吉澤昇・為本六花治・梶尾輝久『ルソー エミール入門』有斐閣新書1989年
上・中・下はそれぞれ今野一雄『エミール』岩波文庫1997
ルソーにおける教育と人間の思想
『社会契約論』(1762) 「人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている」 =人間は自分達が作った社会と制度に縛られ、自由を奪われている。
→「自然へ帰れ」
→ルソーの思索の中心課題 一切の非人間的抑圧から自由になる人間の生き方と、それにふさわしい社会のあり方の探求
「生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。」(上33)
→社会に囚われた人間への批判として架空の生徒を設定し、その理想的発達を描く
「わたしたちは学ぶ能力があるものとして生まれる」(上69」
→発達の可能態=学習の可能態
子ども 理性の眠りの時期 教育を受ける準備
0-1歳 言葉以前の感覚の時代
~12歳 自然と事物の掟を知る時期
~15歳 力が欲望を上回って発達する理性の目覚めの時期
15歳~ 安らかな知性の時期 自律
青年 第二の誕生であり危機の時代
成人
消極教育
自然の歩みに沿い、子どもの発達段階に即したもの
「大人が知っていなければならないことを全て子どもが学ぶ必要はなく、また学ぶこともできない」(上312)
「時を稼ぐために時を無駄にすることを心得ていなければならない」(上236)
「自然は子どもが大人になる前に子どもであることを望んでいる」(上125)
「農夫のように働き哲学者のように思考する人間」(上364)
青年の発見と本格的教育の開始
「わたしたちは二回この世に生まれる。はじめは存在するために、次には生きるために。一度目は類として、二度目は性として」(中5)
自然の歩み 体と感覚の訓練 精神と判断力の訓練 感情→理性の完成
行動し、思考する存在→人を愛する存在→社会的関係の中で、生得的感情としての良心に導かれ、有徳な人となる
教師ー生徒→弟子ではあるが、友人でもある 真の教師の権威が求められる
「生徒がいつも自分は主人だと思っていながら、いつも教師が主人である」(上191)というだまされた自由でなく、エミール自らその意思に基づいて従う。
「話をしてもむだになるのは、たいていのばあい、弟子が悪いからでなく、むしろ先生が悪いからだ。衒学者も教師もほぼ同じようなことを述べる。ただ、それは衒学者はあらゆる機会に述べる。教師はその効果が確実と思われる時にだけ述べる。」(中232)
「わたしたちの弱さそのものからわたしたちのはかない幸福が生まれてくる」(中26)→共苦と共感による連帯の思想 人間に共通の弱さと惨めさ、それに共感する心こそ人間の条件
「理性だけが私たちに善悪を知ることを教える。」(上81)→良心は理性なしに発達しない
エミールの最後の学習課題 政治体と主権の本質、国家の構成員として主権に参与する市民の義務 政治・倫理・歴史・旅行
『エミール』と現代
ペスタロッチ、フレーベル、デューイ、クルプスカヤを仲立ちとし、障害児教育に身を置いたセガンやモンテッソーリの感覚教育論の中に引き継がれて、新教育運動の流れを作る。
序
『エミール』は哲学的著作であり、実践的教育書ではない。したがって、本当にこのまま「自然」に教育することについては、ルソー自身は賛成していない。
思想としての「子どもの発見」は民族史的手法でたどったアリエスの研究にすでに見られる。しかし、ルソーの子どもの発見の重要な特色は、子どもに関する観察と事実の上に立って行われた実験哲学的な発見である点にある。そして、19世紀以降の児童心理学や発達心理学の発展の出発点を提供したところに、その本質がある。
第1・2編
「造物主の手を出る時は凡そ全てのものが善であるが、人間の手に移されると凡ての物が悪くなってしまう」(上23)
→『エミール』は、自然と社会の相剋を問題として出発する
「あらゆる有用なことのなかでも一番有用なこと、つまり人間を造る技術(art)はまだ忘れられている」(上18)
→ルソーにとって、教育とはあくまでも一つの技術であり、無為自然のことではない。
子どもの魂のまわりに「垣根」を巡らすことから教育を始める→思考実験としての「垣根」=社会から隔離されていたと仮定して、どのような人間発達が理想か
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