといいます。

     私はどんな人間になればいいのか。このグループでの私の役割は何か。
     このグループで、私はどれくらいのコントロール、あるいは影響を及ぼすことになるか。
     このグループで、私は自分の目標、あるいは要求を果たすことができるか。
     このグループで、人々はどれくらい親しくなるだろうか。

こうした問題に対して考えるためにも、成果の振り返りを通じてチームとして何がうまくいき、何を向上させる必要があるのかを知り、役割を検証し、互いに交渉できるようにすることが大事だといいます。そのためには、フィードバックのあり方も大切です。外科チームの振り返りで、外科医が「看護師にはもっと自発的な行動をとってほしい。」といっても、看護師はどういう意味かわからないかもしれません。「私が○○に苦労していると気づいたら、△△を渡してもらえると助かる。」というほうがはっきりします。また、看護師が外科医に「もっとコミュニケーションをとってほしい。」というよりも、「○○のときに、私に△△をしてほしいのでしたら、そうおっしゃってくれませんか。」といったほうが建設的です。また、「私が器具を渡すやり方に満足いただけましたか。」とか、「仕事がもっと楽になるように、私にできることはありましたか。」というフィードバックの求め方もあるでしょう。

シャイン先生が奥さんのがん治療に付き添っている間、看護師や技術者が必要な情報を集めるために様々な形で質問し、可能なときには患者に選択肢を与えていたそうです。血液を取る際にも、「今日はどちらの腕にしますか。」とか「気分はいかがですか。」などと尋ねていたといいます。選択肢を示して、相手を巻き込むということはワンダウンの気持ちを改善させる、といいます。最も役に立った看護師は、「どんな調子ですか」といった自由に答えられる質問をして、注意深くその答えに耳を傾けていましたが、役に立たなかった看護師は副作用について憶測し、起こってもいないことについて助言する人だったそうです。

8.       支援するリーダーと組織というクライアント

(割愛)

9.       支援関係における7つの原則とコツ

原則1 与える側も受け入れる側も用意ができているとき、効果的な支援が生じる
 支援を申し出たり、与えたり、受け入れたりする前に、自分の感情と意図をよく調べる
 支援したいとか、支援されたいという自分の欲求がよくわかる
 支援しようという努力が快く受け入れられなくても、腹を立てない

原則2 支援関係が公平なものだとみなされたとき、効果的な支援が生まれる
 相手の本当の望むのは何か、どうすればよいかを必ず尋ねる
 自分が支援を受ける側なら、何が役に立ち、役に立たないかをフィードバックをする

原則3 支援者が適切な支援の役割を果たしているとき、支援は効果的に行われる
 相手の状況を調べ、状況に応じて支援の形を変える
 支援する状況が続く中で、自分の演じる役割が役に立つのかどうかを定期的に調べる
 支援される側であれば、助けにならないと感じたら、相手のそれを伝える

原則4 あなたの言動すべてが、人間関係の将来を決定づける介入である
 支援する側:自分の言動のすべてを評価する
 支援される側:自分のあらゆる言動が相手のメッセージを伝えている
 フィードバックは、現状の記述にとどめ、判断は最小限にする
 不適切な励ましは最小限にする
 不適切な修正は最小限にする

原則5 効果的な支援は純粋な問いかけとともに始まる
 純粋な問いかけからつねに始めるべきである。
 求められた支援がいつもと同じように聞こえても、新しい要求だと考えよう

原則6 問題を抱えている当事者は相手
 関係を築くまでは、相手の話の内容に関心を示しすぎない
 あなたが知っている問題に似ているように見えても、それは他人の問題である

原則7 すべての答えを得ることはできない
 支援の対象となる問題を分かち合う

「型」について


「型」について

「型」とはなんでしょうか。なぜ、看護師や教育を語るうえで「型」という言葉を持ち出すのでしょうか。
まず、「型」と聞いて何を思い浮かべますか?

例えば、「型」にはこんなものがあります。



インドのお菓子の「型」・・パターンpattern。鋳型mold。ものを作る(造る)とき、形状の原型とするもの。金型、鋳型、型紙、型枠、セルクル(洋菓子用)など。各々の型から形状を複製して、目的物を作る。底のない型のことを枠(フレーム)とも呼ぶ。

19「型」テレビ・・・サイズsize。国際単位系に移行したためインチを表す単位。工業製品などの規格サイズなど。


ガンキャノン量産「型」・・・モデルmodel。設計。一定の設計に基づく機械、工業製品の集合、あるいはその設計要項



911「型」ポルシェ・・・種類・タイプtype

構造。生物や生物型機械(ロボット)の外観・基本構造。ネコ型ロボットならcat type、ヒト型ロボットならhumanoid。ロボットは人の代わりに作業をする装置の意味。


血液「型」もblood type[group]



「型」くずれ・・・lose shape


「型」どおりのあいさつ・・・formal greeting


「型」やぶりの・・・unconventional,novel


ここで考えたいのは、以下のような身体技法としての「型」です。


空手の「型」・・・規範動作・フォームform 空手などの武道や、能、歌舞伎、日本舞踊といった芸能などで、規範となる動きの連続。「機械、工業製品の型とは違い、カタに嵌ったものではないし、そうであってはならない」という主張からか、形と書く場合も多い。


日本の伝統芸能の「型」





南郷継正「武道とは何か―武道要綱」三一書房、1997
空手家。独自の「唯物論的弁証法」により武道・空手を科学として解明したとし、自らを各学問領域を網羅した哲学者と称している。氏や玄和会については洗脳と評するブログもあり。


「・・・形の本質は<見事なる技の創出と保持>にある。すなわち<形>なくして技の創出はないのであり、その保持もおぼつかないのである。」(p.137

「<形>の本来の意義は、<見事なる技の創出>と、その創出した技の崩れをきたさないための<見事なる技の保持>とにあるのである。」(p.152

つまり、その状況に応じた最高のパフォーマンスを発揮するには、その瞬間に最も適した技がでるような<形>が身体化されていなければならない。例えば、イチローは準備運動から身体の調子を丁寧に感じ取ることに注意を払っているが、それは自分がイメージする<形>が絶妙のタイミングで発揮するため。


「からだ」と「こころ」は密接にかかわっている。ここで、少し「からだ」に関する言葉としてどんなものがあるかを考えてみましょう。まず、「腑に落ちる」という言葉があります。納得するという意味ですが、「腑」は内臓、つまり身体の奥底まで響く、ということです。他に、「からだ」に関する言葉はありますか?



湯浅泰雄「身体論―東洋的心身論と現代」講談社学術文庫、1990

「「心身一如」という言葉があるが、これは内面的瞑想と外面的行動の両者が向かう理想的境地を意味する。」(p.19

「道具とは身体の延長である」(p.56

「禅の修行は、(略)まず一定の「形(かたち)」に入ることを教える。(略)身体をそういう「形」にあてはめることから、自分の「心」のあり方を正してゆくという順序をとる。」(pp.132-133

なぜ、こうしたことに着目されたのか。それは、哲学においては身体と頭は別々のものという二元論があったから。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」といったけど、本当にそうか?と。何も考えてなければ存在しないのか、という問題は現代も脳死という現象をどのようにとらえるかを左右する。では、考えているだけで家に閉じこもっている、という状態はどうか。考えていることを伝える際、話すにせよ、書くにせよ、そこに身体が媒介される。そして、私たちはおそらく、自分で考えているようには話していないし、書けていない。逆に話している中で、書く中で、つまり身体的動作をすることを通じて、考えている、ともいえる。そして、この行為が人と人とのコミュニケーションを成立させる。
では、その哲学者が、どのように日本の伝統芸能を捉えたかを見てみよう。

オイゲン・ヘリゲル著 稲富栄次郎・上田武訳「弓と禅」福村出版、1981

 1884320 - 1955418日。新カント派の哲学者で、ラスクに学ぶ。1924年に東北帝国大学に招かれる。
新カント派とは、1870年代から1920年代にドイツで興ったカント的な認識論復興運動。カントは、現象と物自体を厳密に区別し、理性を批判したのであるが、ドイツ観念論は、それを克服する形で発展していった。新カント派は、当時西欧を席巻しつつあった無規範な科学的思惟に対抗した。特にマルクス主義は、精神や文化を物質の因果律により支配されるものとしていたため、人間もまた因果律に支配された機械とみなそうとしていると危惧し、彼らを批判して、カントに習い先験的道徳律の樹立と、精神と文化の価値の復権を試み、因果律に支配される「存在」の世界から「当為」の領域を確立しようとしたのだった。

ここでも、ある「型」通りの身体動作をすることが、平常心をつくり、その無心がパフォーマンスにつながることを示す記述がある。筆者のヘリゲル氏は、弓射の極意である<放れ>(あえて言えば、時が満ちて、自然と矢が弓から離れる状況。「射つ」という意思がそこにあってはならないとされる。)がつかめずに苦悩する。しかし、次第に師範が行う一つ一つの動作に意味があること、そこには日本の伝統芸能に共通する考えがあることに気づく。例えば、

「彼(墨絵師)は筆を点検して慎重にその手筈を整え、墨を念入りにすり、彼の前の畳の上にある細長い画仙紙(がせんし)の位置を直し、」(p.75)、「生け花の師は、まず花や花の枝を束ねている麻紐を用心深く解き、これを念入りにくるくる巻いて側に置きながら、その稽古を始める。」(p.76

そして、ヘリゲル氏は、日本の伝統芸能における教育について、次のように述べる。

「形式を支配し得る状態に達するよう教育することが実に日本的な教授の狙いなのである。
(略)師の演技と模範に対して弟子が自己を打ち込みこれを模倣することーこれが指導の基本的な関係である。(略)日本の弟子は三つのことを身につけてくる。善いしつけと、自分の選んだ芸術に対する情熱的な愛と、師に対する批判抜きの尊敬である。」(pp.72-73

「模倣は継承によって名人境の精神を分有するようになるのである。」(p.83

これらは、日本の伝統芸能や武道において「型」という身体動作を模倣し、無心にその動作がでるまで徹底的に反復する作業により、その「型」に潜む世界観を身体でつかみとるという習得の仕方に言及している。「師」への批判抜きの尊敬を伴う模倣を「威光模倣」という。ヘリゲル氏は、著書の中で度々、師匠に「質問」することで破門されかかっている。

技術を一つ一つ分解し体系化するのでなく、その世界観と一緒となった<わざ>を伝えるためには、しばしば比喩的表現が用いられる。

「あなたは引き絞った弦を、いわば幼児がさし出された指を握るように抑えねばなりません。」(pp.56-57

「積もった雪が竹の笹から落ちるように、射は射手が射放そうと考えぬうちに自ら落ちてこなければならないのです。」(p.86

また、この著作の中で興味深いのは、道具との一体化である。

「弓は自身の中に“一切”を包摂する。」(p.39


教育学者の齋藤孝は、身体技法に着目し、現代の教育について考える。


齋藤 孝
19601031日~。明治大学教授。「声に出して読みたい日本語」。


まず、これまで考えてきた「型」について、わかりやすい説明があるので見てみましょう。

「(帯は肚感覚に基づく思想であり、)課題は・・・「力を引き出すために的確な制約や抵抗を設定する」ことにある。「型」は、こうした意味での抵抗である。」(「身体感覚を取り戻す[腰・ハラ文化の再生]NHKブックス、2000,p.31

「技を磨く砥石の典型は、型である。優れた型は、一つの物差しとなって自分の一回一回のパフォーマンスの質を確かめやすくさせる。」(同,p.73

「技の伝授に際しては、緊張感の共有が必要である。(略) 場自体がすでに持つ威厳や緊張感を補助的に利用するという点に教育者としての工夫がある。」(同,p.96

「(幸田露伴という作家が娘に掃除の稽古をつける際に)物は自分の身をもって接する道具である。(略)修練を通じて、自分の身体の延長ともなるものである。(略)技は、身体の動きの習慣の集積であり、身体図式の形成である。(略)道具と技は不可分の関係にある」(同,p.97

「型の効用は、現実の状況に対して有効なパフォーマンスを生み出しうるかどうかによって評価される。したがって、型それ自体がいいか悪いかを論じることは妥当ではない。」(同,p.99

「(型は自由を制限するものと考えられているが)しかし、それがよい型であれば、人を自由にするものである。手紙の書き方の型をある程度知っていることによって、むしろ手紙は書きやすくなる。(略)型のひとつの特徴は、型の意味をすべて理解する以前に反復することがもとめられる点にある。(略)型は、その型の効用を身をもって知っている人間が、それをまだ知らない人間に対して強制力をもって習わせるものである。したがって、型はそもそもが教育的概念である。これが、型とたんなる形との違いでもある。
型はその上、一瞬の姿形ではなく、一連の行為の流れをもふくむ。行動のプログラムも型である。複数の動きの形の間の関係を、しっかり意味づけているのが型である。(略)型の本来の意義は、フィードバック機能を活性化させることにある。(略)型は、混沌とした世界に座標軸を立てるようなものである。(略)型は、個々の動きのズレを修正するための基準線である。」(同,pp.100-101

「型は、無意識と意識の境を往復するものである」(同,p.104

「型と技の本質は、限定することにある。限定することは、不自由な非生産的なイメージでとらえられやすい。しかし、限定することによって生み出される力というものがある。ホースの蛇口を細く狭めることによって、水量が同じでも水の飛ぶ勢いがまし、絞り込む前には届かなかった地点まで水を飛ばすことができる。」(同,p.105

「型は、非常に高レベルに達した者のパフォーマンスを凝縮したものである。」(同,p.111

齋藤氏は特に息づかいに着目しますがそこは割愛し、ここでは書くことと実践についての記述を一つだけ見ておきましょう。

「子どもの学びの変化の「見え」は、現象を捉える言葉によって豊かになる。その教師自身の文体(スタイル)によってなされている実践記録には、その教師の観ている世界が映し出されている。学びという出来事を記述する自分の文体を磨くということは、その教師の学習観を鍛える。「文体の技化」は、世界の観方と不可分だからである。」(「教師=身体という技術 構え・感知力・技化」世織書房、1997年、p.283

これは、教師が生徒を「見る=理解する」という<わざ>を習得するためには、自身の教育実践と子どもの様子を記述することが有効ということが書かれていますが、逆のことも言えます。忙しい中、報告のために「書く」という習慣がついてしまうと視野が狭まる、ということです。

まとめますと、「型」とは
・<技>を創出し保存する身体動作
・<からだ>と<こころ>を媒介する
・単に身体技法を伝えるのでなく、その世界観や価値観を具現化する<わざ>を伝える
ということになろうかと思います。

では、実習前に自分が理想とする看護師像を漢字一文字で表して頂きましたが、実習でその漢字に合致するような体験を思い出してみてください。先輩の看護師の身体技法に着目し、それを「○○の身体技法」、例えば「優しさの身体技法」と名付けてみてください。それを副題とし、「私の理想とする看護師の「型」-○○の身体技法」という題で400字の作文を書いてみてください。