あなたと分かち合いたいこと: 発展途上国からの「教員輸入」と使い捨て教員: 「教員派遣」というビジネス 新自由主義の理想を追い求め、公教育に市場原理を徹底的に導入した場合、「教員」の存在とその仕事はどのように変化するだろうか。その行き着くところは、教員の非専門職化、更には「使い捨て人口化」ではないだろうか。教員養成、教員免許、教員配置等のあらゆる...
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実に明晰な分析だと思う。
この分析をもとに、仮想実験をしてみよう。
派遣ビジネスとしての教員が拡大した世界について。
実は、これはすでに日本でも始まっている。
都内の教員採用に、塾関連の会社が関わっていることは、学校関係者であれば知っている人もいるだろう。
ここで、あえて、別の立場から批判してみる。
「なぜ、それがいけないんだ。教え方の上手な教員、能力の高い教員が集まるなら、それは子どものためになるだろう。それの何がいけないんだ。そういうのは、結局、教員の既得権益を守りたいだけなのではないか。」という声もあがるだろう。
「これまで<結果>が上がらなかったのは、教員の養成段階の問題だろう。だから、養成段階そのものをもっと厳しく、長くする必要がある、もしくは養成機関の格付けを行う必要がある。」
このようにして、<責任感=アカウンタビリティ>をもった教員が、不安定で流動的な労働条件の教員が、増える。こうした労働環境は、すでに大学で始まっている。
そうであれば、派遣先を切られても、別の派遣先を提供できる会社に登録したほうが、教員にとっても安定なのではないか。また、民間経験をしてから教員になる、もしくは教員をしてから民間にいく、ということも容易になり、<社会を知らない>教員というレッテルも少しはなくなるのではないか。
こうした声には一定の妥当性があるように思える。しかし、それが大きく進められたニューヨーク市の教育を少しばかり肌で感じてみると、そこに薄ら寒さを感じる。日本の教員に問題がないわけではないだろう。壁を感じさせる教員や、自分の価値観に凝り固まって協働しない教員、地域との交流は面倒だと感じる教員、様々だ。
鈴木さんのブログで、すでに現実に存在する問題として、教育現場における正規雇用と非正規雇用の格差により生じる、<教育という物語>の緩やかな消滅だ。非正規の教員は、その学校の組織文化を構成する一員とならず、正規雇用のみで構成されるコミュニティは硬直化し、縮小し、個別化する。教育委員会の存在が問われ、自治体としての物語の継承が危うくなっている状況で、さらにその学校独自の物語を紡ぎだすことができなくなれば、教員文化を再生産する資源が枯渇する。
そして、鈴木さんのいうように、「使い捨てられる教員」により構成される、新たな、おそらく悲哀に満ちた物語が語られ始めるのではないだろうか。
ただし、アメリカとの違いは、幸か不幸か、日本語は英語のような影響力ある言語ではない、ということである。すなわち、この言語の壁が参入障壁となり、教員派遣市場はアメリカに比べ、小さいものにとどまるであろう。
しかし、もし、提供する教育が、コンビニやファースト店におけるマニュアル的なものを超えないのであれば、鈴木さんの危惧する状況はすぐそばまで来ているのかもしれない。
したがって、考えるべきことは、日本の教員文化である包括的な関わりの価値を考えること、より高度な教育を創りだせる専門家となるかである。後者は単に難しいことを教えるということでなく、社会経済的に恵まれない子どもや特別支援を必要とする子どもをどう包摂し、教育という場の中で学び合えるようコーディネートするか、という意味も含めてである。
このように考えることは、教員や学校にすべての責任を押し付けることや、多忙感を増すことにもつながるため、慎重な姿勢が求められる。しかし、鈴木さんの指摘する危機を問題とするならば、自分たち教員はどのような存在であるべきか、というアイデンティティを問い、どのようなことをすべきなのかという問題と正面から向き合う必要があるのではないだろうか。
1 件のコメント:
RSさん、私の論考に対して真摯なコメントを下さり、感謝申し上げます。そうですね。教員派遣の民営化に関しても勿論そうですが、公設民営学校にしても、教員免許等の規制緩和に伴う教員養成の市場化促進にしても、新自由主義的な教育改革はどれも、営利主義を抑制できず、公教育の公共性を蝕むところにあるように思っています。その意味で、仰るように、公教育において社会は教員に何を求めるべきか、そして公教育に私達は何を求めるのかという教育の根源的な問いが迫られているのだと感じます。
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