月曜日, 5月 28, 2012

看護師のライフヒストリー


キャリア中期における看護師の 看護実践の承認
平瀬節子 尾原喜美子
(高知大学医学部看護学科)
高知大学看護学会誌 1巻 1号(2007 )

https://ir.kochi-u.ac.jp/dspace/bitstream/10126/278/1/kangohirase.pdf

日曜日, 5月 27, 2012

プロセスレコード


タイトル: 初回基礎看護実習におけるプロセスレコードの分析 : コミュニケーションのつまづき場面に焦点をあてて
著者: 大池, 美也子 / 鬼村, 和子 / 村田, 節子
出版年: 2000-03-00
刊行元: Kyushu University School of Health Sciences Fukuoka, Japan
掲載情報: 九州大学医療技術短期大学部紀要 || 27 || p9-14 / 9-14 / Memoirs of Kyushu University Scool of Health Sciences || 27 || p9-14

https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/handle/2324/278

プロセスレコードとは何か
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/061121geNba.html


プロセスレコードによる学生の学び
~対人関係間の相互作用に関する記述から~
河合 規仁・橋本 美香
東北文教大学・東北文教大学短期大学部紀要 第1号

http://repo.lib.yamagata-u.ac.jp/bitstream/123456789/8222/1/btbc-1-00010009.pdf


精神看護学実習においてプロセスレコードに
取り上げられたテーマと学習内容
片岡 三佳 須藤 葵 瀧川 薫
滋賀医科大学看護学ジャーナル,1(1),56‐66

http://www.shiga-med.ac.jp/education/ejournal/kango_vol_1/56-66.pdf



看護初学者のプロセスレコードからみるコ
ミュニケーションの特徴
林, 智子; 井村, 香積
三重看護学誌. 2012, 14(1), p. 141-148.

http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/11947/1/AA113538240140121.pdf


リフレクションの方法としてのプロセスレコード
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/education/clinical/pdf/p36.pdf

学習の過程と形態―新たな学びのデザインへ 説明


学習の過程と形態―新たな学びのデザインへ 説明

このユニットは、皆さんが看護師となるために、また看護師として継続して学ぶ上で重要なことが書かれていますので、よく考えていただければと思います。

「できない」から「できる」を学習の定義としてきたことから、「わかる」という状態がいかに作り出されるか、という「認知」を研究する学問が現れたといいます。学習とは、個人の頭の中で起こる現象でなく、個人と他者や人工物との間で起こる現象だと説明されています。
哲学の世界では、「われ思う、ゆえにわれあり」で有名なデカルトにより、物事を捉えている自分、つまり主体と、自分以外の世界、つまり客体が分けられました。そして、どんどん、そうやって考えている自分について考えるようになり、ややこしいですが、そうして考えることの限界がどこにあるのか、ということをカントという人は考えました。
どうですか?「あれこれ考えている自分」というのは疑いなく存在している、と考えたとして、では、もし自分が死んでしまったら、世界はなくなってしまうのでしょうか。その人にとっての世界はなくなってしまうかもしれませんね。一体、自分と世界はどのように関係し、つながっているのでしょうか。こんなことを考えたとき、自分と世界をつなぐ「からだ」が着目されました。そして、自分がいて、世界があって、と二つに考えるのでなく、それぞれは同時に存在しているのだ、という考えや、それは服とハンガーのようなものであって、それぞれが並行に存在して時に接するのだ、という考える人がでてきました。
いずれにせよ、考えているその人の頭の中だけに世界が存在している、というような考えでなく、自分と世界との関係で考えようと、という方向に動いているといえます。この辺、からだや生死に関わる看護師になろうとするみなさんにとっても関係するところですね。からだと人格、考えというのは関係している、という捉え方です。
さて、そこで、状況的学習と社会文化的アプローチが代表的な二つの理論である、と紹介されています。まず、状況的学習では「場」、という点が着目されていますね。そこでは、他の人とどのような関係を結ぶか、それはつまりは学び手のアイデンティティの自覚が伴う、と書かれています。話をして、それを聴くという関係、お互いに話をしながら何かを探ろうとする関係、看護という新しい場で動く身体を作るために必死に学ぼうとする自分、それぞれの場において、自分はなんのために学ぶのか、この場にいるのか、という自覚が、学びに関係する、と書かれています。
ここで、重要な言葉がでてきます。正統的周辺参加、という言葉ですね。新参者は共同体の周辺的な仕事に関わる中で、仕事をする上で必要な道具や言葉の使用に精通し、共同体の成員としてのアイデンティティを強化する、と説明されています。
ここで、みなさんの場合について考えてみましょうか。「看護」という実践を考えたとき、ベテラン、新人、看護学生はそれぞれどのような仕事があるのでしょうか、そうした仕事に参加することで、みなさんはどのような道具や言葉を学び、どのようなアイデンティティを強化するのでしょうか。

 <正統的周辺参加 概念図>

次に、社会文化的アプローチと活動理論では、学習は言語をはじめとする文化的道具(人工物)に媒介された行為である、とされています。つまり、自分の体験を言葉にしてお互いに伝えたり、教科書に書かれていることを介して自分の考えを深める、というようなことです。そうした文化的道具に自分なりに意味づけして、「自分のものにしていく」ことを専有という、と説明されていますね。
ヴィゴツキーとエンゲストロームの理論については難しい説明がされていますが、この理論が実際に教室で活用される時には特にヴィゴツキーの発達の最近接領域に着目されます。とても難しい理論なのですが、こんな風に考えられます。これは、一人ではわからないというレベルと、みんなと一緒ならわかることのレベルの間でできる空間のことです。授業の中で、その空間をぴょん、とジャンプできれば、そのわからなかった生徒たちは学んだといえる、と考えます。

 <発達の最近接領域 図>

例えば、数学の問題を班で考える、という活動について考えてみましょうか。その班の中で、一番できる生徒もちょっと考えてしまうような問題があるとしましょう。このとき、普段はあまり勉強ができない、とされる生徒のちょっとした一言で、そのできるとされる生徒が気づいたり、別の生徒がたまたま覚えていた公式でわかったりすることがあります。

例)
下の図を2分する直線を書いてください。


<図 階段型の長方形>


ヒント)長方形の対角線の交点をOとし、Oを通る直線で分けられた二つの形はOを対象として点対称となる。
解答)図を二つの四角形に分け、それぞれの長方形の二つの交点を通る直線を引く。


いずれにしても、学習の過程と形態は共同的行為として遂行される文化的実践への参加としてデザインされている、つまり他の人と一緒に、その場の文脈を生かした活動に参加することで学びが生じるように工夫されている、ということです。そのために、アーティファクトをどのように配置するか、ということに関心が寄せられた。空間のデザインもその一つです。そうした関心の高まりに一役買っているのがアフォーダンスという考えです。これは、うまく説明することが難しいのですが、人間と環境を考えたとき、環境には意味が埋め込まれていて、人間がそれをピックアップする、という考え、といえばよいのでしょうか。お掃除ロボットなどは、こうした考えの転換があって発明された、と言われています。

確認問題
1 認知科学の発展がもたらした学習観の転換は、従来の学習の捉え方のどのような部分を、どのように変えていったのであろうか。

従来、学習はできない、からできる、という行動の変容を定義されていた。しかし、物事の構造の理解、すなわち、わかる状態がいかに作りだされるかという認知を研究する学問の発達により、学習とは個人の頭の中で起こる現象ではなく、個人の頭の外で、個人と他者や人工物との間で起こる現象であると理解されるようになった。(150字)

2 学習が共同的行為として遂行されていくということの根拠は何か。状況的学習(認知的徒弟制)、社会文化的アプローチ(活動理論)のそれぞれに即して考えてみよう。

状況的学習から考えた根拠は、レイヴらが洋服の仕立て職人の事例で示したように、新参者が職人集団という実践共同体の周辺的な仕事を通じて参加することにより、その仕事に必要な道具や言葉、成員としてのアイデンティティを強化することに求められる。この学習形態はスポーツクラブや科学の実験室などでも見られる。
また、社会文化的アプローチから考えた根拠は、認知の社会的発生、学習の媒介性、学習の共同性に即した事例に求めることができる。例えば、看護事例を検討するカンファレンスは、それがよりよい看護のあり方を求める社会的コミュニケーションの中で、共有された言語や道具を介して問題解決に向けた協働を通じた学習が生起する場となっている。
いずれも、学習が文化的なйや道具の共有と協働使用により成り立つ点や、発達とはその使用の仕方の変化によってもたらされるという捉え方をしている点に共通点が認められる。(387字)

土曜日, 5月 19, 2012

学習の過程と形態

最近接発達領域(ZPD)
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/090113ZPD.html

http://www.h5.dion.ne.jp/~hpray/shakai/keizaimondai/riron-seisaku2/04Vigotuki/vigo-1.htm

アフォーダンス
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/affordance.htm

http://blog.livedoor.jp/aratara123/archives/3098644.html


ケーススタディ 参考

意思の疎通が困難であった患者への援助と通して学んだこと
http://www.geocities.co.jp/berkeley/3959/kesu.html


火曜日, 5月 15, 2012

学ぶということ 説明


ここは、概念的なことが多いので難しいですね。

教えることと、学ぶことはどちらが先に来るのでしょうかね。教師の側から見ると、教えるが先に来て、次に生徒が学んだ、と思うのかもしれません。でも、みなさんから見てみると、何かを学んだと感じて、そして、教えられた、と感じるのかも知れません。そもそも、学ぶ、ということをどう捉えるのかも違うのかもしれませんね。教師は、自分の伝えた知識が定着したことを、学んだという。しかし、みなさんにしてみると、そうした話しに接することで自分の価値観が変わったり、もともと持っている考えをさらに先に進めてくれたことを学んだという。それは、必ずしも一致しない。ただし、大学受験や看護師の国家試験に合格するためのスキルや知識を学ぶ、という目的であれば、そのズレは小さくなる。つまり、必要の論理と要求の論理が一致しているのですね。
ソクラテスや孔子は、相手が何かしら知りたかったり、解決したいことを抱えている、という状況で対話をしてその道筋を示した。または、疑問に思わなかったようなことを掘り起こすことで新しい物事の見方を示した。しかし、教育機関を通じてそうした見方を修得させようと考えたとき、「このように学ぶことがよい」という「型」を示したり、そのための階段のようなプロセスを作った。

たとえば、「幸福な生き方ってどういうことですか。」と聞かれたらどう応えますか。

▼ソクラテスの問答例
 【カリクレス】
「およそありとあらゆる欲望をもち、それらを残らず満たすことができて、それによって喜びを感じながら幸福に生きるということを言っているのだ」
 【ソクラテス】
「先ず手はじめに聞くが、人が疥癬にかかって、かゆくてたまらず、思う存分いくらでも掻くことができるので、掻き続けながら一生を過ごすとしたら、これもまた幸福に生きることだと言えるのかね?」
 【カリクレス】
「やむをえぬ。
そういうふうに掻きながら生を送るものも、やはり快く生きることになるだろう、と言っておく」
 【ソクラテス】
「快い生ならば、幸福な生でもあるだろうね?」
 【カリクレス】
「いかにも」

ここでは、カリクレスは「欲望を満たすことこそが幸福なのだ」という、一見すると常識的な主張をしているわけですが、それに対してソクラテスは「先ず手はじめに聞くが、人が疥癬にかかって、かゆくてたまらず、思う存分いくらでも掻くことができるので、掻き続けながら一生を過ごすとしたら、これもまた幸福に生きることだと言えるのかね?」というふうに切り返し、カリクレスの考え方の底の浅さを指摘しているわけです。

教授学が発達することで、次第に先生が教えることが先で、その次に修得することが来る、という様式が生まれてきた。効率化が求められ、学ぶという行為は試験や資格の取得をするための「勉強」となっていった。そうした「勉強」の世界を変えよう、という考えが生まれ、学習する人の興味や自発的活動を尊重していこうとする運動が起こった。そして、問題解決を通じて知性を養うと共に、仲間とコミュニケーションをとりながら協働することで民主主義の倫理も獲得させようとした。ここで大事な人といえばデューイです。ちなみに、「スクール・オブ・ロック」という映画の主人公の名前もデューイですね。
ロックギタリストのデューイ(J・ブラック)が居候先の親友の代わりに小学校の教師になり、規律そっちのけで生徒たちにバンドを組ませてバンド・コンテストにも出場しようと企む、というお話しです。学校を主題とする映画やドラマは多いですが、基本的にこうしたパターンとなりますね。学校の制度を叩き潰す、そこに、キャッチーな音楽や破天荒なキャラクターが入る、というものです。
デューイの、これは教育学のほうのデューイですが、経験主義は日本の教育にも影響を与えました。たとえば、戦後に「社会科」が創設されるわけですが、これは生活と密接に関わる内容を、問題解決を通じて学ぶ、というコンセプトで設けられた科目です。しかし、経験主義は、本国アメリカでは這い回る経験主義とも批判されていました。どういうことかというと、活動が中心になり、結局生徒は何も学んでいないのではないか、ということです。そして、それに対抗する主義が唱えられた。それが、系統主義です。つまり、これを学ぶためにはこういうことが必要であり、そのためにはその前にこういうことを知っておいてもらわないといけない、という考えです。日本の学習指導要領はこれまでに何度か変わってきていますが、この二つの考えを振り子のように動いています。いわゆる詰め込みの勉強と総合的な学習の時間、というのが象徴的でしょうか。経験主義的な授業、この授業もそうですが、が学びにつながるためには、反省、省察が重要になってきます。デビット・コルブという人は、次のように言っていますね。

①Concrete Experience(具体的な体験)
 ↓  具体的な経験をする。
②Reflective Observation(内省的な観察)
 ↓  その内容を振り返って内省する。
③Abstract Conceptualization(抽象的な概念化)
 ↓  そこから得られた教訓を抽象的な仮説や概念に落とし込む 
④Active Experimentation(積極的な実験)
 ↓  ③で得られたものを新たな状況に適用させて行動してみる
(以降、①に戻ってサイクル化)

おそらく人は経験から学習をする際に、このサイクルにのっとっていることが多いのかと思います。ここでまず大事なのは3つのことです。

①何よりも行動をしてみなければ始まらない
②単に行動をするだけでなく、それを振り返ることが大事
③単に振り返っているだけではなく、それを次の行動に振り向けることが大事

ここで、構成主義という難しい言葉が出てきます。「教育における構成主義は、子供たちがある対象について、彼ら自身による(それぞれ違った)理解を組み立てるようなかたちで教育すべきである、あるいは子供たちの中に既に存在している概念を前提に授業を組み立てる必要がある、という学習・教授理論を指す。ここでの教師の役目は、子供がある対象範囲における事実や考えを見つけるのを手助けすることである。」ということですけど、要は体験、経験したことを自分の知識ともう一度つなぎ合わせていく、ということですね。たとえば、前回、理想的な学校のデザインをみんなで作ってもらいましたけど、その活動とこれまでに授業で扱ったテーマを関連させて、学校の建物は近代学校制度の問題点を象徴しているのだ、というようなことです。

確認問題
1 学ぶことによって、人にはどのような可能性がひらかれていくのだろうか。このユニットでとりあげた個々の教育思想に即して考えてみよう。

学ぶことは、自己の存在意義を探り、世界への参与の見通しを立てることを意味している。一方で、「教える」という形で、先行世代が次世代に学びを求めることもある。後者の学びはコメニウスの汎知学や印刷技術の発展により、学ぶという行為を秘事的な修養行為から、世俗的な行為として大衆に開放する可能性を開いた。しかし、フレイレの言うように、学ぶという行為を知識の獲得であると同時に、変革主体を育てるという可能性に開く必要がある。(206字)

2 制度化された近代学校の中で、本来の学びの何が失われ、どのようなものに変質していったのだろうか。

本来、学びとは個々人に固有のものである。しかし、近代学校の中で教師の教授行為に従属した修得という受動的な学習の様式が生まれ画一化される中で、学ぶという行為は競争と管理の中におかれる「勉強」へと矮小化された。(103字)

3 学びの探求的・共同的・対話的な性格を取り戻すための、デューイやフレイレの提起の要点を整理してみよう。

デューイは学びということの活動的で社会的な性格の回復に向けて、重要な提起を行った。デューイは問題解決的な学習の世界をつくり、実験的な知性を形成させると共に、仲間と豊かなコミュニケーションと協働により民主主義の倫理を獲得させることを目的とした実験学校を設立した。(130字)
フレイレは、「対話による批判的意識化」のための学びを提起し、現代における学ぶことと社会変革の実践との連続性を追及した。第三世界におけるリテラシーの修得を目的とした学習を批判し、対話様式の民衆教育の実践を提唱した。(106字)

看護専門学校に関する論文


看護専門学校の組織文化と教師の力量形成との関連 : 事例検討会の
コミュニケーション分析から

原田, 広枝
Citation 教育経営学研究紀要 || 5 || p77-90; Research Bulletin of Educational
Administration || 5 || p77-90
Issue Date 2001-03-31

https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/772/4/KJ00000042624-00001.pdf



佛教大学大学院紀要 教育学研究科篇 第39号(2011年3月)
看護専門学校生の多様化と初年次教育
久 司 一 葉

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/kiyou39k/D039L001.pdf


山梨医大紀要 第19巻,25-30(2002) 25
看護学生の職業社会化に関する研究
白鳥さつき

http://opac.lib.yamanashi.ac.jp/metadb/up/yamanashi/KJ00004287685.pdf



日本教育工学会論文誌  2004
1
論文・資料・寄書・ショートレター

ワークショップ実践家のデザインにおける熟達過程
デザインの方法における変容の契機に着目して†
森 玲奈*

http://www.harinezuminomori.net/pdf/Mori%202009.pdf




日曜日, 5月 13, 2012

スキット

きだつよし
http://kidablog.jugem.jp/?eid=400

実践知の創造を支援する活動システム理論の構築
http://kaken.nii.ac.jp/ja/p/20530789/2010/8/ja

保育者養成という現場の日常
http://ci.nii.ac.jp/els/110008673097.pdf?id=ART0009750542&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1336958855&cp=

金曜日, 5月 11, 2012

学びの空間のデザイン 説明


学びの空間のデザイン 説明

これは、みなさんが一番関心のあったテーマですね。みなさんは学校というとどんな空間をイメージされますか。標準化された教室が廊下に沿って一列に並ぶ形式は、兵隊の宿がイメージされているということですね。それは、一斉授業をするのに一番効率が良いように、ということでした。

しかし、オープンスクールという形式が80年代から見られた、とあります。オープンスクールというと、学生募集のイベントのように聞こえますが、違いますね。

<写真>

おもしろいことに、画一的なものはいやだ、といってオープンスクールが増えると、これまでの授業のやり方では不都合が生じた、空間の変化により方法も変えないといけない、ということが面白いですね。

確認問題
1 自分自身の学校生活を思い出してみよう。愉快に感じられたり、わくわくしたりしたのは、どのように過ごしたどのような場所だっただろうか。

グランドや体育館裏

2 学校改革としてのオープンスクールは、日本の学校に何をもたらしただろうか。また、
それが行きづまった原因はどこにあっただろうか。

80年代の日本におけるオープンスクールは、画一化された一斉授業の廃止と学習の個別化・個性化を推進する愛知県緒川小学校のように、物理的空間の改革と授業改革により新たな教育のあり方を模索するきっかけとなった。しかし、オープンスクール建築の画一化や空間を活用する教育実践の改革が伴わず形だけの取り組みに陥った点に行き詰まりの原因がある。(165字)

3 学校建築や内部空間のデザインという点で、このユニットで触れていること以外に、必要だと感じられたり、試みる価値があると考えられたりすることはないだろうか。自由にアイディアを出してみよう。

火曜日, 5月 08, 2012

ディベート授業 参考

ディベート授業あれこれ
http://nade.jp/school/etc.html


ヒゲ猫先生が、わかりやすい事例で説明してくれる
http://dctama.katsu-yori.com/index.html


フローシート
http://jdcfs.web.fc2.com/sub23.html
http://www.nipec.nein.ed.jp/sidouan/03kou/13syougyou/h22/40sakai.pdf
http://sdsdann.web.fc2.com/SDSkouza/kouza2-6.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~t-usui/kyoushi/kokugo/debate/flowsheet.htm
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~cont1/kou_kokugo/devate/doc/j.pdf
http://homepage2.nifty.com/dfujikawa/bessei.pdf

そのほかワークシート
http://www3.ocn.ne.jp/~niagara/debate/worksheet.htm

看護学生にとってのフィールドノーツ(看護実習記録) 参考

寝る時間が増える 看護実習記録を早く書くコツ
http://ameblo.jp/quickkiroku/

パターン(型)を身につけることで、何が特別(個別)なのかを把握できる。自分の「型」を練り上げることができる。

アセスメントのパターン
①情報の整理 「~であるといえる。」
②その理由(根拠)
③ここに看護介入しないと、こんなことが起こるかも(予測)
④よって、こういう看護問題があるといえる。イコール、看護介入が必要である。

結論は「あつかう情報から、看護問題だといえるのかどうか」ということ
(上記ブログより引用)


「目標」をつくることで、振り返りをしやすくなる

振り返りは、学びを得ることと、次に何をすれば良いのかを知るために行う。目標の自己評価がポイント。

アセスメント(情報収集・情報分析) ⇒問題の明確化 ⇒看護計画立案 ⇒看護計画実施 ⇒看護計画評価 ⇒

上記は、教育計画だけでなく、問題解決方法の一般的な手順


実習で使えるずれない看護過程を展開する鍵
http://ameblo.jp/kango-katei/

実習記録をすばやく書く方法
http://ameblo.jp/jissyuu2banurse/



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実習記録から見た基礎看護実習Iにおける学生の体験と学び
金城 忍 , 嘉手苅 英子

… 本研究の目的は、基礎看護実習1での学生の体験と学びを明らかにすることである。 … 24名の学生の3日間の実習記録から、227場面の体験と学びが導き出され、各場面から体験と学びの内容を比較検討した。 …

沖縄県立看護大学紀要 8, 32-38, 2007-03

http://ci.nii.ac.jp/els/110007878048.pdf?id=ART0009553546&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1336525698&cp=




質的研究の看護学領域への展開 : 社会調査方法論の視点から
岡村 純

人間を対象とする学問においては、近年、質的研究が世界的に注目されているが、その概念や評価基準について統一的な考え方が確立されていない。そこで、社会調査方法論の発展との関連において、看護学における質的研究についてその概念や評価枠組み、代表的な方法の特徴と使用にあたっての留意点を文献的に検討した。その結果、看護学領域における質的研究は、(1)その概念を 1.研究対象の一つひとつを事例として重視する、2 …

沖縄県立看護大学紀要 5, 3-15, 2004-03

http://www.okinawa-nurs.ac.jp/c1/siryo/5_03.pdf


教育研究のための質的研究講座
http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~ysekigch/qualmtd.html



看護研究ガイドマップ
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=18&ved=0CG4QFjAHOAo&url=http%3A%2F%2Fwww.md.tsukuba.ac.jp%2Fkango-kagaku%2Fweblog%2Ffiles%2Fkango-kenkyu.ppt&ei=icapT4TwJ6HkmAW3p8zhBA&usg=AFQjCNFZSN2IHoo2Vvf5HWUh3Ji4Mc2jYw&sig2=JgIJGXZ9pNKPGE-9MzZUzw



新卒看護師は看護実践プロセスにおいてどのように行為しつつ考えているのか : 臨床現場におけるエスノグラフィーから
奥野 信行

園田学園女子大学論文集 44, 055-075, 2010-01

http://www.sonoda-u.ac.jp/tosyo/ronbunsyu/%E5%9C%92%E7%94%B0%E5%AD%A6%E5%9C%92%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%AB%96%E6%96%87%E9%9B%8644/055-075.PDF


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看護実習レポートとフィールドノーツの違いは、誰が読むか、どのような目的を有しているか、による。前者は、的確な処置を行うための「観る力」を看護学校の教員が測ることを目的とする(もしくは学生が学ぶ)ことを目的としている。後者は、その時空間や相互作用を理解し、研究的知見を得ることを目的とする。ただし、共通する点も多い。

・事実と感想、解釈を分ける
・自分の主張の根拠づけとしてデータ(事実)を用いる

また、記録の仕方にも、推測ではあるが、共通点があるだろう。

・時系列での記載
・メモをもとに、出来事をあとで思い出す(構成する)

・書く経験を重ね、フィードバックを受けることで、書くことに慣れ、書けるようになる。

など。

子ども観 説明


子ども観 説明

(木村元・小玉重夫・船橋一男『教育学をつかむ』有斐閣2009)22ページに、子どもの内面を加工する技術の対象としてみる主流の子ども観と、幼稚園の祖とされるフレーベルが言うように、子どもの本性が自然に開花すると考える反主流の子ども観があって、それらは対立しているように見えるとある。「しかし」、の後は少し難しいですね。ここでは、対立しているように見えるけども、そう単純ではない、とだけ理解しておきましょう。そして、そこに矛盾や不安定さがある、という点を言いたいのでしょう。どういうことか、ということが、たとえば、の後に書かれています。①は、内面性を理解する、ということは一見素晴らしいことのように見えるけれども、実はそれは監視であって、子どものコントロールや自律性の破壊につながる、と書かれています。②や③も、一見良いことのように見えるけど実は、という副作用についてかかれていますね。
日本の子ども観の展開は、気をつけないとステレオタイプな日本文化論になってしまいます。たとえば、みなさんはここに書かれているようなことを本当にそうだと思っていますか?ただ、外国の人から見たとき、日本の特徴が浮かび上がってくる、ということはあるかもしれません。子宝思想と子殺しというのは、先程の西洋における主流と反主流の対立と同じように、日本における矛盾した構造としてかかれています。
次の、1920年代に子ども中心主義が唱えられる、というところは、後ででてくるデューイのところでも出てくると思いますので覚えておきましょう。「しかし」、それは西洋と同じ精神の上で唱えられたものではない、と書かれています。その背景には、宗教の違い歴史の違いがある、ということでしょうね。それが、母親の子どもに対する接し方の違いに現れる、と書かれています。

<絵本>

その後、少産少子社会、少子化動向が子ども観に影響を与えた、ということが書かれています。マルサス主義とは、人が増えるスピードのほうが食料が増えるスピードより速いから調整しましょう、という考えで、ここでは、「明るい家族計画」をしましょう、というようなことでしょうね。詳しくは27ページに書かれています。
そして、意識的に「育てる」、教育する、という子ども観が生まれてきたということ、その象徴が狼に育てられた子の話し、ということです。インドのアマラトカマラ、フランスのアヴェロンの野生児が有名です。アヴェロンの野生児は舞台化もされています。教育の可能性やおごり、また、この子どもが野生児とみなされたのは実は学習障害があったからではないか、という話もあったので、障害を持つ子どもに対する教育の問題喚起などともつながる話しになっています。

次に、少子化問題についての説明があります。まず、このグラフから何が読み取れるかを確認しておきましょう。
また、少子化「問題」という言葉に少し着目したいですね。少子化自体はずっと続いていました。でも、それが「問題」とされたのが90年代だといわれています。では、誰が「問題」にしたのでしょうか。なぜ、どのように「問題」となったのでしょうか。他に「問題」はなかったのでしょうか。それは本当に「問題」なのでしょうか。つまり、いいたいのは「問題」は作られるものだということで、だれがそれを作り、それが解決された結果、誰が恩恵を受けるのか、という視点が必要だと思います。

このユニットで一番切実な問題は、少子化となる社会の構造についてなのかもしれません。みなさんは看護師として働くわけですが、女性も男性も、どの段階で子どもを持ちたいのかという計画を立てるでしょう。しかし、思うように授かるわけでもないし、仕事の状況がそれを許さない、ということもある、結婚自体についても問題もある。こうした様々な問題を克服して、計画するからこそ、子どもができてから、どのように教育をするか、という意識も高まるのかもしれません。

確認問題

※以下の説明はあくまで私なりにまとめたものです。これを暗記したり、コピペしたのようなレポートは、すぐにわかります。とはいえ、教材として提示しているテキストの内容をまとめる以上、あまり異なる回答にはならないでしょう。そこで、定義や視点をそのまま使うにせよ、自分なりにどのように解釈したのかを、各人の体験を交えて補足するなどの工夫をしましょう。もし、紙幅に余裕があるようでしたら、ぜひ章末の参考文献に当たって、テキストでは言及されていないところまでをくみ取ったり、関連する研究を引用をするようにしてください。このように、情報を多面的な角度から検証すること、自分に引き付けて捉える姿勢が、ウィキペディア時代において、求められる能力です(2015.2.2追記)。

1 子ども観とは何か。子ども観と教育はどのような関係にあるか考えてみよう。
子ども観とは、大人による子どもの見方や把握の仕方である。子ども観によりその対象である子供への働きかけが定まるため、教育に影響を及ぼす。(67字)

2 日本の社会と欧米の社会で子どもの扱いが違うことについて、こども観という観点から考えてみよう。
西洋社会では、子どもは親や国家の私物ではない個として把握されることが基本にある。その上で、子どもを「進歩する」対象として捕らえ、その内面を加工する技術の対象として子どもをみる主流のこども観と、子どもがその本性に従って開花するという反主流の子ども観が合わさり構築される。絶対的な神の被造物と見る西洋の子ども観に対して、日本社会では子どもを親の付属物とするような子宝思想があり、選ばれた子どもを大切に育てるという方式を近代以前から取っている。(219字)

3 少子化の動向を押さえながら、教育における少子化の意味を考えてみよう。
日本では多産多死から少産少死への人口構造の転換が戦後の短期間になされた。それは、2人か3人の子どもに愛情を与えて「よりよく育てる」ことを共通の価値し、1960年代以降は、子どもをいかに「よく」育てるかが大きな問題となり、あらゆる階層が学歴獲得競争に巻き込まれた。1989年の1.57ショックにより90年代に入り少子化問題が叫ばれた。戦後の日本の近代家族が新しい展開をとげ、子育てのシステムが問い直される必要が言われている。(211字)

火曜日, 5月 01, 2012

学校に関するメタファー ワークシート


学校に関するメタファー

グループ名(                )

1. 以下の言葉の中から、学校のイメージをよく表していると思う単語を一つ選んでください(グループで別の単語を考えても良いです。

デパート / 病院 / スポーツジム / 広場 / 動物園 / おもちゃ箱 / 
ジャンブル / 寄せ鍋 / コンビニ / 鳥の群れ / 家 / 川 / 地獄 / 
無人島 / ゴミ箱 / 塾 / そのほか(            )

2. 学校のイメージを表していると思う形容詞を一つ選んでください。

楽しい / 面白い / つらい / 悲しい / 寂しい / うるさい / 
そのほか(                          )

3. 1と2をつないで、「学校とは、形容詞+単語、である。」という文を作ってください。

「学校は、                           、である。」

4. 3の文の説明やエピソードを書いてください。

学校とは何か 説明


(説明)

最初に、学校は大人になるための通過儀礼だ、と書かれていますね。これも一つの定義でしょう。学校自体は古くからあって、それは効率的に文字学習を中心として文化を伝えることが目的だったけれども、限られた人を対象にしたものだった。しかし、近代社会になって、一般の人のレベルで学校を通した文化の伝達が行われるようになった。それまでは、親方の技を学ぶ、という徒弟方式。これまで何度もでてきているラピュタのパズーのイメージです。しかし、15世紀に印刷技術が進んでテキストを共有できるようになり、白紙に印刷されるように大量の子どもに知識を伝えることが可能になった。
いま、看護学校ではどのような形態で授業が行われていますか?一斉教授が主ですね。それは専門的な知識を、同一内容のことを、効率よく伝達したいからです。しかし、たとえば「脳死状態にある患者さんの家族に対するケアのあり方」、などが正解が一つとはいえないテーマを扱うとき、授業の形態を変えることもあるかもしれません。机が前を向いている、という形態は「あたり前」のことではない、というのが、僕が教育に関心をもった一つのきっかけでもあります。

技術の進歩によって知識の伝達方法が変わった、というのは面白いですね。果たして、本当に変わったのでしょうか。テレビがでてきた時代、インターネットがでてきた今、学校や教え方は換わらなければいけない、といわれますが、本当に「学び」がおきるのは、今も昔も変わらないかも、という見方もできます。
それは、さておき、「学校で学ぶ身体」というのは面白いですね。中学校の生徒指導を思い出してみてください。最初のほうは口うるさく言われますよね。そのうち、言われなくてもできなくなることが良いことだ、みたいな価値観が共有されはじめ、上級生は自分から動くようになります。これを、施設や空間という視点からみたとき、パノプティコンという興味深い装置が紹介されています。
<絵>
【見られずに見る】、囚人はいつも見られることで、監視の視点を内面化する、自分で自分を監視する主体を作り上げる。これって、中学校の生徒指導と似ていませんか?

話しが45ページまで飛びまして、近代学校の定着と不信の上から5行目に「しかし」という接続詞があります。この後に、特に言いたいことが来るんでしたね。どんなことが書かれているのでしょうか。1970年代の中頃から変わった、と書かれていますね。登校したくてもできない子どもを受け入れられるようにしよう、という流れから、登校はできるけれども学校には行きたくない、という流れになったと書いています。つまり、学校は価値がある、という社会の信念が揺らぎ始めた、ということです。「なぜ学校に行くのか」という問いに答えることが求められている、と締めくくられています。

要約
人類の歴史では、習俗のような形で子どもを大人にする仕組みが埋め込まれていた。
近代を迎えて学校が入り込んでくることで教えるー学ぶという文化伝達の方式の転換が進む。国民や産業人養成のための知識伝達、身体訓練という役割も学校は担った。
今日の問題は、学校という制度自体が、子どもの学びと合わない場合があることだ。

確認問題
1. 大人になるための通過儀礼という観点から学校の性格を整理してみよう。
それぞれの社会において、その社会に応じた基準により、正規の構成員として役割を果たしていけるものであると社会が認定するための通過儀礼が存在する。近代社会においては、学校がそれを提供する。(92字)

2. 学校方式の特徴を徒弟方式と比較して示してみよう。
徒弟方式では、教えるという意図を明確に持つことなく文化伝達が行われ、弟子達は親方と生活をともにして親方の技を学ぶ、もしくは盗む。その際、伝達されることには、親方の生き方全体に刻まれた人格も含まれる。学校方式の特徴は、教えるという意図を明確に持った行為が組織的に行われることであり、技術を効率よく伝えることに主眼が置かれ、印刷技術の進歩により同一内容を同時に伝達する一斉教授という形態が見られる。(197字)

3. 近代学校の成立を踏まえながら、その基本的な性格を示してみよう
近代学校は国家という新しい共同体の成立に伴い、その成員を育成するという役割を担い成立した。産業社会の発展に伴い、身体や精神の規律訓練が社会システムの中で要請され、学校にもその規律訓練装置の役割が求められてきた。近代学校の導入期においては、習俗など学校外での力量形成が行われていたが、近代学校は強制力を伴って子どもを学校に取り込もうとした。(169字)

4. 今日の学校改革の動向の基盤にある特徴についてまとめてみよう。
今日の学校改革の動向の基盤にある特徴として、情報化や脱工業化など、社会そのものの変化が影響し、近代学校そのものの根本的な見直しが挙げられる。それは、官・民という枠組みを越えて、幅広く、多様な形で繰り広げられている。(107字)