ここは、概念的なことが多いので難しいですね。
教えることと、学ぶことはどちらが先に来るのでしょうかね。教師の側から見ると、教えるが先に来て、次に生徒が学んだ、と思うのかもしれません。でも、みなさんから見てみると、何かを学んだと感じて、そして、教えられた、と感じるのかも知れません。そもそも、学ぶ、ということをどう捉えるのかも違うのかもしれませんね。教師は、自分の伝えた知識が定着したことを、学んだという。しかし、みなさんにしてみると、そうした話しに接することで自分の価値観が変わったり、もともと持っている考えをさらに先に進めてくれたことを学んだという。それは、必ずしも一致しない。ただし、大学受験や看護師の国家試験に合格するためのスキルや知識を学ぶ、という目的であれば、そのズレは小さくなる。つまり、必要の論理と要求の論理が一致しているのですね。
ソクラテスや孔子は、相手が何かしら知りたかったり、解決したいことを抱えている、という状況で対話をしてその道筋を示した。または、疑問に思わなかったようなことを掘り起こすことで新しい物事の見方を示した。しかし、教育機関を通じてそうした見方を修得させようと考えたとき、「このように学ぶことがよい」という「型」を示したり、そのための階段のようなプロセスを作った。
たとえば、「幸福な生き方ってどういうことですか。」と聞かれたらどう応えますか。
▼ソクラテスの問答例
【カリクレス】
「およそありとあらゆる欲望をもち、それらを残らず満たすことができて、それによって喜びを感じながら幸福に生きるということを言っているのだ」
【ソクラテス】
「先ず手はじめに聞くが、人が疥癬にかかって、かゆくてたまらず、思う存分いくらでも掻くことができるので、掻き続けながら一生を過ごすとしたら、これもまた幸福に生きることだと言えるのかね?」
【カリクレス】
「やむをえぬ。
そういうふうに掻きながら生を送るものも、やはり快く生きることになるだろう、と言っておく」
【ソクラテス】
「快い生ならば、幸福な生でもあるだろうね?」
【カリクレス】
「いかにも」
ここでは、カリクレスは「欲望を満たすことこそが幸福なのだ」という、一見すると常識的な主張をしているわけですが、それに対してソクラテスは「先ず手はじめに聞くが、人が疥癬にかかって、かゆくてたまらず、思う存分いくらでも掻くことができるので、掻き続けながら一生を過ごすとしたら、これもまた幸福に生きることだと言えるのかね?」というふうに切り返し、カリクレスの考え方の底の浅さを指摘しているわけです。
教授学が発達することで、次第に先生が教えることが先で、その次に修得することが来る、という様式が生まれてきた。効率化が求められ、学ぶという行為は試験や資格の取得をするための「勉強」となっていった。そうした「勉強」の世界を変えよう、という考えが生まれ、学習する人の興味や自発的活動を尊重していこうとする運動が起こった。そして、問題解決を通じて知性を養うと共に、仲間とコミュニケーションをとりながら協働することで民主主義の倫理も獲得させようとした。ここで大事な人といえばデューイです。ちなみに、「スクール・オブ・ロック」という映画の主人公の名前もデューイですね。
ロックギタリストのデューイ(J・ブラック)が居候先の親友の代わりに小学校の教師になり、規律そっちのけで生徒たちにバンドを組ませてバンド・コンテストにも出場しようと企む、というお話しです。学校を主題とする映画やドラマは多いですが、基本的にこうしたパターンとなりますね。学校の制度を叩き潰す、そこに、キャッチーな音楽や破天荒なキャラクターが入る、というものです。
デューイの、これは教育学のほうのデューイですが、経験主義は日本の教育にも影響を与えました。たとえば、戦後に「社会科」が創設されるわけですが、これは生活と密接に関わる内容を、問題解決を通じて学ぶ、というコンセプトで設けられた科目です。しかし、経験主義は、本国アメリカでは這い回る経験主義とも批判されていました。どういうことかというと、活動が中心になり、結局生徒は何も学んでいないのではないか、ということです。そして、それに対抗する主義が唱えられた。それが、系統主義です。つまり、これを学ぶためにはこういうことが必要であり、そのためにはその前にこういうことを知っておいてもらわないといけない、という考えです。日本の学習指導要領はこれまでに何度か変わってきていますが、この二つの考えを振り子のように動いています。いわゆる詰め込みの勉強と総合的な学習の時間、というのが象徴的でしょうか。経験主義的な授業、この授業もそうですが、が学びにつながるためには、反省、省察が重要になってきます。デビット・コルブという人は、次のように言っていますね。
①Concrete Experience(具体的な体験)
↓ 具体的な経験をする。
②Reflective Observation(内省的な観察)
↓ その内容を振り返って内省する。
③Abstract Conceptualization(抽象的な概念化)
↓ そこから得られた教訓を抽象的な仮説や概念に落とし込む
④Active Experimentation(積極的な実験)
↓ ③で得られたものを新たな状況に適用させて行動してみる
(以降、①に戻ってサイクル化)
おそらく人は経験から学習をする際に、このサイクルにのっとっていることが多いのかと思います。ここでまず大事なのは3つのことです。
①何よりも行動をしてみなければ始まらない
②単に行動をするだけでなく、それを振り返ることが大事
③単に振り返っているだけではなく、それを次の行動に振り向けることが大事
ここで、構成主義という難しい言葉が出てきます。「教育における構成主義は、子供たちがある対象について、彼ら自身による(それぞれ違った)理解を組み立てるようなかたちで教育すべきである、あるいは子供たちの中に既に存在している概念を前提に授業を組み立てる必要がある、という学習・教授理論を指す。ここでの教師の役目は、子供がある対象範囲における事実や考えを見つけるのを手助けすることである。」ということですけど、要は体験、経験したことを自分の知識ともう一度つなぎ合わせていく、ということですね。たとえば、前回、理想的な学校のデザインをみんなで作ってもらいましたけど、その活動とこれまでに授業で扱ったテーマを関連させて、学校の建物は近代学校制度の問題点を象徴しているのだ、というようなことです。
確認問題
1 学ぶことによって、人にはどのような可能性がひらかれていくのだろうか。このユニットでとりあげた個々の教育思想に即して考えてみよう。
学ぶことは、自己の存在意義を探り、世界への参与の見通しを立てることを意味している。一方で、「教える」という形で、先行世代が次世代に学びを求めることもある。後者の学びはコメニウスの汎知学や印刷技術の発展により、学ぶという行為を秘事的な修養行為から、世俗的な行為として大衆に開放する可能性を開いた。しかし、フレイレの言うように、学ぶという行為を知識の獲得であると同時に、変革主体を育てるという可能性に開く必要がある。(206字)
2 制度化された近代学校の中で、本来の学びの何が失われ、どのようなものに変質していったのだろうか。
本来、学びとは個々人に固有のものである。しかし、近代学校の中で教師の教授行為に従属した修得という受動的な学習の様式が生まれ画一化される中で、学ぶという行為は競争と管理の中におかれる「勉強」へと矮小化された。(103字)
3 学びの探求的・共同的・対話的な性格を取り戻すための、デューイやフレイレの提起の要点を整理してみよう。
デューイは学びということの活動的で社会的な性格の回復に向けて、重要な提起を行った。デューイは問題解決的な学習の世界をつくり、実験的な知性を形成させると共に、仲間と豊かなコミュニケーションと協働により民主主義の倫理を獲得させることを目的とした実験学校を設立した。(130字)
フレイレは、「対話による批判的意識化」のための学びを提起し、現代における学ぶことと社会変革の実践との連続性を追及した。第三世界におけるリテラシーの修得を目的とした学習を批判し、対話様式の民衆教育の実践を提唱した。(106字)