学習の過程と形態―新たな学びのデザインへ 説明
このユニットは、皆さんが看護師となるために、また看護師として継続して学ぶ上で重要なことが書かれていますので、よく考えていただければと思います。
「できない」から「できる」を学習の定義としてきたことから、「わかる」という状態がいかに作り出されるか、という「認知」を研究する学問が現れたといいます。学習とは、個人の頭の中で起こる現象でなく、個人と他者や人工物との間で起こる現象だと説明されています。
哲学の世界では、「われ思う、ゆえにわれあり」で有名なデカルトにより、物事を捉えている自分、つまり主体と、自分以外の世界、つまり客体が分けられました。そして、どんどん、そうやって考えている自分について考えるようになり、ややこしいですが、そうして考えることの限界がどこにあるのか、ということをカントという人は考えました。
どうですか?「あれこれ考えている自分」というのは疑いなく存在している、と考えたとして、では、もし自分が死んでしまったら、世界はなくなってしまうのでしょうか。その人にとっての世界はなくなってしまうかもしれませんね。一体、自分と世界はどのように関係し、つながっているのでしょうか。こんなことを考えたとき、自分と世界をつなぐ「からだ」が着目されました。そして、自分がいて、世界があって、と二つに考えるのでなく、それぞれは同時に存在しているのだ、という考えや、それは服とハンガーのようなものであって、それぞれが並行に存在して時に接するのだ、という考える人がでてきました。
いずれにせよ、考えているその人の頭の中だけに世界が存在している、というような考えでなく、自分と世界との関係で考えようと、という方向に動いているといえます。この辺、からだや生死に関わる看護師になろうとするみなさんにとっても関係するところですね。からだと人格、考えというのは関係している、という捉え方です。
さて、そこで、状況的学習と社会文化的アプローチが代表的な二つの理論である、と紹介されています。まず、状況的学習では「場」、という点が着目されていますね。そこでは、他の人とどのような関係を結ぶか、それはつまりは学び手のアイデンティティの自覚が伴う、と書かれています。話をして、それを聴くという関係、お互いに話をしながら何かを探ろうとする関係、看護という新しい場で動く身体を作るために必死に学ぼうとする自分、それぞれの場において、自分はなんのために学ぶのか、この場にいるのか、という自覚が、学びに関係する、と書かれています。
ここで、重要な言葉がでてきます。正統的周辺参加、という言葉ですね。新参者は共同体の周辺的な仕事に関わる中で、仕事をする上で必要な道具や言葉の使用に精通し、共同体の成員としてのアイデンティティを強化する、と説明されています。
ここで、みなさんの場合について考えてみましょうか。「看護」という実践を考えたとき、ベテラン、新人、看護学生はそれぞれどのような仕事があるのでしょうか、そうした仕事に参加することで、みなさんはどのような道具や言葉を学び、どのようなアイデンティティを強化するのでしょうか。
<正統的周辺参加 概念図>
次に、社会文化的アプローチと活動理論では、学習は言語をはじめとする文化的道具(人工物)に媒介された行為である、とされています。つまり、自分の体験を言葉にしてお互いに伝えたり、教科書に書かれていることを介して自分の考えを深める、というようなことです。そうした文化的道具に自分なりに意味づけして、「自分のものにしていく」ことを専有という、と説明されていますね。
ヴィゴツキーとエンゲストロームの理論については難しい説明がされていますが、この理論が実際に教室で活用される時には特にヴィゴツキーの発達の最近接領域に着目されます。とても難しい理論なのですが、こんな風に考えられます。これは、一人ではわからないというレベルと、みんなと一緒ならわかることのレベルの間でできる空間のことです。授業の中で、その空間をぴょん、とジャンプできれば、そのわからなかった生徒たちは学んだといえる、と考えます。
<発達の最近接領域 図>
例えば、数学の問題を班で考える、という活動について考えてみましょうか。その班の中で、一番できる生徒もちょっと考えてしまうような問題があるとしましょう。このとき、普段はあまり勉強ができない、とされる生徒のちょっとした一言で、そのできるとされる生徒が気づいたり、別の生徒がたまたま覚えていた公式でわかったりすることがあります。
例)
下の図を2分する直線を書いてください。
<図 階段型の長方形>
ヒント)長方形の対角線の交点をOとし、Oを通る直線で分けられた二つの形はOを対象として点対称となる。
解答)図を二つの四角形に分け、それぞれの長方形の二つの交点を通る直線を引く。
いずれにしても、学習の過程と形態は共同的行為として遂行される文化的実践への参加としてデザインされている、つまり他の人と一緒に、その場の文脈を生かした活動に参加することで学びが生じるように工夫されている、ということです。そのために、アーティファクトをどのように配置するか、ということに関心が寄せられた。空間のデザインもその一つです。そうした関心の高まりに一役買っているのがアフォーダンスという考えです。これは、うまく説明することが難しいのですが、人間と環境を考えたとき、環境には意味が埋め込まれていて、人間がそれをピックアップする、という考え、といえばよいのでしょうか。お掃除ロボットなどは、こうした考えの転換があって発明された、と言われています。
確認問題
1 認知科学の発展がもたらした学習観の転換は、従来の学習の捉え方のどのような部分を、どのように変えていったのであろうか。
従来、学習はできない、からできる、という行動の変容を定義されていた。しかし、物事の構造の理解、すなわち、わかる状態がいかに作りだされるかという認知を研究する学問の発達により、学習とは個人の頭の中で起こる現象ではなく、個人の頭の外で、個人と他者や人工物との間で起こる現象であると理解されるようになった。(150字)
2 学習が共同的行為として遂行されていくということの根拠は何か。状況的学習(認知的徒弟制)、社会文化的アプローチ(活動理論)のそれぞれに即して考えてみよう。
状況的学習から考えた根拠は、レイヴらが洋服の仕立て職人の事例で示したように、新参者が職人集団という実践共同体の周辺的な仕事を通じて参加することにより、その仕事に必要な道具や言葉、成員としてのアイデンティティを強化することに求められる。この学習形態はスポーツクラブや科学の実験室などでも見られる。
また、社会文化的アプローチから考えた根拠は、認知の社会的発生、学習の媒介性、学習の共同性に即した事例に求めることができる。例えば、看護事例を検討するカンファレンスは、それがよりよい看護のあり方を求める社会的コミュニケーションの中で、共有された言語や道具を介して問題解決に向けた協働を通じた学習が生起する場となっている。
いずれも、学習が文化的なйや道具の共有と協働使用により成り立つ点や、発達とはその使用の仕方の変化によってもたらされるという捉え方をしている点に共通点が認められる。(387字)
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