「型」について
「型」とはなんでしょうか。なぜ、看護師や教育を語るうえで「型」という言葉を持ち出すのでしょうか。
まず、「型」と聞いて何を思い浮かべますか?
例えば、「型」にはこんなものがあります。
インドのお菓子の「型」・・パターンpattern。鋳型mold。ものを作る(造る)とき、形状の原型とするもの。金型、鋳型、型紙、型枠、セルクル(洋菓子用)など。各々の型から形状を複製して、目的物を作る。底のない型のことを枠(フレーム)とも呼ぶ。
19「型」テレビ・・・サイズsize。国際単位系に移行したためインチを表す単位。工業製品などの規格サイズなど。
ガンキャノン量産「型」・・・モデルmodel。設計。一定の設計に基づく機械、工業製品の集合、あるいはその設計要項
911「型」ポルシェ・・・種類・タイプtype。
構造。生物や生物型機械(ロボット)の外観・基本構造。ネコ型ロボットならcat type、ヒト型ロボットならhumanoid。ロボットは人の代わりに作業をする装置の意味。
血液「型」もblood type[group]
「型」くずれ・・・lose shape
「型」どおりのあいさつ・・・formal greeting
「型」やぶりの・・・unconventional,novel
ここで考えたいのは、以下のような身体技法としての「型」です。
空手の「型」・・・規範動作・フォームform 空手などの武道や、能、歌舞伎、日本舞踊といった芸能などで、規範となる動きの連続。「機械、工業製品の型とは違い、カタに嵌ったものではないし、そうであってはならない」という主張からか、形と書く場合も多い。
日本の伝統芸能の「型」
南郷継正「武道とは何か―武道要綱」三一書房、1997年
空手家。独自の「唯物論的弁証法」により武道・空手を科学として解明したとし、自らを各学問領域を網羅した哲学者と称している。氏や玄和会については洗脳と評するブログもあり。
「・・・形の本質は<見事なる技の創出と保持>にある。すなわち<形>なくして技の創出はないのであり、その保持もおぼつかないのである。」(p.137)
「<形>の本来の意義は、<見事なる技の創出>と、その創出した技の崩れをきたさないための<見事なる技の保持>とにあるのである。」(p.152)
つまり、その状況に応じた最高のパフォーマンスを発揮するには、その瞬間に最も適した技がでるような<形>が身体化されていなければならない。例えば、イチローは準備運動から身体の調子を丁寧に感じ取ることに注意を払っているが、それは自分がイメージする<形>が絶妙のタイミングで発揮するため。
「からだ」と「こころ」は密接にかかわっている。ここで、少し「からだ」に関する言葉としてどんなものがあるかを考えてみましょう。まず、「腑に落ちる」という言葉があります。納得するという意味ですが、「腑」は内臓、つまり身体の奥底まで響く、ということです。他に、「からだ」に関する言葉はありますか?
湯浅泰雄「身体論―東洋的心身論と現代」講談社学術文庫、1990年
「「心身一如」という言葉があるが、これは内面的瞑想と外面的行動の両者が向かう理想的境地を意味する。」(p.19)
「道具とは身体の延長である」(p.56)
「禅の修行は、(略)まず一定の「形(かたち)」に入ることを教える。(略)身体をそういう「形」にあてはめることから、自分の「心」のあり方を正してゆくという順序をとる。」(pp.132-133)
なぜ、こうしたことに着目されたのか。それは、哲学においては身体と頭は別々のものという二元論があったから。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」といったけど、本当にそうか?と。何も考えてなければ存在しないのか、という問題は現代も脳死という現象をどのようにとらえるかを左右する。では、考えているだけで家に閉じこもっている、という状態はどうか。考えていることを伝える際、話すにせよ、書くにせよ、そこに身体が媒介される。そして、私たちはおそらく、自分で考えているようには話していないし、書けていない。逆に話している中で、書く中で、つまり身体的動作をすることを通じて、考えている、ともいえる。そして、この行為が人と人とのコミュニケーションを成立させる。
では、その哲学者が、どのように日本の伝統芸能を捉えたかを見てみよう。
オイゲン・ヘリゲル著 稲富栄次郎・上田武訳「弓と禅」福村出版、1981年
1884年3月20日 - 1955年4月18日。新カント派の哲学者で、ラスクに学ぶ。1924年に東北帝国大学に招かれる。
新カント派とは、1870年代から1920年代にドイツで興ったカント的な認識論復興運動。カントは、現象と物自体を厳密に区別し、理性を批判したのであるが、ドイツ観念論は、それを克服する形で発展していった。新カント派は、当時西欧を席巻しつつあった無規範な科学的思惟に対抗した。特にマルクス主義は、精神や文化を物質の因果律により支配されるものとしていたため、人間もまた因果律に支配された機械とみなそうとしていると危惧し、彼らを批判して、カントに習い先験的道徳律の樹立と、精神と文化の価値の復権を試み、因果律に支配される「存在」の世界から「当為」の領域を確立しようとしたのだった。
ここでも、ある「型」通りの身体動作をすることが、平常心をつくり、その無心がパフォーマンスにつながることを示す記述がある。筆者のヘリゲル氏は、弓射の極意である<放れ>(あえて言えば、時が満ちて、自然と矢が弓から離れる状況。「射つ」という意思がそこにあってはならないとされる。)がつかめずに苦悩する。しかし、次第に師範が行う一つ一つの動作に意味があること、そこには日本の伝統芸能に共通する考えがあることに気づく。例えば、
「彼(墨絵師)は筆を点検して慎重にその手筈を整え、墨を念入りにすり、彼の前の畳の上にある細長い画仙紙(がせんし)の位置を直し、」(p.75)、「生け花の師は、まず花や花の枝を束ねている麻紐を用心深く解き、これを念入りにくるくる巻いて側に置きながら、その稽古を始める。」(p.76)
そして、ヘリゲル氏は、日本の伝統芸能における教育について、次のように述べる。
「形式を支配し得る状態に達するよう教育することが実に日本的な教授の狙いなのである。
(略)師の演技と模範に対して弟子が自己を打ち込みこれを模倣することーこれが指導の基本的な関係である。(略)日本の弟子は三つのことを身につけてくる。善いしつけと、自分の選んだ芸術に対する情熱的な愛と、師に対する批判抜きの尊敬である。」(pp.72-73)
「模倣は継承によって名人境の精神を分有するようになるのである。」(p.83)
これらは、日本の伝統芸能や武道において「型」という身体動作を模倣し、無心にその動作がでるまで徹底的に反復する作業により、その「型」に潜む世界観を身体でつかみとるという習得の仕方に言及している。「師」への批判抜きの尊敬を伴う模倣を「威光模倣」という。ヘリゲル氏は、著書の中で度々、師匠に「質問」することで破門されかかっている。
技術を一つ一つ分解し体系化するのでなく、その世界観と一緒となった<わざ>を伝えるためには、しばしば比喩的表現が用いられる。
「あなたは引き絞った弦を、いわば幼児がさし出された指を握るように抑えねばなりません。」(pp.56-57)
「積もった雪が竹の笹から落ちるように、射は射手が射放そうと考えぬうちに自ら落ちてこなければならないのです。」(p.86)
また、この著作の中で興味深いのは、道具との一体化である。
「弓は自身の中に“一切”を包摂する。」(p.39)
教育学者の齋藤孝は、身体技法に着目し、現代の教育について考える。
齋藤 孝
1960年10月31日~。明治大学教授。「声に出して読みたい日本語」。
まず、これまで考えてきた「型」について、わかりやすい説明があるので見てみましょう。
「(帯は肚感覚に基づく思想であり、)課題は・・・「力を引き出すために的確な制約や抵抗を設定する」ことにある。「型」は、こうした意味での抵抗である。」(「身体感覚を取り戻す[腰・ハラ文化の再生]NHKブックス、2000年,p.31)
「技を磨く砥石の典型は、型である。優れた型は、一つの物差しとなって自分の一回一回のパフォーマンスの質を確かめやすくさせる。」(同,p.73)
「技の伝授に際しては、緊張感の共有が必要である。(略) 場自体がすでに持つ威厳や緊張感を補助的に利用するという点に教育者としての工夫がある。」(同,p.96)
「(幸田露伴という作家が娘に掃除の稽古をつける際に)物は自分の身をもって接する道具である。(略)修練を通じて、自分の身体の延長ともなるものである。(略)技は、身体の動きの習慣の集積であり、身体図式の形成である。(略)道具と技は不可分の関係にある」(同,p.97)
「型の効用は、現実の状況に対して有効なパフォーマンスを生み出しうるかどうかによって評価される。したがって、型それ自体がいいか悪いかを論じることは妥当ではない。」(同,p.99)
「(型は自由を制限するものと考えられているが)しかし、それがよい型であれば、人を自由にするものである。手紙の書き方の型をある程度知っていることによって、むしろ手紙は書きやすくなる。(略)型のひとつの特徴は、型の意味をすべて理解する以前に反復することがもとめられる点にある。(略)型は、その型の効用を身をもって知っている人間が、それをまだ知らない人間に対して強制力をもって習わせるものである。したがって、型はそもそもが教育的概念である。これが、型とたんなる形との違いでもある。
型はその上、一瞬の姿形ではなく、一連の行為の流れをもふくむ。行動のプログラムも型である。複数の動きの形の間の関係を、しっかり意味づけているのが型である。(略)型の本来の意義は、フィードバック機能を活性化させることにある。(略)型は、混沌とした世界に座標軸を立てるようなものである。(略)型は、個々の動きのズレを修正するための基準線である。」(同,pp.100-101)
「型は、無意識と意識の境を往復するものである」(同,p.104)
「型と技の本質は、限定することにある。限定することは、不自由な非生産的なイメージでとらえられやすい。しかし、限定することによって生み出される力というものがある。ホースの蛇口を細く狭めることによって、水量が同じでも水の飛ぶ勢いがまし、絞り込む前には届かなかった地点まで水を飛ばすことができる。」(同,p.105)
「型は、非常に高レベルに達した者のパフォーマンスを凝縮したものである。」(同,p.111)
齋藤氏は特に息づかいに着目しますがそこは割愛し、ここでは書くことと実践についての記述を一つだけ見ておきましょう。
「子どもの学びの変化の「見え」は、現象を捉える言葉によって豊かになる。その教師自身の文体(スタイル)によってなされている実践記録には、その教師の観ている世界が映し出されている。学びという出来事を記述する自分の文体を磨くということは、その教師の学習観を鍛える。「文体の技化」は、世界の観方と不可分だからである。」(「教師=身体という技術 構え・感知力・技化」世織書房、1997年、p.283)
これは、教師が生徒を「見る=理解する」という<わざ>を習得するためには、自身の教育実践と子どもの様子を記述することが有効ということが書かれていますが、逆のことも言えます。忙しい中、報告のために「書く」という習慣がついてしまうと視野が狭まる、ということです。
まとめますと、「型」とは
・<技>を創出し保存する身体動作
・<からだ>と<こころ>を媒介する
・単に身体技法を伝えるのでなく、その世界観や価値観を具現化する<わざ>を伝える
ということになろうかと思います。
では、実習前に自分が理想とする看護師像を漢字一文字で表して頂きましたが、実習でその漢字に合致するような体験を思い出してみてください。先輩の看護師の身体技法に着目し、それを「○○の身体技法」、例えば「優しさの身体技法」と名付けてみてください。それを副題とし、「私の理想とする看護師の「型」-○○の身体技法」という題で400字の作文を書いてみてください。
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