水曜日, 9月 12, 2012

エドガー・シャイン著「人を助けるとはどういうことか」


人を助けるとはどういうことか 説明

だれかを支援することが求められる関係は、どこにでもあります。親子、友達、恋人、夫婦、先生と生徒、女子と部下、患者と看護師。今日は、相手を尊重しつつ、相手が問題解決するプロセスを支えるためにどうすればいいか、を考えたいと思います。

まず、次の場面について、自分ならどう答えるかを考えてみてください。

「○○にはどのように行けばいいのですか。」と、自分になじみの場所で、見知らぬ人に尋ねられた時、あなたならどう答えますか。


ここでのポイントは、相手が本当はどこに行きたいのかをまず確認することが大事です。例えば、道に迷って恥ずかしという気持ちから、本当の目的地ではなく、そこまで行けば後はわかるという地点を尋ねていることもあるでしょうし、相手が思っている道順が実は遠回りになっている、ということもあります。自分は支援しているつもりでも、実は相手の役立っていないひとりよがりの支援をしていることがあります。あまり知らない相手に対していきなり「こうしたほうがいいですよ」という答えをする前に、まず相手のことを知らなければいけない、ということです。

もう一つ、質問をしてみましょう。

「一緒に行くパーティだけど、どの服を着ていけばいいかしら」と、恋人に聞かれた時、あなたならどう答えますか。

これは、もしかすると、どの服を着ても似合うと応えて相手に愛情があることを伝えることが正解かもしれませんし、新しい服を買ってほしいというメッセージを読み取って、一緒に買いに行くことが正解かもしれません。

今日の話は、エドガー・シャインという人の書いた「人を助けるということ」という本を題材にしています。先の2つの質問は、それを訳した人が書いたものです。シャイン先生は、組織について専門家で多くの企業の支援をしてきましたが、この本を自分の奥さんに捧げています。結婚生活は50年に及んでいます。つまり、50年に渡って、支援について考え、実践してきたことを書いた本です。


支援は、人間関係の基本ですが、意外にもこれが関係する感情的なダイナミクスにはあまり知られていません。なぜ友人を助けようとしたのにそっけなく断られるのか。経験的に理解しているのは、支援を受ける人との間に一定の理解と信頼がなければいけない、ということです。理解が必要なのは、いつ支援を申し出ればいいか、助けを求められた場合はどうすれば役に立つかを知るためです。また、信頼が必要なのは、真の問題が何かを突き止めるためです。そして、提供された支援を受け入れ、支援者との会話から生まれた解決策を実行するため、とシャインは言います(p.12)。


1.       人を助けるとはどういうことか

 役に立つ支援と役に立たない支援を分けるのは何なのでしょうか。自分の経験を振り返って、一度それぞれの例を考えてもらえますか?

(役に立った支援とうまくいかなかった支援をそれぞれ考える)

例えば、コンピューターの使い方や、クレジットカードをなくしたときの電話での対応などは、相手は細かなステップを踏んでいるつもりでも、こちらは全く要領を得ずにイライラすることがあります。
「おせっかい」という言葉もあります。こちらの問題とまったくかけ離れた提案や申し出を相手がしてきて、それを断ると、自分は役に立とうとしているのに、それを受け入れないあなたはどうかしている、といわれたことはないですか。
例えば、弟や妹がいる場合、別に友だちでもいいですが、宿題を教えて、といってきたとき、本当は宿題ではなく、別のことを相談したかった、ということもあるかもしれません。
つまり、人を助ける、または支援する、ということは支援者になる可能性がある人と、支援を受ける可能性がある人との最初の接触から、支援を生み出す関係へとどう発展していくかという人間関係のプロセスを理解することが必要だということです。


2.       経済と演劇 人間関係における究極のルール

人間関係におけるルールにはどのようなものがあるでしょうか。これを、経済と演劇の二つの観点から考えて見ましょう。
私がアメリカでホームステイをしていたとき、アメリカの子どもが最初に学ぶ言葉は、プリーズとサンキューだと言われました。アメリカの高校は遠いので、家族に車で迎えに来てもらう必要があります。そのとき、ホームステイ先の子どもが電話で「Pick me up, Mam」と言ったのと同じように言うと、「Please」をつけなさい、といわれました。そして、迎えに来てもらったら、「Thank you」と言うのです。当たり前のことですが、これは人間関係の原則を示しています。「ありがとう」という言葉は返礼であり、お返しの行為です。

社会はこうした交換のシステムでできているといいます。マリノフスキーという人は、パプアニューギニアの島々ではクラ交易と呼ばれる部族間の品物のやり取りがあるといいます。これは、貝で作られた首飾りや腕輪というものを、島から島へ受け渡し、2年から10年かけて一周するといいます。こうした儀式を通じて、海を隔てて離れた部族との交流が生まれ、そこに社会が生じています。甲子園の優勝旗を持ちまわりする、というイメージを持ってもらうと良いでしょう。それは、単なる経済行為ではなく、威信や名誉もそこに引っ付いてきます。なんだかよく分からないものをやり取りする、というのは日本の結納にも似ていますね。レヴィ=ストロースという人類学者は、婚姻関係とは女性の交換システムであり、近親婚が生じないようにする構造がある、と、ジェンダーの観点から言うとえらく批判を受けそうなことを言っています。また、モースという人は「贈与論」という本の中で、アメリカのインディアン社会では裕福な家族や部族が他の人を招待して豪華な祝宴を開き、富を再分配するポトラッチという文化について書いています。

教室で先生が騒がしい生徒に対して「注目。」というとき、英語で言えば「Pay attention」ですが、そこに「支払う」という言葉が含まれるように、生徒に対して自分の話を聴いてほしいという要求をしているわけです。ここで、生徒がその要求を受け入れないと、先生は面目を失うわけですね。そうすると、先生も、その生徒に対して、熱心に教えようという気持ちが萎えていくでしょう。そこには、お互いに面目を保ち、要求し、それを受け入れるという関係が微妙なバランスで現れています。

さて、私たちは支援を生み出す関係について考えているわけですが、たとえば、支援というのは一つの社会的通貨、お金だと考えて見ましょう。すると、先ほどの贈る、受け取るという関係は、「Pay」「Pay back」という関係、持ちつ持たれつ、相手がしてくれたから、こちらもお返しする、という関係の中で、「支援」という行為がお金のようにやり取りされていると考えることもできます。「Pay Forward」という映画は、こうした閉じた関係でなく、自分が受けた支援を、次の誰かに渡す、ラグビーのようにどんどん後ろにつないでいく、という別の関係の可能性について考えられました。

話しがそれましたが、人間関係においては、何かを贈り、それに返礼する、それが期待されている、という関係があることを、私たちは経験的に知っています。

もう一つ、私たちは社会において、その状況において、自分がどのように振舞うべきか、その役割を演じるべきか、ということを学びます。たとえば、私があなたに対して、何か大事なことを言おうとしたとき、少し改まって、やや低い口調にすれば、あなたはおそらく、私が何か大事なことを言おうとしていると察して、「話しを聴く人」という役割を演じ始めると思います。私は、そのために、「大事な話しをする場」という状況を作ったわけです。外科手術で名高いお医者さんを前にしたときは敬意を払うことが求められますし、上司と一緒にいるときは部下としてふさわしい態度を取ることが要求されます。ゴフマンとうい人は、日常生活で私たちは目に見えない台本にしたがって役割を演じている、といいます。

このように、私たちの人間関係は有形無形のもの、それは善意や支援というものも含まれますが、をやり取りし、その時々の状況に応じた役割を演じています。それは、社会のルールに基づいた行為であると同時に、その行為がルールを強化している、と見ることもできます。しかし、お互いが思っている状況やルールが異なるとき、その関係がギクシャクします。

たとえば、看護師が「頭を洗いましょうか」と支援を申し出ても、相手がそれを受け入れない、というような状況を考えて見ましょう。看護師は、これまで習ったことや経験に基づき、看護師としてのルールを背景として、頭を洗いましょうか、という支援を申し出ています。しかし、相手はそれを受け入れず、看護師は面目を失います。これは、看護師と患者という関係づくりに相手が協力しなかった、看護師のルールを押し付けられることを拒否した、と解釈できます。
同じような状況は、服を買いに行ったときにもありませんか。「いらっしゃいませ。何かお探しですか。」と近づいてくることがマニュアル化されているのかもしれませんが、こちらは、見ず知らずの相手に「そうですね」といきなり心を開いて信頼してよいのかどうかを判断します。なぜなら、相手の申し出を受ける、ということは、こちらの要望することが理解されるという信頼が必要ですし、相手の支援を受ける、という立場に自分をおくことを受け入れるという意思表示をすることになります。そうした関係をすぐに結びたくない、と思うので「いや、また後で。」などと距離をとる、つまり、そこに人間関係を成立させない、という反応になるのでしょう。それが、美容室などさらに身体的距離の近いものであれば、なおさら緊張した関係になるかもしれません。

ここで、先に放した社会的通貨としての支援、という考えをもう一度持ってきましょう。つまり、支援を生み出す関係を始めようとするプロセスにおいては、まずその通貨に不均衡が生じるということです。相手から何かを受けるということは、心理的物理的負担を受けるということですので、そこに緊張関係が生まれます。また、支援する、支援を受ける、という役割が要求される、ということです。それは、時に自分の意に沿わないことも受け入れるということです。こうしたハードルが、支援関係を始める前に存在するということです。

3.       成功する支援関係とは?

支援関係について考える際、重要なキーワードとして「ワン・ダウン」があります。これは、支援を求めた場合、人は「一段低い位置」に身をおくことになる、という意味です。たとえば、次にすることがわからない、できない、など一時的に地位や自信を失った状態です。ディズニーの「カーズ」というアニメでは、「なんで男の人って、道に迷っても人に聞かないんだろ」という台詞がありますが、これは、支援を求めることが、自分の問題を自力で解決できないと認めることだというアメリカの文化を背景にしたジョークです。一方、支援を求められる立場は、相対的に「ワン・アップ」、つまり一段高い位置におかれます。そうした支援の申し出を受け入れることで、自分には何かができる、人の役に立っている、と感じたいという誘惑は誰もが持っている、とシャイン先生は言います。みなさんはどうでしょうか。そして、専門的知識や経験を持って支援関係を生業とする人、医者やコンサルタント、教師や看護師は、常に支援を与える人、という役割が与えられます。制度によって権威付けられた「専門」性が、そうした関係を作っていきます。教師について考えますと、こうした「専門性」を生徒や保護者が認めないことで、その支援関係を拒否するわけです。支援関係には、こうした不均衡があるということを自覚した上でそれに対応することが成功する支援関係のために必要です。

4.       支援の種類

(割愛)

5.       控えめな問いかけ 支援関係を築き、維持するための鍵

では、支援関係をどのように始めればよいのでしょうか。それは、「控えめな問いかけ」だといいます。状況を固定概念で決め付けず、相手が本当は何を求めているか、こちらが提示しようとすることは相手にとって適切なものかを考えることが大切です。
たとえば、手術を受けたあとで寝たきりの患者が尿意を催し、看護師に手伝ってほしい、といった場面を考えてみましょう。患者が自尊心を失わずに支援するにはどうしたらよいでしょうか。「どうしてほしいですか。」「一番痛むところはどこですか。」「どこへ連れて行ってほしいですか。」など、相手の真意を引き出すような質問が最初にあったほうが良いのではないでしょうか。
福井県の東尋坊は自殺の名所ですが、そこで自殺防止に取り組んでいらっしゃる人がいるそうです。その方は、危なそうだな、と思う人にどのように声をかける、と思いますか。「どうされましたか。」だそうです。
こうした、相手の情報を求めるような質問を最初にすることで、支援する人は三つの重要なことを成し遂げているといいます。
     何か重要なことを知っているという役割を与え、相手の立場を確立する
     その状況への関心や思い入れを伝えて、一時的であったとしても、人間関係を築く意欲を高める
     重要な情報を得る

最初は、沈黙を保ったまま、ボディランゲージやアイコンタクトを通じてラポールを取る必要があるかもしれません。こちらが黙っていてはどうにも話しが進まない、というときには、次のような促し方もあるでしょう。

     「続けてください。」
     「もっと話してください。」
     「どうなっているか教えてください。」
     「少し詳しく話してもらえますか。」
     「すべてを話してくれましたか。」
     「関連して、他に何か思い浮かびますか。」

重要なことは、問題を前提とした質問で話しを促さないことと言います。具体例を尋ねていくことが大切かもしれません。
そのプロセスをまとめますと、

     相手に主導権を握らせ続け、自分のために問題を能動的に解決する立場を取り戻せるようにすること。
     ある程度まで自分のジレンマを自力で解決できるという自信を与えること
     支援される人と支援する人が協力できるように、多くのデータを明らかにすること

6.       「問いかけ」を活用する

ワンダウン、について日常的な場面から考えて見ましょう。みなさんが家でくつろいでいるとき、家族や恋人から「冷たい飲み物を持ってきてくれない?」と頼まれたとします。このとき、相手は一段低い位置に自分を置くことになり、すぐに対処しなければならない支援の状況を作り出しています。
これまでの話しからすると、最初にどのような控えめな問いかけをすればいいでしょうか。

     少し待って、相手がそれ以上何も要求しないのであれば、頼まれたことをする
     「冷蔵庫に何があったかな」と聴く
     「どんな飲み物がいい?」と聴く

ポイントは、新しい情報が現れるように、会話する余地をつくる、ということです。

病院と関係する事例を考えて見ましょう。アメリカには退院コーディネーターという人がいるそうです。この本の著者であるシャイン先生の奥さんが、ある病院で外科手術をしたところ、感染症を引き起こし病院で9日間、抗生物質の静脈内投与を行わなければならなくなったそうです。ただでさえ、癌の治療で弱っていたところ、退院後も外来で毎日病院に来なくてはいけない、という状況は奥さんにとっても、家族にとっても、いつまた新しい感染があるかもしれない、と不安だったといいます。退院コーディネーターは、病院の近くに住んでいて良かったですね、と言ったそうですが、別の人から訪問看護の選択肢もあったことをきき、そのことを退院コーディネーターに伝えると「それはとても高額なんですよ。それは利用したくないでしょう。」と答えたそうです。この答えに、シャイン先生はとても苛立ちを覚えたといいます。なぜでしょうか。
それは、コーディネーターが勝手に費用という尺度で物事を決めようとしていたためです。シャイン先生にとっては、奥さんの健康や安心感の方が大事だったのです。最初に相手にいくつか質問をしておかなかったために、その退院コーディネーターが親切心で行った支援も、役に立たないものとなったという話です。そして、相手の真意を尋ねる質問をしないということ自体が、相手に対して関心を寄せていないことであり、その無関心さも腹を立てる原因となったといいます。

シャイン先生の奥さんは、その後衰弱し、シャイン先生が介護しなければならない状態となりました。そこで、慢性的な支援が必要とされるときに、つりあいの取れた人間関係を維持することがとても難しいことを理解したといいます。寝室は二階にあり、何か用事があるごとにシャイン先生は階段を上り下りすることになりましたが、奥さんがそのたびに、一段低い位置にいると感じないためにはどうすればよいかを考えたといいます。
その方法の一つが、頼まれるのを待つのではなく、何かないかと、シャイン先生から促すことだったといいます。下に行くついでに何か取ってきてほしいものは無いかとたずねたり、新聞を読んでいたのならそれを渡せばいい。手を貸したいという気持ちをあらかじめ示しておけば、頼みごとをするたびに奥さんがワンダウンの気持ちを味わうこともない。つまり、相手が慢性的に支援を必要とするならば、支援する側がイニシアティブを取って支援を申し出るべきだといいます。
ここは、先ほどの控えめな質問、とは異なります。その違いは、控えめな質問は支援関係の始まりのプロセスについてのことですが、ここでは、慢性的な支援関係について考えているということです。
一方で、うまくいかなかった事例も書かれています。訪問看護師が薬を投与するために家にやってきて、奥さんに体調を尋ねたときのことです。奥さんは、問題ないと答えたのですが、シャイン先生は奥さんのおなかの調子が悪いことを知っていたので、それを伝えたそうです。奥さんは、後で怒ったそうです。その理由を次のように考えています。シャイン先生が口を挟むことで、自分が看護師に伝えた言葉が間違っていたこととなったこと、また医者でもないシャイン先生がそうした判断をすることも適切ではないこと。看護師に対して、自分で病状を伝えることができるという気持ちや機会を、シャイン先生が摘み取ってしまった、と考えます。シャイン先生は、奥さんが何を言うつもりかをあらかじめ聴き、もし看護師や医者との会話の中で何かが省かれていたなら、二人きりの時にそれを伝えるべきかどうかを話し合うようにしたそうです。

支援関係の問題を避けるためには、次の二つのプロセスを取るのがよいといいます。

     支援する人が、自分の内面でおきていることを認識できているか自問する(無意識に相手をワンダウンしていないか、など)
     相手からもっと情報を引き出すために、控えめな質問をする。(どうしてそんなことをしたのか、それが相手にとってどれほど重要なことなのか、など。)

特に、慢性的な支援関係においては、自問することと、必要に応じて役割を変えること(相手が自主的に何かをするようになれば、自分の支援してきた役割をいくつかやめること、たとえそれが見ていてもどかしくても。)を学ぶことが重要だといいます。

7.       チームワークの本質とは

効果的なチームワークは、効果的な相互の支援として理解できます。成果を挙げるチームとは、各メンバーが自分の役割を適切に果たすことによって、他のメンバーを助けているチームだと定義できます。つまり、チームワークの本質とは、すべてのメンバーにおける相互の支援を発達させ、持続させることです。
エイミー・エドモンドソンという人は16の外科チームを研究し、成果を挙げた7つのチームが他のチームとどのように違っていたのかを発見しました。成功したチームは、支援が必要であると初めから認識し、公平な人間関係を育てていたといいます。一方、成功しなかったチームは、自分を主役とみなす外科医たちであり、他のメンバーを単に仕事をする「スキルを備えた補助スタッフ」として扱っていたといいます。ここで大事な教訓は、グループの中でより高い地位にある人間が、他人の言葉に積極的に耳を傾けることによって謙虚な姿勢を見せるチームは、ほとんどの場合、うまくいくという点です。
チームのリーダーは、メンバーが次の4つの問題について安心感が得られるような状況をつくる必要があるといいます。

     私はどんな人間になればいいのか。このグループでの私の役割は何か。
     このグループで、私はどれくらいのコントロール、あるいは影響を及ぼすことになるか。
     このグループで、私は自分の目標、あるいは要求を果たすことができるか。
     このグループで、人々はどれくらい親しくなるだろうか。

こうした問題に対して考えるためにも、成果の振り返りを通じてチームとして何がうまくいき、何を向上させる必要があるのかを知り、役割を検証し、互いに交渉できるようにすることが大事だといいます。そのためには、フィードバックのあり方も大切です。外科チームの振り返りで、外科医が「看護師にはもっと自発的な行動をとってほしい。」といっても、看護師はどういう意味かわからないかもしれません。「私が○○に苦労していると気づいたら、△△を渡してもらえると助かる。」というほうがはっきりします。また、看護師が外科医に「もっとコミュニケーションをとってほしい。」というよりも、「○○のときに、私に△△をしてほしいのでしたら、そうおっしゃってくれませんか。」といったほうが建設的です。また、「私が器具を渡すやり方に満足いただけましたか。」とか、「仕事がもっと楽になるように、私にできることはありましたか。」というフィードバックの求め方もあるでしょう。

シャイン先生が奥さんのがん治療に付き添っている間、看護師や技術者が必要な情報を集めるために様々な形で質問し、可能なときには患者に選択肢を与えていたそうです。血液を取る際にも、「今日はどちらの腕にしますか。」とか「気分はいかがですか。」などと尋ねていたといいます。選択肢を示して、相手を巻き込むということはワンダウンの気持ちを改善させる、といいます。最も役に立った看護師は、「どんな調子ですか」といった自由に答えられる質問をして、注意深くその答えに耳を傾けていましたが、役に立たなかった看護師は副作用について憶測し、起こってもいないことについて助言する人だったそうです。

8.       支援するリーダーと組織というクライアント

(割愛)

9.       支援関係における7つの原則とコツ

原則1 与える側も受け入れる側も用意ができているとき、効果的な支援が生じる
 支援を申し出たり、与えたり、受け入れたりする前に、自分の感情と意図をよく調べる
 支援したいとか、支援されたいという自分の欲求がよくわかる
 支援しようという努力が快く受け入れられなくても、腹を立てない

原則2 支援関係が公平なものだとみなされたとき、効果的な支援が生まれる
 相手の本当の望むのは何か、どうすればよいかを必ず尋ねる
 自分が支援を受ける側なら、何が役に立ち、役に立たないかをフィードバックをする

原則3 支援者が適切な支援の役割を果たしているとき、支援は効果的に行われる
 相手の状況を調べ、状況に応じて支援の形を変える
 支援する状況が続く中で、自分の演じる役割が役に立つのかどうかを定期的に調べる
 支援される側であれば、助けにならないと感じたら、相手のそれを伝える

原則4 あなたの言動すべてが、人間関係の将来を決定づける介入である
 支援する側:自分の言動のすべてを評価する
 支援される側:自分のあらゆる言動が相手のメッセージを伝えている
 フィードバックは、現状の記述にとどめ、判断は最小限にする
 不適切な励ましは最小限にする
 不適切な修正は最小限にする

原則5 効果的な支援は純粋な問いかけとともに始まる
 純粋な問いかけからつねに始めるべきである。
 求められた支援がいつもと同じように聞こえても、新しい要求だと考えよう

原則6 問題を抱えている当事者は相手
 関係を築くまでは、相手の話の内容に関心を示しすぎない
 あなたが知っている問題に似ているように見えても、それは他人の問題である

原則7 すべての答えを得ることはできない
 支援の対象となる問題を分かち合う

「型」について


「型」について

「型」とはなんでしょうか。なぜ、看護師や教育を語るうえで「型」という言葉を持ち出すのでしょうか。
まず、「型」と聞いて何を思い浮かべますか?

例えば、「型」にはこんなものがあります。



インドのお菓子の「型」・・パターンpattern。鋳型mold。ものを作る(造る)とき、形状の原型とするもの。金型、鋳型、型紙、型枠、セルクル(洋菓子用)など。各々の型から形状を複製して、目的物を作る。底のない型のことを枠(フレーム)とも呼ぶ。

19「型」テレビ・・・サイズsize。国際単位系に移行したためインチを表す単位。工業製品などの規格サイズなど。


ガンキャノン量産「型」・・・モデルmodel。設計。一定の設計に基づく機械、工業製品の集合、あるいはその設計要項



911「型」ポルシェ・・・種類・タイプtype

構造。生物や生物型機械(ロボット)の外観・基本構造。ネコ型ロボットならcat type、ヒト型ロボットならhumanoid。ロボットは人の代わりに作業をする装置の意味。


血液「型」もblood type[group]



「型」くずれ・・・lose shape


「型」どおりのあいさつ・・・formal greeting


「型」やぶりの・・・unconventional,novel


ここで考えたいのは、以下のような身体技法としての「型」です。


空手の「型」・・・規範動作・フォームform 空手などの武道や、能、歌舞伎、日本舞踊といった芸能などで、規範となる動きの連続。「機械、工業製品の型とは違い、カタに嵌ったものではないし、そうであってはならない」という主張からか、形と書く場合も多い。


日本の伝統芸能の「型」





南郷継正「武道とは何か―武道要綱」三一書房、1997
空手家。独自の「唯物論的弁証法」により武道・空手を科学として解明したとし、自らを各学問領域を網羅した哲学者と称している。氏や玄和会については洗脳と評するブログもあり。


「・・・形の本質は<見事なる技の創出と保持>にある。すなわち<形>なくして技の創出はないのであり、その保持もおぼつかないのである。」(p.137

「<形>の本来の意義は、<見事なる技の創出>と、その創出した技の崩れをきたさないための<見事なる技の保持>とにあるのである。」(p.152

つまり、その状況に応じた最高のパフォーマンスを発揮するには、その瞬間に最も適した技がでるような<形>が身体化されていなければならない。例えば、イチローは準備運動から身体の調子を丁寧に感じ取ることに注意を払っているが、それは自分がイメージする<形>が絶妙のタイミングで発揮するため。


「からだ」と「こころ」は密接にかかわっている。ここで、少し「からだ」に関する言葉としてどんなものがあるかを考えてみましょう。まず、「腑に落ちる」という言葉があります。納得するという意味ですが、「腑」は内臓、つまり身体の奥底まで響く、ということです。他に、「からだ」に関する言葉はありますか?



湯浅泰雄「身体論―東洋的心身論と現代」講談社学術文庫、1990

「「心身一如」という言葉があるが、これは内面的瞑想と外面的行動の両者が向かう理想的境地を意味する。」(p.19

「道具とは身体の延長である」(p.56

「禅の修行は、(略)まず一定の「形(かたち)」に入ることを教える。(略)身体をそういう「形」にあてはめることから、自分の「心」のあり方を正してゆくという順序をとる。」(pp.132-133

なぜ、こうしたことに着目されたのか。それは、哲学においては身体と頭は別々のものという二元論があったから。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」といったけど、本当にそうか?と。何も考えてなければ存在しないのか、という問題は現代も脳死という現象をどのようにとらえるかを左右する。では、考えているだけで家に閉じこもっている、という状態はどうか。考えていることを伝える際、話すにせよ、書くにせよ、そこに身体が媒介される。そして、私たちはおそらく、自分で考えているようには話していないし、書けていない。逆に話している中で、書く中で、つまり身体的動作をすることを通じて、考えている、ともいえる。そして、この行為が人と人とのコミュニケーションを成立させる。
では、その哲学者が、どのように日本の伝統芸能を捉えたかを見てみよう。

オイゲン・ヘリゲル著 稲富栄次郎・上田武訳「弓と禅」福村出版、1981

 1884320 - 1955418日。新カント派の哲学者で、ラスクに学ぶ。1924年に東北帝国大学に招かれる。
新カント派とは、1870年代から1920年代にドイツで興ったカント的な認識論復興運動。カントは、現象と物自体を厳密に区別し、理性を批判したのであるが、ドイツ観念論は、それを克服する形で発展していった。新カント派は、当時西欧を席巻しつつあった無規範な科学的思惟に対抗した。特にマルクス主義は、精神や文化を物質の因果律により支配されるものとしていたため、人間もまた因果律に支配された機械とみなそうとしていると危惧し、彼らを批判して、カントに習い先験的道徳律の樹立と、精神と文化の価値の復権を試み、因果律に支配される「存在」の世界から「当為」の領域を確立しようとしたのだった。

ここでも、ある「型」通りの身体動作をすることが、平常心をつくり、その無心がパフォーマンスにつながることを示す記述がある。筆者のヘリゲル氏は、弓射の極意である<放れ>(あえて言えば、時が満ちて、自然と矢が弓から離れる状況。「射つ」という意思がそこにあってはならないとされる。)がつかめずに苦悩する。しかし、次第に師範が行う一つ一つの動作に意味があること、そこには日本の伝統芸能に共通する考えがあることに気づく。例えば、

「彼(墨絵師)は筆を点検して慎重にその手筈を整え、墨を念入りにすり、彼の前の畳の上にある細長い画仙紙(がせんし)の位置を直し、」(p.75)、「生け花の師は、まず花や花の枝を束ねている麻紐を用心深く解き、これを念入りにくるくる巻いて側に置きながら、その稽古を始める。」(p.76

そして、ヘリゲル氏は、日本の伝統芸能における教育について、次のように述べる。

「形式を支配し得る状態に達するよう教育することが実に日本的な教授の狙いなのである。
(略)師の演技と模範に対して弟子が自己を打ち込みこれを模倣することーこれが指導の基本的な関係である。(略)日本の弟子は三つのことを身につけてくる。善いしつけと、自分の選んだ芸術に対する情熱的な愛と、師に対する批判抜きの尊敬である。」(pp.72-73

「模倣は継承によって名人境の精神を分有するようになるのである。」(p.83

これらは、日本の伝統芸能や武道において「型」という身体動作を模倣し、無心にその動作がでるまで徹底的に反復する作業により、その「型」に潜む世界観を身体でつかみとるという習得の仕方に言及している。「師」への批判抜きの尊敬を伴う模倣を「威光模倣」という。ヘリゲル氏は、著書の中で度々、師匠に「質問」することで破門されかかっている。

技術を一つ一つ分解し体系化するのでなく、その世界観と一緒となった<わざ>を伝えるためには、しばしば比喩的表現が用いられる。

「あなたは引き絞った弦を、いわば幼児がさし出された指を握るように抑えねばなりません。」(pp.56-57

「積もった雪が竹の笹から落ちるように、射は射手が射放そうと考えぬうちに自ら落ちてこなければならないのです。」(p.86

また、この著作の中で興味深いのは、道具との一体化である。

「弓は自身の中に“一切”を包摂する。」(p.39


教育学者の齋藤孝は、身体技法に着目し、現代の教育について考える。


齋藤 孝
19601031日~。明治大学教授。「声に出して読みたい日本語」。


まず、これまで考えてきた「型」について、わかりやすい説明があるので見てみましょう。

「(帯は肚感覚に基づく思想であり、)課題は・・・「力を引き出すために的確な制約や抵抗を設定する」ことにある。「型」は、こうした意味での抵抗である。」(「身体感覚を取り戻す[腰・ハラ文化の再生]NHKブックス、2000,p.31

「技を磨く砥石の典型は、型である。優れた型は、一つの物差しとなって自分の一回一回のパフォーマンスの質を確かめやすくさせる。」(同,p.73

「技の伝授に際しては、緊張感の共有が必要である。(略) 場自体がすでに持つ威厳や緊張感を補助的に利用するという点に教育者としての工夫がある。」(同,p.96

「(幸田露伴という作家が娘に掃除の稽古をつける際に)物は自分の身をもって接する道具である。(略)修練を通じて、自分の身体の延長ともなるものである。(略)技は、身体の動きの習慣の集積であり、身体図式の形成である。(略)道具と技は不可分の関係にある」(同,p.97

「型の効用は、現実の状況に対して有効なパフォーマンスを生み出しうるかどうかによって評価される。したがって、型それ自体がいいか悪いかを論じることは妥当ではない。」(同,p.99

「(型は自由を制限するものと考えられているが)しかし、それがよい型であれば、人を自由にするものである。手紙の書き方の型をある程度知っていることによって、むしろ手紙は書きやすくなる。(略)型のひとつの特徴は、型の意味をすべて理解する以前に反復することがもとめられる点にある。(略)型は、その型の効用を身をもって知っている人間が、それをまだ知らない人間に対して強制力をもって習わせるものである。したがって、型はそもそもが教育的概念である。これが、型とたんなる形との違いでもある。
型はその上、一瞬の姿形ではなく、一連の行為の流れをもふくむ。行動のプログラムも型である。複数の動きの形の間の関係を、しっかり意味づけているのが型である。(略)型の本来の意義は、フィードバック機能を活性化させることにある。(略)型は、混沌とした世界に座標軸を立てるようなものである。(略)型は、個々の動きのズレを修正するための基準線である。」(同,pp.100-101

「型は、無意識と意識の境を往復するものである」(同,p.104

「型と技の本質は、限定することにある。限定することは、不自由な非生産的なイメージでとらえられやすい。しかし、限定することによって生み出される力というものがある。ホースの蛇口を細く狭めることによって、水量が同じでも水の飛ぶ勢いがまし、絞り込む前には届かなかった地点まで水を飛ばすことができる。」(同,p.105

「型は、非常に高レベルに達した者のパフォーマンスを凝縮したものである。」(同,p.111

齋藤氏は特に息づかいに着目しますがそこは割愛し、ここでは書くことと実践についての記述を一つだけ見ておきましょう。

「子どもの学びの変化の「見え」は、現象を捉える言葉によって豊かになる。その教師自身の文体(スタイル)によってなされている実践記録には、その教師の観ている世界が映し出されている。学びという出来事を記述する自分の文体を磨くということは、その教師の学習観を鍛える。「文体の技化」は、世界の観方と不可分だからである。」(「教師=身体という技術 構え・感知力・技化」世織書房、1997年、p.283

これは、教師が生徒を「見る=理解する」という<わざ>を習得するためには、自身の教育実践と子どもの様子を記述することが有効ということが書かれていますが、逆のことも言えます。忙しい中、報告のために「書く」という習慣がついてしまうと視野が狭まる、ということです。

まとめますと、「型」とは
・<技>を創出し保存する身体動作
・<からだ>と<こころ>を媒介する
・単に身体技法を伝えるのでなく、その世界観や価値観を具現化する<わざ>を伝える
ということになろうかと思います。

では、実習前に自分が理想とする看護師像を漢字一文字で表して頂きましたが、実習でその漢字に合致するような体験を思い出してみてください。先輩の看護師の身体技法に着目し、それを「○○の身体技法」、例えば「優しさの身体技法」と名付けてみてください。それを副題とし、「私の理想とする看護師の「型」-○○の身体技法」という題で400字の作文を書いてみてください。

日曜日, 8月 26, 2012

教育ルポやビデオ

ピーターの教室 
青い目や茶色い目で差別する社会実験
http://commonpost.boo.jp/?p=44643

ルポタージュにっぽん 壁とよばれた少年
NHKアーカイブ(データなし)
http://nhk.jp/chronicle/?B10001200998005240130031

木曜日, 7月 19, 2012

いじめ 担任の考えるべきこと


●担任が考えるべきこと

(1)児童・生徒の状況及び変化の把握
いじめの初期で発見し、その段階で「いじめは許さない」という態度で対処し、観衆(C)や傍観者(D)がいじめる子(B)にならないようにする。

(2)児童・生徒との信頼関係
(1)の指導が成立するためには、信頼して情報を寄せたり安心して相談を持ちかけられる関係が成立している必要がある。その前提条件として、教科指導など教師としての専門的能力や、人間的な面での尊敬の念が必要とされる。

(3)いじめを発見した場合

①いじめられた子の話しを聞き、その子の立場に立ち、慎重に対処する。
(よくない事例)生徒AとBのいじめ的関係について生徒Cが先生に相談した時、「注意したから大丈夫だ」というだけで終わる。もっと時間をかけて生徒と話し合ってほしい。(豊川市の中学3年生)


②「絶対にいじめは許さない」という態度で臨む
学級だけでなく、学校全体で厳格な態度で対処する。いじめグループ(B)に対しては、それぞれの子どもを、時に個別に、時にグループとして面談し、面談する。この時、担任だけでなく、校長や主だった先生も同席し、両親を含め、学校が断固とした処置をとることを態度で示す。もし、いじめを教師に知らせたことで報復があるような事態となれば、停学や退学などの処罰があることを示すことが再発防止につながる。金品の恐喝や暴行の程度がひどい場合は、警察に知らせ、法的な処置を受けさせる。


③学校と家庭が緊密な連絡を取り、協力して問題の解決に当たる

④いじめる側の言い分を聞く

⑤SOS信号がでている場合、いじめグループ(B)といじめられっ子(A)を隔離し保護する
いじめを受けている子どもの話しを無条件に受け入れて聴く。コメントや支持的な付け加えをしない。励まさない。非難しない。感情レベルでの共感的理解を重視する。自殺を決意させるほどの心理的危機は比較的短い期間しか続かないと言われる。早くて4~5日、遅くて2~3カ月で消えることが分かっている。心理的危機を先延ばしにする。身近な人が自殺することで、残された人は心理的負担を負う。一人の人間が死ぬと平均7~8人の人が嘆き悲しむことが分かっており、何人かが後追い自殺をする。

●いじめを解決した事例

渡邊(1996)は文献の整理から、つぎのことを述べている 。

(1)いじめをいかに把握するか

①複数の教師が手分けして事情を聴く(情報の出所は隠す、うわさの域を出ないという形にする、教師がたまたま見聞きしたという形にする)

②教師が実際に目で確認する

③クラス全員にアンケートを取る

(2)いじめられている子にどうかかわるべきか

いじめられている子が被害を言わない理由
みっともない、恥ずかしい、仕返しが怖い、親に心配をかけたくない、教師に行っても解決しない、いじめられている事実を受け入れたくない、孤立するよりまし、話すことによりつらい経験を追体験しなければならない。

①いじめられている子を即時に保護する。いじめている子に会わないようにする。

②つらさを十分に聴いて認め、心から理解を示す。

③「お前にも欠点がある」と言わない。

④「人生ではもっとつらいことがある。これくらいでくじけるな。強くなれ。」と言わない。

⑤孤立させない。

⑥教師が折に触れ声をかける

⑦いじめの記録を書かせる。証拠の品を残す。

⑧別室での個別授業を保障する。不登校になった場合は訪問授業をして学習権を保障する。

(3)いじめている子にはどうかかわるべきか

①よわいものいじめは許されないという認識、態度で臨む。いじめたつもりがなくても相手はいじめと感じていること、仕返しは卑怯であることを含めて。

②一方的な説教にしない。問題児童というレッテルを貼らない。いじめをやりたくなる背景、やめられないつらさに目を向ける。内省の機会を与える。良いところを発見し、頑張りどころを見出し、将来への希望が持てるようにする。追いつめず、逃げ道を残す。

(割愛)

⑤「どうして?」は非難されている感情を引き起こすので、避ける。

⑥特別指導プログラムを個別、集団で組む。

⑦警察、指導相談書、家庭裁判所の協力を仰ぐ。

(4)親との関わり

①いじめをなくすために徹底して戦う姿勢を伝える。実態理解の目的でアンケート実施もよい。

②親との信頼関係を作る。冷静に親の話しを聴き、立場を理解する。教師は「一生懸命やっている」「何度も指導している」など自分の正当化をしない。いじめられている保護者に対して「騒ぎすぎ」「いじめられる方にも問題がある」、いじめている保護者に対して「家でちゃんと教育しているのか」など責めない。話合いは継続して行う。

③学校、教師の考えや姿勢を表明する。現在どう取り組んでいるか、今後どうしていくのかを具体的に述べる。

④こどもを全体的に理解するために、家庭での様子を聴く。学校での様子を伝える。

⑤家庭訪問をする。

⑥緊急父母会、PTA会合を開く。欠席者にも議事録や情報を伝える。

いじめられている子の親に対して:緊急時であることを認識していないような発言をしない、謙虚に謝罪する勇気、学校だけで難しい場合は他の機関の紹介

いじめている子の親に対して:単純に子どもを悪者扱いしない、補償や弁償については合理的に解決できるよう取り計らう、家庭での指導を約束し実行されているかを確認する、あらかじめ個人面談を行ったうえで集団面談を行う

直接関わっていない子の親に対して:当事者だけでなくオープンにすることが効果的、傍観者という立場はいじめていることだという考えを貫く、日記、感想文、手記などを材料に話合いを繰り返す、いじめについて共同で学習する、ルールを作る、学校全体での話合いに勧める

(5)教師間の連携

①複数の教師で手分けして実態の把握をする

②教師用のいじめ調査を行う。

③対策委員会の設置

④学年会での情報交換

⑤学年全体で個別指導

安易に「自分のクラスにはいじめはない」と言わない。いじめはある、という姿勢で考える。

●いじめを解決した事例をもとに、次のことを考える。

・いじめについての情報をどう把握し、確認したか
・いじめられている子に対してどのようにかかわったか
・いじめている子に対してどのようにかかわったか
・双方の親に対してはどのようにかかわったか
・いじめられている子の親にはどのようにかかわったか
・いじめている子の親に対してはどのようにかかわったか
・その他の子どもに対してはどのようにかかわったか
・教師の連携、自分の姿勢の見直しはどうだったか
・子どもの年齢によって教師の関わりかたに違いがあるか

参考)

酒井 亮爾,1995, 「学校におけるいじめとその対処法に関する一考察」『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要』 10, pp.230-260

渡邉孝憲,1996,「「いじめ」を解決した事例にみる教師の効果的なかかわりかたの分析」『聖徳大学研究紀要 人文学部』第7号,pp.47-55

いじめ


●いじめの定義
文部省(旧)の定義によれば、いじめとは「1.自分より弱いものに対して、一方的に」「2.身体的・心理的な攻撃を継続的に加え」「3.相手が深刻な苦痛を感じているもの」とされる。


●いじめの発生件数
いじめの発生件数は、1985年に155,066(小・中・高の合計)件であったが、1988年には29,786件、1994年は21,598件と減少を見せている 。
学年別にみると、小学校1年から6年にかけて次第に増え、中学1年生で急増し、中学校3年生で急減し、高校でさらに減るという傾向を見せる。報道されるいじめによる自殺者が中学1,2年生に集中している事実と合わせ、現行のいじめは中学校時に急増・深刻化する問題行動と考えられる 。

発生件数は学校の報告による。不登校や登校拒否は1981年→1991年に掛けて小学生3,600人→12,600人、中学生15,900人→54,100人。児童生徒の自殺発生数は、1985年215件、1988年175件、1993年131件。


●いじめの種類
小・中・高全体で最も多いのが「ひやかし・からかい」(24.5%)、次いで「暴力をふるう」(21.8%)、「ことばでの脅し」(18.3%)、「仲間はずれ」(15.8%)、「持ち物を隠す」(7.2%)。学校段階が上がるにつれて「金銭をたかる」が多くなる(小1.9%、中6.2%、高11.0%) 。


●いじめのプロセス
学校におけるいじめとその対処法について考察する酒井(1995)は 、いじめという現象が生じる場面には、いじめられる子(A)、いじめる子(B)、いじめを見てはやし立てる子(観衆)(C)、いじめにきづいても見て見ぬふりをする子(傍観者)(D)、先生(学級内で最も協力なリーダー)(T)の5つの立場があるとする。
いじめられる子(A)の条件は、「1.クラスの中の力関係の弱い子」「2.その子がクラスの他の生徒たちに違和感や不快感を与えること。例えば、動作が遅い、不潔、すぐ泣きごとを言う、転校生であるなど」「3.いじめる子がいじめによって会館を得られる、いじめがいがある」などが挙げられる。いじめられる子を類型化すると、いじめっ子の嗜虐性を刺激する「孤独型」(口下手、身体のアザや血管、肥満、動作が遅い、不潔、臆病、すぐ泣きごとを言う、弱虫、転校生など)、いじめっ子の攻撃性を刺激する「つっぱり型」(派手な服装、反抗的な態度など)、いじめっ子の劣等感を刺激する「ぶりっこ型」(成績がよい、美人、もてる、高価な服装、など)が考えられる。
いじめる子(B)の条件は、「1.クラスの中の力関係の強い子」「2.その子が何らかの理由で欲求不満状態であったり、ストレス状況下にあること。例えば、勉強ができなくて、授業がよくわからない、両親が離婚寸前、青年期で自分の心身のコントロールを上手にできない。」などがある。
いじめのプロセスは、いじめられる子(A)を取り巻く同心円が大きくなるというモデルで考えられる。つまり、いじめる子(B)と観衆(C)が増えるというプロセスである。相対的に傍観者(D)や教師(T)のプレッシャーが弱くなることで歯止めが利かなくなる。


●いじめに対する反応類型
 いじめ現象を傍観者の観点から研究した橋本(1999) は、いじめをめぐる集団状況を「同調―黙認・不介入」の縦軸と、「同意・支援―批判・同情」の横軸で整理している。Ⅰ象限(同調/同意・支援)は加害者グループの一員として率先的に加害者と共に行動する同調的加害者(いじめる子B2、いじめグループの主犯格をB1とする)である。Ⅱ象限(同調/批判・同情)は被害者側に共感を持ちながら、行動面では加害者に属する(いじめる子B3)。Ⅲ象限(黙認・不介入/批判・同情)は加害者に批判意識、被害者に同情を感じながらも黙認・不介入を保つ傍観者である(傍観者D)。Ⅳ象限(同意・支援/黙認・不介入)は、直接手出しはしないが、周りで面白がって見ることでいじめ行動を促進する観衆的存在である(観衆C)。
インタビュー結果から、小学校と中学校では集団状況が異なることが分かっている。小学校では各象限に均等に分布している。Ⅰ象限の同調的加害者(いじめる子B2)は「面白かった」「深く考えていなかった」と答える。Ⅲ象限の傍観者(D)は、「自分が被害者になるのが嫌だった」「関わりたくなかった」と保身からいじめを黙認するが、Ⅳ象限の観衆(C)は、「直接手は出さないが、被害者のことが嫌だった。」と答える。傍観者(D)が多くなるケースは被害者が流動的かつ恣意的に選ばれるのに対し、観衆(C)が多くなるケースは被害者が特定化され、保身の心配が少ない。Ⅱ象限のいじめる子(B3)は保身からの過剰同調である。黙認
同調行動となる女子生徒間での集団無視という形態も多い。
中学校では、Ⅱ象限のいじめる子(B3)と、Ⅳ象限の観衆(C)がほとんどなくなり、Ⅰ象限の同調的加害者(いじめる子B2)と、Ⅲ象限の傍観者(D)に分化する。加害者に対する周囲の心理的な同調・支援傾向が減少し、傍観者の増加と加害者層の固定化が認められる。被害者が頃津した場合に深刻な状況が生じる。小学校時には仲裁者だった者たちも、中学になると傍観者に回っている。加害者とも被害者とも親しくなかった、という回答が見られる。
小学校と中学校では、①仲裁者の減少、②加害者への同調者・支援者の減少、③傍観者の増加、④加害者・被害者、いじめ現象から距離を取る生徒の増加、という点で違いが見られる。これは、中学になるといじめが不透明化することを示唆している。中学校では、事情を知らない傍観者層が現れる。


●小学校でのいじめ構造
①スケープゴート型
被害者への嫌悪感がクラスで共有されているケース。被害者は孤立し、被害者以外にとっては娯楽的要素が強い。観衆と加害者の間には依頼と代行の関係がある。「いじめられる側にも問題がある」などの認識を生みやすい。被害者は性別に関わりなく選別され、加害者層はクラス内において何事も率先して行うような活発な子どもで構成される。
②均衡型
傍観者が被害者に同情し、加害者層に批判意識を持っているケース。傍観者層は孤立しており、加害者層とも仲が良い場合が多い。状況によっては仲裁者となる。被害者に友人がいる場合もあるが、いじめの場面においては仲裁者とはならならず、保身から傍観している。加害者・傍観者が均衡を保つことにより状況の進化を抑制する傾向がある。
③ヒエラルキー型
加害者・傍観者/同調者・被害者の階層が男女別に形成される。傍観者と被害者の線引きがあいまいであり、傍観者はいつでも被害者になりうる。横先が自分に向く恐れから傍観者は介入に消極的になる。仲裁者が現れない。男子は別々のグループを形成し、物理的な加害行動であることが多い。女子は同一集団内でリーダー以外の子が被害者/同調者の立場を繰り返す。無視などの形態が多い。クラス内で女子が一元化し、被害者の孤立が長引くと深刻化する。

スケープゴート型と均衡型の往復がよく見られる。スケープゴート型→均衡型への移行は、笑って見ていた傍観者(観衆)が状況のエスカレートに伴って被害者に同情し始めることや、状況を認知した教師による介入・指導によって起こる。均衡型→スケープゴート型は被害者の不快な態度により同上心が消える場合である。各類型に固定化せず、教師の介入効果も長期間持続することはない。
小学校のいじめは集団成員全員が均等に関わることを特徴とし、被害者が分かりやすく固定している場合、保身の心配のない傍観者は面白がる。気まぐれで被害者が選ばれる場合は、傍観者は関わらないようにする。加害者に近い傍観者が仲裁し、事態が収束する。


●中学校でのいじめ構造
①分断型
傍観者は一貫していじめとは孤立し、加害者/被害者の関係に干渉することがない。徹底した無関心、無力感から来る諦念を持つ。日常生活において傍観者層が加害者、被害者のどちらに親近感を抱くかによって状況の深刻化に差異が認められる。
②加害者孤立型
傍観者が被害者に近い持つタイプ。加害者が不良グループで、周囲とは異質な行動様式を取る場合に被害者に同情を寄せる。直接関わることは避けるが、後で慰める、助言するなど精神的なフォローを行う傍観者が多数見られ、深刻化する危険性は少ない。加害者の行為は周囲へのデモンストレーションであるため、陰湿化する傾向は小さい。不良や際立って勉強のできる子、面白い子、運動のできる子は被害者にならず、誰を被害者にするかは注意深く選ばれていた気がするという意見もあり、加害者が周囲へのアピール手段として被害者を利用していることが分かる。
③被害者孤立型
傍観者が加害者に近いタイプ。被害者にとって親しいものは加害者だけという状況で、被害者に逃げ場がなく、いじめ行動のエスカレートに気づく者がいない、という状況が生まれる。傍観者は、加害者と被害者が友だちだと思っていることもあり、状況の深刻さを認知することがない事態に発展する可能性が高い。

加害者孤立型と被害者孤立型の間で変動が見られる。特に、加害者孤立型→被害者孤立型への移行が比較的良く見られる。当初、道場や危機感を持って自体の推移を眺めていた傍観者も、暴力が日常になるにつれて注意を払わなくなる。加害者/被害者層が固定化する為、傍観者層には保身の心配がなくなり、両者からある程度の距離を保てば日常生活に支障をきたすことがなくなる。逆に、被害者孤立型→加害者孤立型への移行は困難である。被害者が孤立しているため、当事者以外への波及がない。被害者自身による周囲へのアピールが必要であり、状況の深刻さがわかりやすい形で第三者に提示される必要がある。
中学校でのいじめは、当事者(加害者/被害者)とそれ以外(傍観者)が分断される。いじめが深刻化するのは、こうした集団の変化が原因である。加害者が孤立している場合はいじめが収束しやすいが、被害者が疎外されている場合は深刻化しやすい。いじめが見えにくく、当事者以外の者が状況の深刻さを把握することが難しい。加害者の変化、被害者の第三者に向けた強いアピールがなければ事態は収束しにくい 。


●小学校から中学校への移行期といじめ構造の移動経路
小学校時にⅠ象限(同調的加害者、いじめる子B2)は、スケープゴート型の場合は傍観者に移る。娯楽としていじめに参加していた者たちが無関心な傍観者に代わることにより、スケープゴート型が分断型に以降する。ヒエラルキー型における同調的加害者で会った場合は、継続して分断型の加害者層に残る。Ⅱ象限(いじめる子B3)は、意識的にいじめに関わりをもたないように努める。Ⅲ象限(傍観者D)では、均衡型に分類されたものがそのまま残る。Ⅳ象限(観衆C)で、スケープゴート型に属していた層も分断型の傍観層に移る。
つまり、小学校→中学校の移行期に、スケープゴート型、均衡型における率先的加害者(いじめる子B1)、ヒエラルキー型における加害者層がそのまま加害者となり、スケープゴート型における観衆(C)は傍観者(D)となり、その他の傍観者も継続して傍観的態度を取り続ける。
傍観者は、加害者、被害者双方に対して批判意識を持つようになるが、加害者層には意識の変化は見られない。傍観者との分断が生じることで行動の客観視ができず、エスカレートし、加害者側の収束がない限り、事態は深刻化する。卒業が近づいたので馬鹿な真似はやめようと思った、などが加害者の収束要因となっている。傍観者の関心がなぜなくなるのか、ではなく、加害者の関心がなぜなくならないのか、が課題となる。


●現代のいじめの特徴
現代のいじめの特徴として、(1)集団で一人をいじめることが多く、集団の中も階層化している、ことが挙げられる。大河内君の事例では、12名のいじめグループの中でも、主犯格の4人、積極的にいじめに加担した数名、その遊び仲間という序列ができていた。大河内君は、遊び仲間のグループに加わっており、一緒に遊ぶことのできる仲間(プラスの感情)と、いじめられる(マイナスの感情)という両面的な感情を持っていたと考えられる。また、いじめグループのリーダー格を除いては、被害者と加害者が状況によって逆転する。(2)いじめの手口が巧妙で、教師や大人の目の届かないところで行われる、(3)いじめ方が執拗で陰湿化している、(4)歯止めがきかず徹底的にいじめる、という特徴もある。


●「いじめ」問題の扱われ方
1986年「葬式ごっこ」(東京中野)や94年O君事件(愛知県・東部中)のセンセーショナルな報道を通じて問題視される 。
「いじめ」がどのように語られるようになったかを研究する間山(2002) は、「いじめ」は昔からあったのではないという。昔からあったのは「犯罪」としての恐喝や、「ささいなこと」として考えられていた無視や悪口であり、これらは「いじめ」ではない。「いじめ」というカテゴリーが新しくできたという立場を取る。
「いわきいじめ訴訟」(福島地方裁判所いわき支部 1991[1990年12月26日判決])は日本の裁判史上はじめて「いじめ自殺」に対して学校の過失責任を認めた判決であると同時に、「いじめ自殺」者本人に、自らの命を守る手立てを尽くす義務が果たされなかったという過失を認めている。この判決を分析した山本(1996) は、「子どもを大人によって守られ、解釈されるべき存在へと押し込め」るという社会から、「子どもを命の最終責任者として、判断し、表現し、行動する主体へと位置付け直している」と解釈した。そして、「いじめ=(苦痛→死)」という語られ方が作られてしまったことが、いじめ被害者自身が死を正当化する根拠となっているとし、これを差別の語られかたにつなげて、被害者が差別の告発者となることを正当とする社会が必要だと言う。つまり、「いじめ」と「自殺」の結び付きを加害者、被害者、傍観者、社会の様々なレベルで切り崩すことが、「いじめ自殺」被害者を根絶することにつながると考える。「いじめを受けたから自殺しなくてはならない」という意識を転換させる意図がそこにはある。

●学校の対応
いじめ問題の事例を収集し検討する酒井(1995)は 、1984年、愛知県瀬戸市の中学2年男子生徒の首吊り自殺と、1994年のO君の事件の対応が似ていることを指摘している。学校は最初「いじめはなかった」と否定し、その後、詳細な遺書などの資料が残されていることが判明し、いじめによる自殺であることを認めるという形である。O君事件のとき、校長は自殺に至る様々な原因のうちの一つにいじめがあったことは認めつつも、「自殺の引き金は、前夜や当日の朝、お父さんが厳しくしかりつけたり、さとしたりしたことなど(いじめとは)別にあると思う。」と付け加えている。


  社会問題として取り上げられることで様々な機関が動く一方で、地元のイメージが悪くなり高校推薦に影響がでる、と遺族を責める保護者もいた。

参考)


  酒井 亮爾,1996,「学校におけるいじめ自殺―1995年の場合」『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 』11, pp.197-228。

1994年文部省「生徒指導上の諸問題の現状」。

   橋本摂子,1999,「いじめ集団の類型化とその変容過程―傍観者に着目して」『教育社会学研究』第64集,pp.123-142.

  文部省初等中等教育局「生徒指導上の諸問題の現状と文部省の施策について」(1991年/複数回答)

  酒井 亮爾,1995, 「学校におけるいじめとその対処法に関する一考察」『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要』 10, pp.230-260

   加害者に着目したいじめ集団類型として、迫田 真由子, 2000,「第4章 加害者に着目したいじめ集団類型」『学校臨床研究』 1(1),pp. 31-37、がある。

  間山広明,2002,「概念分析としての言説分析-「いじめ自殺」の<根絶=解消」へ向けて」『教育社会学研究』第70集,pp.145-163。

  山本雄二,1996,「言説的実践とアーティキュレーション」『教育社会学研究』第59集,pp.69-88。 判決は学校に3割、家族に3割、自殺者本人に4割の過失を認めている。


土曜日, 7月 14, 2012

看護専門学校 教育学 授業アンケート結果


実施:201273日 13講目 112講を対象 36名 
スケール:1:面白くなかった 5:面白かった 1:役に立たなかった 5:役に立った




    面白かった   役に立った   合計  
    平均 標準偏差 平均 標準偏差 平均 標準偏差
1 1.オリエンテーション  ヒーローインタビュー 3.5 1.0 3.1 1.0 6.1 2.4
2  チーム作り 3.5 1.0 3.2 1.1 6.3 2.3
3 2.教育学とは何か  教育学とは何か 3.0 1.0 3.1 1.0 5.7 2.3
4  1年生に伝えたい歌 3.7 1.4 2.6 1.1 6.0 2.6
5 3.教育とは何か  教育とは何か 2.8 0.9 3.0 0.9 5.2 2.4
6  自校の教育理念を探す 3.0 1.2 3.0 0.9 5.8 2.1
7 4.学校とは何か  学校とは何か 2.9 0.9 3.0 1.0 5.3 2.6
8  学校のメタファー(例) 3.1 1.2 2.9 1.0 5.4 2.5
9 5.リフレクション  子ども観 2.9 0.8 3.1 1.1 5.4 2.4
10  クイズを作る 2.9 1.2 3.0 1.0 5.8 2.1
11 6.学びの空間のデザイン  学びの空間のデザイン 3.7 1.2 3.3 1.2 6.4 2.9
12  デザインしてみよう 4.2 1.1 3.4 1.1 7.4 2.0
13 7.学ぶということ  学ぶということ 2.9 0.9 3.2 1.0 5.6 2.4
14  スキットの脚本づくり 3.0 1.1 3.1 1.1 6.1 2.1
15 8.学習の過程と形態  学習の過程と形態 2.9 1.1 3.1 1.1 5.4 2.7
16  スキットの発表 3.1 1.1 3.2 1.0 6.3 2.0
17 9.省察的専門家像①  省察的専門家像 2.8 1.0 2.9 0.9 5.6 1.9
18 10.省察的専門家像②  学びの共同体 3.2 1.1 3.2 1.1 5.8 2.6
19  ディベート 1年制 3.4 1.1 3.4 1.1 6.6 2.3
20 11.リフレクション  教育相談 3.1 1.0 3.3 1.2 5.7 2.8
21  ディベート 学校選択 3.5 1.1 3.4 1.1 6.7 2.4
22 12.リフレクション  子どもの学習と参加 3.3 1.0 3.3 1.1 5.8 2.8
23  ディベート 留年 3.5 1.1 3.5 1.1 6.9 2.4
合計   69.1 21.4 68.3 21.4 137.4 42.2
平均   3.0 0.9 3.0 0.9 6.0 1.8




l  合計点の高かったセッションは、デザインしてみよう、ディベート留年(3グループ)、ディベート学校選択(代表チーム)、ディベート1年制、学びの空間のデザイン、チーム作り→「学びの空間のデザイン」「ディベート」「チームづくり」を時間かけてする
l  合計点で標準偏差が大きかったのは、学びの空間のデザイン、教育相談、子どもの学習と参加、1年生に伝えたい歌、学校とは何か、学習の過程と形態→二極化しているのでやり方を見直す
l  合計点の低かったセッションは、教育とは何か、学校とは何か、学校のメタファー、学習の過程と形態、学ぶということ、省察的専門家像→テーマの見直し
l  面白かったと役に立ったはほぼ連動。面白さが勝っているのが、デザインしてみよう、ヒーローインタビュー。役に立ったが勝っているのが教育相談、子ども観、学ぶと言うこと、学習の過程と形態。
l  満足度の高かった学生の意見(1年生に対してどのような教育学の授業を行うか)は、「ストレスの発散方法」「看護学校における男女の役割」「勉強をなぜ行うのか」「看護学校に入って苦労したこと」「学びの空間のデザイン」。満足度の低かった学生の意見は、「現実問題になっている不登校とかいじめ」「コミュニケーションの確立→ロールプレイ」「大学などの教育学部での授業の雰囲気」「患者さんへの教育方法」「教育学の歴史や考え方を講義しわかりやすく解説をする。グループワークはディベートやスキットの目的をしっかり理解した上で行ってもらう」→残り2回でできるだけフォローし、次回のカリキュラムづくりに反映させる。



(自由記述意見 合計満足度の高い順)


  218
 ストレスの発散方法・・・グループワークを行い体験談を話し、クラスで情報を共有する 206
 看護学校における男女の役割についてもっと話しを聞いてみたかったです。 192
 勉強をなぜ行うのか。勉強するとなぜよいかを考え、利点を述べ、分かりやすくプリントにまとめる。 189
 看護学校に入って苦労したこと、楽しかったことについて。グループワーク。 181
 学びの空間のデザインを私たちがやったように1年生にもやってもらったら楽しいと思います。 180
 基礎の大切さ 179
 学びの空間のデザインが楽しかったので「学びの空間~」をする 168
  166
 様々な意見に耳を傾け視野を広げてほしいので私は「授業は黒板に板書するか、パワーポイントを用いる」などのようなテーマでディベートを行いたいです。 165
 ディベートを行い、重要か重要でないかを一人一人が知り、理解する 163
 毎回グループのメンバーを代えて授業を行い、現在の社会で挙げられている問題をディベートやクイズを通して生徒達主体で行う。 159
 ディベートするのは楽しかったが考える時間をもう少しほしかった。 156
 学びの空間のデザインを取り上げ、みんなで実際にやってみる! 153
 効果的な教育指導方法→言葉の選び方、話しの運び方など体験 楽しく学べる工夫→実際にパンフレットとか作ってみる 153
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 患者への生活指導。教育学的に効果的な方法、指導方法を学ぶ。グループで実際にやってみる。 139
 教育学に対してまだ自分が解っていないのでできないです。 139
 1年制について 138
 教育学とは何か?の講義と様々なテーマのディベートを行う。 136
 みんなで考え、作っていく作業。他の人の意見や考えを聞くことのできること。もっと学生ならではの「あるある」を※、教育を身近な言葉で理解してもらえるような授業。 130
 教育学とは何か→なるべく簡単な言葉で説明する。 128
 看護学生は教育を受ける側ですが、患者さんへの生活や健康の教育もできるようにならないといけません。教育する方法やどう教育を受けるか、その姿勢や工夫について考えさせます。 127
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 「学びの空間のデザイン」 自分達がやったように全員が意見を出し合い色々なデザインや発送があることを知ってもらう。 123
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 教育学の歴史や考え方を講義しわかりやすく解説をする。グループワークはディベート、スキットの学びの目的を理解した上で行ってもらう。 92
 学びの空間のデザイン、理想の学校風景を書いてもらう 86
 子どもの教育について、学校制度について 84
 患者さんへの教育(指導)方法 82
 大学などの教育学部ではどのような授業をしていたり、雰囲気や様子を知りたかったのでそのような講座を一コマ設ける 72
 コミュニケーションの確立→ロールプレイ 67
 現実問題になっている不登校とかいじめとかをテーマに学ぶ。小児や母性看護につながるから。 61
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