ヘルバルト著・三枝孝弘訳『一般教育学』1960年明治図書
この本は3部構成であり、教育一般の目的、興味の多面性、強固な道徳的品性について述べられている。全体で200ページ程度の本書の中で、有名である「専心と致思」「明瞭 連合 系統 方法」が述べられているのは第二部の興味の多面性である。
「われわれが人を教育しようとしたり、教育してもらおうとする際に、どんなねがいをこめているかは、その際、その人が教育するということを一体どんなこと、どれだけのことと考えているかという、視野の大小によってちがうものである。」と始まる序論は、どれだけ手を施しても、社会からの影響の大きさに翻弄されてしまうという教育者の嘆きを紹介する。そして、ルソーは少なくとも「子どもを鍛えておこう」という視野を限っている点は評価するものの、教える目的が「生きる」こととされている点を不服としている。また、ロックは世の中にうまく順応できることを目指しているものの、子どもを世に立たせようと心がけている親にとって教育書などは価値がなく、もし足しになるとしても技巧の末節に堕落させるだけだと言い放つ。ヘルバルトが次に挙げるのは、子どもは世俗から逸脱はしてほしくないが、埋没もしてほしくない、と願う親である。こうした親は、自分の感情や趣味を時宜に会うように、よい加減に合わせてくれるような教師を頭の中に持っているのだという。では、果たしてそのための教育はどのようにして可能になるのだろうか。次の指摘は、今もなお教育学の根本にある課題を問いただす。「人々はみんな自分の経験をもとにしていっている。(略)教育によって一体何が可能であるか、何をどのようにして子どもたちと達成することができるか、ということをすべて、彼らは自分たちの経験からきめることができるだろうか。」(15ページ)
このように問いを立て、ヘルバルトは「どう教育しようとしているかを知ること」「人が何を欲しているかを見定めること」(18ページ)を出発点にする。「教育者にとってどこが大切であるべきか、ということが地図のように」(18ページ)、「このような地図を、どのような種類の経験を探し出し準備すべきかを知ろうと願っている未経験者のために」(19ページ)という点は、デューイの構想に少なからず影響を与えたと推察できる。(ここでは、デューイがヘルバルトをどのように批判したかについて述べる準備はない)
「どのようなことを目指して教育者は自分の仕事に取りかかるべきであるか、このような実際的な熟慮、つまり、われわれが今まで見通してきたことに即して選び出される具体的な方策にいたるまで、ともかく前もって詳述することが私にとって教育学の第一の反面である。」「これに対して第二の半面が当然存在するが、そこでは、教育の可能性が理論的に明らかにされ、また、その可能性は変化しやすい具体的諸状況に応じて制約されるものとして述べられるだろう。」(19ページ)という記述にこそ、ヘルバルトが教育学の成立上欠かせない人物たらしめたといえる。そして、「教育学は、教育者にとって必要な科学であるが、しかしまた教育者は、相手に伝達するために必要な科学知識をもっていなければならない。そして私は、この際、教授のない教育などというものの存在を認めないしまた逆に、少なくともこの書物においては、教育しないいかなる教授もみとめない。」(19ページ)という記述こそ、ヘルバルトをコメニウスに続く注入主義の立ち位置に置く根拠となった。
その記述の中に、すでに女性を下に見る視座が埋め込まれていることは、読者の歓心を呼ぼうとする今日の著述家にも共通していて(20ページ)、それはそれとして興味深いが、着目すべきは「教授のない教育」という問題と合わせて、「品性はどのようにして陶冶することができるだろうか」(21ページ)という点である。この品性と道徳に関するヘルバルトの記述こそ、古代から現代を貫く教育の課題である。
第一部
教育一般の目的
ヘルバルトは、この章を「子どもを管理することの目的と措置」の考察から始める。管理が有効になるためには、権威と愛が必要だと(37ページ)言う。これを父性と母性に対置すること(39ページ)について深く追求することはしないが、いかめしく権威を取り繕うのでなく、率直に子どもと関わり、愛を持って子どもと接する姿勢を説いていることには着目したい。「愛は疑いを好まないし、定言的命令を待たないものだ。」という結びは、いかにもドイツ人らしい堅苦しさをもった詩的表現である(45-47ページ)。
第二部
興味の多面性
ヘルバルトは、ある物事に興味を持って取り組むこと(専心)から、別のことに興味を持ち、それらがどのように統合していくのか(致思)について、多面性というアプローチから考えをめぐらす。そして、それを可能とする教育的技術こそ教育的タクトの本質であるという(69ページ)。ヘルバルトは専心は交替し、致思に移行し、再び新しい専心へと移行すべきと考える(70ページ)。それは、つぎのようなプロセスを踏む。
まず、何かに専心するときは、不透明なものは教育者の配慮によって除かれ、多数の異なった専心が提示される(明瞭)。ある物事に専心し、他のことに専心することは、表象を連合する。そこには想像が漂い、様々な混合を試す。ここで対比することが大事となる(連合)。このようにして考えるとき、様々な物事の関係を見ている、ということとなる。ただし、これは一つ一つの物事が明瞭に把握されていなければ、その秩序は見えない(系統)。そして、ヘルバルトは、そのようにして把握した物事の系統、秩序、関係を発展させ、新しい分節を生み出し、徹底的な応用を喚起することまでを陶冶することが大事だと言う(方法)(70-71ページ)。
ヘルバルトは、教授の段階について節を設けている(87ページ)。「専心は致思に先行すべきである」とし、教えるものにとっては、「本来の個は何であるかということを見出すこと」の困難さを指摘する(89ページ)。ヘルバルトは、先に挙げた教授の四段階についてここで説明を加え、注意、期待、要求、行動という段階を示す。そして、教授の分析的進行と総合的進行として、経験、思弁、趣味、人間への同情、社会に対する同情、宗教について述べる(118-130ページ)。
「われわれは学校のためにではなくて、生活のために学ばなければならない」(138ページ)
ヘルバルトが取り上げたこの箴言は、フレーベル、デューイ、キルパトリックが場所と時を越えて繰り返し述べる。また、「思弁と趣味は、[致思]と人格の錨である」(139ページ)という言葉も、読む人の目を引く。
第三部
強固な道徳的品性
(割愛)
解説
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