土曜日, 7月 14, 2012

学校の中のジェンダー


第一問、グループで「女らしさ」について考えてみてください。

男性チームは最後に発表してもらいましょうか。

→女らしさ:やさしさ、料理、家庭、おしとやか、グループ、髪ながい、化粧、縫物、ハンカチ、いい香り
(男性チーム):上品、几帳面、スカート、ブラジャー

女性の考える女らしさと男性の考える女らしさには少しづれがあるようですね。

男らしさ、女らしさとはいつ頃から言われ始めたと思いますか。皆さんもしっているナイチンゲールは、1881年の講演ですでに「看護に重要なのは女らしさ」と言っています。この女らしさとは、もの静かで、優しく、辛抱づよく、許すこと、だと言います。

これは、18世紀のブルジョワジー、中産階級に広まった考えで、いわゆる良妻賢母というものですね。その背景には、お父さんとお母さんが一緒に仕事をする家内生産から、お父さんが別の場所に働きに行くようになったと言う産業社会の影響もあります。日本では大正期にこうした考えが紹介されたようです。

では、第二問、学校で男、女を感じるときはどのような場面ですか?ちなみに、中学、高校は共学校でしたか?(全員が共学。一人が男女別クラス。)

→卒業アルバムの委員が全員女子だった、テントは男がつくる、体育は男女別

体操服はどうでしたか?

→男女同じ

制服は、学校で男女を分ける最たるものだと思います。明治30年ころに「女学生」という言葉が出始めましたが、これは中流階級の活発な娘さんを象徴する言葉でした。大正期には、女子体育でより機能的な衣服が求められブルマが取り入れられました。つまり、女子学生の制服は、活発で機能的な身体性を表現していると言えます。同時に、清楚、女性らしさの象徴であり、まなざしの可視化であったと言えます。このように、衣服や体育など身体に関することがらと、ジェンダーはとても強く結び付いています。看護師についても同様のことが言えるかもしれません。戴帽式の時、男子はナースキャップを女子と違った付け方をしていましたね。
ジェンダーとは、もともと文法用語でしたが、1960年代、アメリカで始まった第二期フェミニズム以後、生物学的な性差を指すセックスに対し、文化的・社会的に作られ意味付けられた性差を示す用語として用いられました。それまでは、セックスという言葉しかなかったため、生物学的性差と性役割は切り離せないものとして認識されていました。例えば、「出産するのは女性だから、女性が育児をするのは当たり前だ」というように、生得的な性差によって、特定の性役割を担うことが「当然」「自然」であるとみなされる、ということです。しかし、「男らしさ」や「女らしさ」とうのは、学習によって習得されていく、と考えられました。これを性の社会化といいます。「~らしさ」というのは、「医者らしさ」「看護師らしさ」「教師らしさ」など社会的カテゴリーと結びつけた職業人像を指すときにも使われます。「男らしさ」「女らしさ」が取り上げられるのは、あらゆる日常生活場面の隅々に浸透しているからです。

では、第三問、男、女で損したと感じる場面はありますか。

→家事、門限、痴漢、お金かかる(化粧、服)
(男性チーム)レディースデイ、力仕事、プロポーズは男から。

女性が損していることを最もよく表しているのが賃金ではないでしょうか。日常生活の中で見えやすい性差別は、男女間の賃金格差や就労形態の違い、管理職の割合の格差などが挙げられます。古いデータですが、平成15年の男性賃金を100としたとき、女性の賃金は68程度しかありません。つまり、男性が30万円もらっていたとしたら、21万円程度しかない、ということです。スウェーデンは91.2、オーストラリアで88.5と、日本はまだ賃金格差が大きいと言えます。それは、女性に昇進機会が少ないことにも影響し、「ガラスの天井」と呼ばれたりします。しかし、家庭や職場、政治の領域で男女平等になっていると答える人が2割から4割であるのに対し、学校については65%以上と高くなっています。しかし、実はそこに隠れた男女意識の刷り込みがあり、それが男女性差の再生産につながるのではないか、と指摘されるようになりました。
例えば、高校受験についてみると普通科は男女数がほぼ均衡しますが、工業高校や水産高校には男子が、商業高校、家庭科、看護科、福祉科には女子が多いというパターンになっています。大学の専攻では、社会科学(1993年18.7%→2003年30.7%)や農業(29.9%→41.3%)、保健(42.7%→56.9%)の分野で女子学生の割合が増え、一方で家政学で男性(6.3%→10.3%)が増えるというように性別役割の流動化も見えますが、大きな傾向として人文科学、教育、家政学、芸術の学部に女子が多く、工学、商船、理学に男子が多くなっています。
また、教員についてみても、学校段階が上がるほど女性の比率が下がります。幼稚園教諭の98.4%が女性、小学校教諭では65.1%ですが、中学校では40.3%、高校では25.1%、大学では13.2%となります。これは、子どもに対するケアを施す仕事を女性が希望した結果です。このように、気づかない内にジェンダーに適した生き方が提供され、それを自分のなかに組み込まれているのはなぜか、それは学校教育のなかでそうした意識が形成されるからではないか、と関心を寄せるのが学校におけるジェンダー研究と言えます。
(住田正樹・田中理絵「12ジェンダーの世界」住田正樹・鈴木晶子『教育文化論-人間の発達・変容と文化環境』放送大学教育振興会、pp.187-198

(学校生活の中で感じる性役割について考える)

1990年代半ばごろからジェンダーの視点によって学校を見なおそうという動きが活発化しました。ジェンダーバイアスの是正が試みられたわけです。学校における性の不平等、性役割の固定化/分別化、男子優位主義、などです。それは、どのような言葉づかいをすべきか、とか、偏見や差別を取り除くべきだ、という視点よりは、それがなぜ生み出されるのかというメカニズムを明らかにする視点を取ります。例えば、子どもとの関わりにおいて性別はどのように捉えられているのか、また性別によって子どもに対してどのような対応をしているのか、性別によって子どもをどのような方向へと導いているのかなどのメカニズムを明らかにすることなどです。
ここで、ジェンダー問題が教育問題として、いじめや不登校、学級崩壊などが「問題である」とされることとは異なるイシューであることを考える必要があります。学校という場では、まず問われるのは解決の緊急性です。いじめや非行が問題として注目されるのは、それらが人を傷つけると判断されるためです。また、それが外から見てもわかりやすいからです。
また、男女平等教育との違いも混同されがちです。例えば、男女混合名簿を導入するということと、更衣室も一緒にすることを一緒に考えるべきなのか。それぞれの意図は何なのか。ジェンダーという言葉がなぜ必要になったのか、どのようなことが問題で何を考えなければいけないのか、が不明瞭であるために「問題」として取り扱われにくいという側面もあります。男女平等教育は、男女共同参画社会の実現に向けた行政主導による規格化された問題領域、ということができます。それは差別の撤廃を目的としており、実践としてもわかりやすい。一方で、ジェンダー問題というのは、ジェンダーを考えることで、これまでに見えなかった学校教育の問題点や課題を考えること、が目的とも言えます。これは、多文化共生、というアプローチでも同様のことが言えるかもしれません。
例えば、委員会活動で性役割が固定されていなかったか、家庭科の授業の中でどのような性役割が暗黙の内に設定されていたか。ジェンダー問題を考えることで、何が問題と鳴っているかを発掘し、問題とするのかと同時に、ジェンダー関係の変容自体が目標となります。この点が、問題を解決し、問題を消滅させる、ということを目標とする他の学校問題と異なります。
例えば、男女混合名簿、下駄箱や教室内表示における色分け、「さんづけ」の徹底、学内行事における男女別のグループわけなどの見直しは、その「当たり前」を見直すことでこれまで「女/男」という境界線をどのように使用していたのかを意識化することにつながります。通常、そうした「性」は学校の中で慎重に扱われ、表にでることがありません。しかし、授業中に男子がよく発言するクラスで「女子も元気出して」と声をかけたり、「そこの男の子たち静かにしなさい」と注意したり、生徒には「これはしてはダメだ」と注意しておきながら、後で同僚同士では「この時期の男の子だからしかたがないんですけどね。」と話したりする。こうして、教員には「性」がハッキリ意識されていることもあります。
そして、教師もまた「性」役割のイメージを押し付けられる対象でもあります。
小中学生を対象とした調査では、「男・女に生まれてソンをした」と感じるのは、「学校で感じる」方が「家庭で感じる」よりも比率が高かったそうです。
(吉原恵子2003「14学校のなかのジェンダー問題」苅谷剛彦・志水宏吉編著『学校臨床社会学―「教育問題」をどう考えるか』放送大学教育振興会,pp.203-220

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