1989年の国連総会で採択された「子どもの権利に関する条約」がこのユニットのポイントの一つですね。それは、①法的効力を有していること、②開発途上国やマイノリティに対する現状とニーズを考慮していること、③権利行使の主体としての子どもという子ども観を打ち出していることが画期的と書かれています。
もう一つの大事なポイントとして、「参加のはしご」が紹介されています。これは、参加の段階をわかりやすく示していますね。あやつり、お飾り、名目のみ、という非参加の段階があって、次に、大人から役割を与えられ情報を与えられるという段階、大人から相談され情報を与えられるという段階、大人が主導し、子どもと共同決定するという段階、子どもが主導し、大人に指導されるという段階、子どもが主導し、大人と共同決定するという段階が示されています。
みなさんの中学校、高校では生徒会はどのような活動をしていましたか。また、それは、どの段階に位置づくと思いますか。
社会とどのように関わるかということは、教育の位置づけにおいてとても重要なことです。教科書では参加民主主義の方向性でシティズンシップを育成しようとしている、と書かれていました。シティズンシップとはどのようなことなのでしょうか。
シティズンシップとは、もともとは、17世紀、18世紀に国家の主権者としての市民層をあらわしていましたが、その対象は一部の成人男性に限られていました。それは、個人の自由をあらわす市民的権利から、19世紀の参政権や政治参加を表す政治的権利を経て、20世紀の副詞国家段階における社会的権利へと発展してきたといわれます。しかし、1960年代末から、福祉国家的な政策に対する批判が強まる中で、シティズンシップの理念が動揺し始めます。というのも、市場原理を再評価し、平等よりも卓越性を重視する視点と、共同体を再評価し、個人の権利よりも個人が貴族する共同体への義務や責任を重視する視点があったからです。この二つの視点は時に対立します。
ハーバード白熱講義という番組でマイケル・サンデルさんが有名になりましたが、この人はジョン・ロールズという人の書いた「正義justice」を再解釈した話しをします。それを、現代風の事例をとって、わかりやすく説明しているのですね。例えば、イチローは年間何億というお金を稼いでいるが、それはすべてイチローが個人的に使うべきである、とかいうものです。
こうした二つの対立する視点を克服する「第三の道」という考えが90年代から現れ始め、アメリカやイギリスの政治で語られるようになりました。それは、個人の権利と平等という考え、市場と共同体の再評価という視点を融合していく考えです。それは、新しいシティズンシップ像を示すものではなく、模索するものです。その一つの事例として、チャータースクールが挙げられます。
チャータースクールについては、194ページにかかれています。ちなみに、前回行った学校選択については、189ページに書かれていますので、また目を通して頂きたいと思います。チャータースクールは公費によって運営され、教育委員会の規制を受けない公設民営の公立学校と書かれています。特に、マイノリティや移民などのニーズに応えて作られた新しい形の公立学校であるということです。したがって、理念的にはという注釈が必要ですが、単なる教育の市場化、民営化ではありません。これは、アメリカの共和党、民主党のいずれからも支持されました。共和党は個人の権利や市場(規制緩和・分権)、民主党は平等性や共同体を支持すると分類できますが、どちらの党からも支持されるということは、こうした考えの対立を克服する象徴としてチャータースクールが位置づいているといえます。しかし、それは、顕在化しなかった問題を浮上させることにもなりました。チャータースクールのチャーターは許可する、という意味ですが、それはこれこれこうした成果を挙げるという契約のもとに成り立ちます。しかし、教育上の成果を説明することは難しいです。また、教育委員会からみて成功していないと思われる学校も、その学校に対して影響力を行使しているマイノリティの有力者や政治勢力との関係で、閉校の措置をとることができないといいます。つまり、チャータースクールは、アイデンティティ・ポリティクスの舞台となっているといいます。アイデンティティ・ポリティクスとは、簡単に言えばそれぞれの立場の正当性を主張するための政治的行為といえるでしょう。このことは、多文化教育のユニットを読むと、より深く理解できると思います。つまり、ここに見られるように、第三の道とは、規制の緩和によって、それまで封印されていたアイデンティティ・ポリティクスなどの政治問題が噴出し、政治的相克が顕在化していく可能性が含まれるということです。
したがって、シティズンシップの教育を問うとき、そこには二つの課題があると考えられます。一つは、国民国家への帰属をあらわす近代的シティズンシップの概念を批判し、その組み換えが求められているという課題です。これまでにも何度か触れましたが、教育とはもともとは国民を育成するための営みでした。エバンゲリオンのアスカの例で説明しました。しかし、80年代ごろから、啓蒙主義的進歩史観的な教育、つまり教師は新しい社会の伝達者であり、子どもは歴史の進歩の担い手という関係で営まれる教育のあり方が揺らいでいる、と話しました。もう一つの課題は、そうした近代的シティズンシップを批判しながらも、新しいシティズンシップの可能性を模索しなければならない、ということです。つまり、シティズンシップの教育について考えることは、近代教育思想を批判的に問い直すことだということです。では、学校をどのような場として位置づければいいのか。一つの考えとして、学校を社会の批評空間とする、という考えがあります。つまり、具体的な社会問題に対して、様々な意見や立場があることを踏まえた上で、社会問題を判断する能力や他者の立場を理解する力を養う、ということです。
(上記説明の多くは、小玉重夫2003「シティズンシップの教育思想」白澤社,pp.11-20,p.160から引用しています。)
これまでに、ディベートの時間を設けてきましたが、これもそうした考えに基づくものです。福井県のおおい原発の再稼動が決まりそうです。この問題に対して、どのように参加してきたのか、どのように判断してきたのか、そうした参加や判断の質を高める役割を、今、学校は担っているといえます。