木曜日, 6月 28, 2012

子どもの学習と参加の権利 シティズンシップ教育と関連して 説明


1989年の国連総会で採択された「子どもの権利に関する条約」がこのユニットのポイントの一つですね。それは、①法的効力を有していること、②開発途上国やマイノリティに対する現状とニーズを考慮していること、③権利行使の主体としての子どもという子ども観を打ち出していることが画期的と書かれています。
もう一つの大事なポイントとして、「参加のはしご」が紹介されています。これは、参加の段階をわかりやすく示していますね。あやつり、お飾り、名目のみ、という非参加の段階があって、次に、大人から役割を与えられ情報を与えられるという段階、大人から相談され情報を与えられるという段階、大人が主導し、子どもと共同決定するという段階、子どもが主導し、大人に指導されるという段階、子どもが主導し、大人と共同決定するという段階が示されています。

みなさんの中学校、高校では生徒会はどのような活動をしていましたか。また、それは、どの段階に位置づくと思いますか。

社会とどのように関わるかということは、教育の位置づけにおいてとても重要なことです。教科書では参加民主主義の方向性でシティズンシップを育成しようとしている、と書かれていました。シティズンシップとはどのようなことなのでしょうか。

シティズンシップとは、もともとは、17世紀、18世紀に国家の主権者としての市民層をあらわしていましたが、その対象は一部の成人男性に限られていました。それは、個人の自由をあらわす市民的権利から、19世紀の参政権や政治参加を表す政治的権利を経て、20世紀の副詞国家段階における社会的権利へと発展してきたといわれます。しかし、1960年代末から、福祉国家的な政策に対する批判が強まる中で、シティズンシップの理念が動揺し始めます。というのも、市場原理を再評価し、平等よりも卓越性を重視する視点と、共同体を再評価し、個人の権利よりも個人が貴族する共同体への義務や責任を重視する視点があったからです。この二つの視点は時に対立します。
ハーバード白熱講義という番組でマイケル・サンデルさんが有名になりましたが、この人はジョン・ロールズという人の書いた「正義justice」を再解釈した話しをします。それを、現代風の事例をとって、わかりやすく説明しているのですね。例えば、イチローは年間何億というお金を稼いでいるが、それはすべてイチローが個人的に使うべきである、とかいうものです。
こうした二つの対立する視点を克服する「第三の道」という考えが90年代から現れ始め、アメリカやイギリスの政治で語られるようになりました。それは、個人の権利と平等という考え、市場と共同体の再評価という視点を融合していく考えです。それは、新しいシティズンシップ像を示すものではなく、模索するものです。その一つの事例として、チャータースクールが挙げられます。
チャータースクールについては、194ページにかかれています。ちなみに、前回行った学校選択については、189ページに書かれていますので、また目を通して頂きたいと思います。チャータースクールは公費によって運営され、教育委員会の規制を受けない公設民営の公立学校と書かれています。特に、マイノリティや移民などのニーズに応えて作られた新しい形の公立学校であるということです。したがって、理念的にはという注釈が必要ですが、単なる教育の市場化、民営化ではありません。これは、アメリカの共和党、民主党のいずれからも支持されました。共和党は個人の権利や市場(規制緩和・分権)、民主党は平等性や共同体を支持すると分類できますが、どちらの党からも支持されるということは、こうした考えの対立を克服する象徴としてチャータースクールが位置づいているといえます。しかし、それは、顕在化しなかった問題を浮上させることにもなりました。チャータースクールのチャーターは許可する、という意味ですが、それはこれこれこうした成果を挙げるという契約のもとに成り立ちます。しかし、教育上の成果を説明することは難しいです。また、教育委員会からみて成功していないと思われる学校も、その学校に対して影響力を行使しているマイノリティの有力者や政治勢力との関係で、閉校の措置をとることができないといいます。つまり、チャータースクールは、アイデンティティ・ポリティクスの舞台となっているといいます。アイデンティティ・ポリティクスとは、簡単に言えばそれぞれの立場の正当性を主張するための政治的行為といえるでしょう。このことは、多文化教育のユニットを読むと、より深く理解できると思います。つまり、ここに見られるように、第三の道とは、規制の緩和によって、それまで封印されていたアイデンティティ・ポリティクスなどの政治問題が噴出し、政治的相克が顕在化していく可能性が含まれるということです。
したがって、シティズンシップの教育を問うとき、そこには二つの課題があると考えられます。一つは、国民国家への帰属をあらわす近代的シティズンシップの概念を批判し、その組み換えが求められているという課題です。これまでにも何度か触れましたが、教育とはもともとは国民を育成するための営みでした。エバンゲリオンのアスカの例で説明しました。しかし、80年代ごろから、啓蒙主義的進歩史観的な教育、つまり教師は新しい社会の伝達者であり、子どもは歴史の進歩の担い手という関係で営まれる教育のあり方が揺らいでいる、と話しました。もう一つの課題は、そうした近代的シティズンシップを批判しながらも、新しいシティズンシップの可能性を模索しなければならない、ということです。つまり、シティズンシップの教育について考えることは、近代教育思想を批判的に問い直すことだということです。では、学校をどのような場として位置づければいいのか。一つの考えとして、学校を社会の批評空間とする、という考えがあります。つまり、具体的な社会問題に対して、様々な意見や立場があることを踏まえた上で、社会問題を判断する能力や他者の立場を理解する力を養う、ということです。
(上記説明の多くは、小玉重夫2003「シティズンシップの教育思想」白澤社,pp.11-20,p.160から引用しています。)
これまでに、ディベートの時間を設けてきましたが、これもそうした考えに基づくものです。福井県のおおい原発の再稼動が決まりそうです。この問題に対して、どのように参加してきたのか、どのように判断してきたのか、そうした参加や判断の質を高める役割を、今、学校は担っているといえます。

水曜日, 6月 13, 2012

教育相談 説明


教育相談 説明

確認問題

1 学校教育の現場で教育相談活動の重要性が認識されてきたのはなぜだろうか

1980年代以降、いじめや登校拒否などの問題が深刻化していく中で、教育相談へのニーズが急速に高まった。多くの学校では保健室が居場所や相談室の機能を果たしていたが、生徒指導の一環として相談活動の充実が求められるようになっていった。(110字)
第一に子どもの状況の変化が考えられる。人間関係を調整する能力を衰退させ、ストレス耐性の低下したという変貌が要因といえる。第二に成熟社会への以降に伴い、価値観やニーズの多様化が進んだことが挙げられる。個性化と個別化が望まれる時代環境にマッチしたことが要因といえる。また、80年代以降に顕著となった学校の生徒指導がもつ強制性に対する教師の信念のゆらぎにも要因の一つといえる。(183字)

2 カウンセリングの知や技法の特徴を整理してみよう

比較的多くの教師たちに学ばれたC.R.ロジャーズのクライエント中心療法の特徴は、人間は誰もが自ら成長し自己実現をしようとする性向を本質的にもっており、心理臨床の技法はこのことへの徹底した信頼に基礎を置くべきだとしている点にある。助言や指示の多かった従来のカウンセリングを改め、非指示的カウンセリングを提唱し、クライエントの「あるがまま」を受け入れ、共感に貫かれた態度で臨むことを極限まで強調した。(195字


治療契約 クライエントが自身の石で治療者であるカウンセラーと治療の契約を結ぶ。その上で対話的な面談が進められていく。
非日常的な場、許容 そこには日常から隔絶された場と時間が用意される。その中で日常生活では不道徳とされる欲望や行為、特定の人物への怒りといったことが自由に語られることが許容される。
覚醒、葛藤の意識化 そうした場と時間のなかで、クライエントは自身の心的葛藤の意識化を行っていく。無意識の中にしまいこまれた受け入れがたい心的苦痛や怒りなどを呼び覚まし、自覚的に内面的な生活史の再構成を行っていく。
傾聴、支援、対話 その際、カウンセラーは中立的・受動的な立場を持ってクライエントの語りに耳を傾け、彼(女)の気づきと改善を見守りつつ支援していくという態度を取る。支援に当たっては、クライエント自身が問題についての「直面」「明確化」「解釈」の遂行をうながすための、専門的知見に基づいた対話的な技法が用いられる。

3 生徒指導へのカウンセリングマインドの導入は、子どもたちに何をもたらしたのだろうか

カウンセリングを基礎づける臨床心理学は、教師たちに現象学的な人間理解の重要性を示す。つまり、先入観や理念的判断を一度脇に置き、対象の内的な意味世界を理解することを促した。カウンセリングマインドに基づく受容と共感のアプローチは、子どもの行動という表層に現れた問題に対し、規範で裁くような態度を戒め、そうならざるを得なかったその子の内的な意味世界を肯定する受容的態度や、同伴者となろうとする支援的態度を取る教師により、より複雑化した共同体の中で生きる子どもを支援すると期待される。(238字)

4 学校教育の現場に心理臨床のアプローチを根付かしていく際の困難はどのような点にあるのだろうか

たとえば、評価権を保持する教師を前に、子どもたちはカウンセラーに対するクライエントのような構えがとれるのか、守秘義務について子どもや保護者がどこまで教師を信頼できるのかという問題がある。そもそも非日常的な治療の場で行われる相談のための知見と技法が、学校教育という児童・生徒にとっての日常の場に持ち込まれる点に困難がある。1995年から派遣されるようになったスクールカウンセラーについても、個人の治療を目的とするカウンセリングのアプローチと、集団的な指導を目的とする教育のアプローチという次元の違いを踏まえた相補的関係の有り方や、協働関係に関する困難もある。(278字)

学校選択制度に関するディベート


学校選択制度について

概要
80年代の米英のサッチャー政権、レーガン政権の元で進められた教育水準の向上を目的とする公立学校改革が始まり、財政悪化への対応と行政・公共サービスの効率化・質改善を目的として市場的競争原理が導入された。

定義
 狭義では、義務教育段階で使用される。義務教育段階では、自治体内に複数の学校がある場合、教育委員会が就学予定者の保護者に対し、就学すべき学校を指定する仕組みが設けられている。その際に、就学予定者の保護者から、あらかじめ子どもを就学させる希望校を聴取し、その申し立てを尊重して就学指定する仕組みが導入されるようになり、それを学校選択制と呼称している。就学希望を表明する方式には、自由選択制、ブロック選択制、隣接校選択制などがある。(『教育学用語辞典』学文社2006年)

ディベートテーマ:小中学校で学校選択制度を導入すべきである。

肯定
【現在のシステムの問題】日本の公立学校教育(制度)は、「中央集権的な教育行政」や平等主義・官僚主義・専門職手技によって管理・運営されてきたために画一性・硬直性・閉鎖性といった弊害を抱えており、多様化する子ども・保護者のニーズ・要望に適切に対応することができず、しかも、個々の学校の「創造的な教育実践」や「改革の努力」を妨げている。
【問題を解決するシステム】そうした公立学校の画一性・硬直性・閉鎖性を打破し、各学校の想像的実践や改革努力を誘発・促進する、その触媒・メカニズムとして学校選択性が必要である。
【モデルの類型】学校選択制には、保護者を公教育の消費者とみなし、学校間の競争と市場メカニズムによって公立学校の改善・活性化が図られるとする市場的競争モデルと、教職員・教育行政当局・保護者・子ども・地域住民といった「様々な関係者の力と働きを再統合する場として学校を再構築」しようとする抑制・均衡モデルがあり、後者が必要である。
【先行事例】ニューヨーク市で推進されたスモール・スクール(小さな規模、自発的に参加する教職員のチームワーク、実質的な学校自治、発案者がリーダーとなり教職員を募ってチームをつくり、保護者は普通の公立学校に行くかスモール・スクールに行くかを選択できる)の創造的な実験による公立学校の革新が必要である。

否定
【序列化】学校の序列化を招き、それは学校の人気(志望倍率)やその人気を左右する特定要素(例えばテスト成績・進学実績や逸脱的問題のない落ち着いた学校かどうか)といった一元的尺度や学校の立地環境といった、学校がコントロールできない要因に基づきがちとなる。それは、学校教育の包括性・総合性が低下し歪むというモラル・ハザードを起こし、学校の格差化と閉鎖性・社会的排除性を強める。
【想定モデル】市場的競争モデルと抑制・均衡モデルは理論的には区分可能であっても、改革・施策を主導する各種審議会や政治勢力のプランは市場的競争モデルを想定しており、抑制・均衡モデルの実現可能性は乏しい。
【学習指導要領】「公共の形成」を課題とする義務教育は学習指導要領に基づき共通基礎教育を提供しているため、選択に値するほどの違いはありえない。また、公立学校制度は学校間に違いがないことを建前とするため、多様な選択肢といっても、それは多様性ではなく格差となる。
【利点の根拠のなさ】教育の自由化論者は、学校選択を自由にすれば学校教育が改善され、教育荒廃がなくなり、受験競争が緩和され、個性や創造性が育成され、財政支出が削減され、家計負担が軽減され、教育の機会均等化に役立つというが、それらの利点には実現に制約があり、むしろ家計負担の増大と低所得層の教育機会の劣化、選択機会の縮小・格差を招く。
【市場モデルが機能しない理由】選択制になれば公立学校も生徒集めに努力するから、どの学校も良くなるというが、その主張は、保護者・子どもは「よりよい教育(サービス)」(学校・教育の実質的価値)を求めて学校選びをすることを前提としている。しかし、その実質的価値は選択時点・入学時点では未完の価値(未完成品)でしかなく、しかも、入学した子ども(や保護者)の資質・能力や学業・学校への関わり方などに左右される。この2点で、学校という商品の市場は一般の商品市場と大きく異なる。
【多様な選択肢の実態】義務教育段階の教育は、上級段階の学校への進学準備という構造的特徴を持っているから、教育内容面での多様化・差異化には限界がある。したがって、多様な選択肢を提供するといっても、それは格差化・序列化となる。
【学校選択制度以外の方法】学校選択制を導入しなくても、学校ボランティア制度、学校評議員制度、学校運営協議会制度など、「開かれた学校づくり」政策として促進・奨励されており、積極的な改善努力を推進する学校・地域も増えている。
(上記の肯定/否定の意見は、藤田英典「第Ⅲ部 学校選択制・民営化と教育機会 解説」藤田英典・大桃俊行編著『リーディングス 日本の教育と社会11 学校改革』pp.199-207、2010年.から引用しています。)

参考データ:嶺井正也・中川登志男著『学校選択と教育バウチャー 教育格差と公立小・中学校の行方』八月書館、2007年
東京都、埼玉県、広島県での実施数の多さが目立つ。10~50万人程度の市での導入可能性が高い(p.9)。/京都内の学校選択制度を導入した自治体の2つの中学校を2002年~2005年で比較すると、人気校には所得階層の高い家庭の子どもの学区外からの流入が多く、不人気校に残るのは所得階層の高くない家庭の子どもが多い。(p.104)

水曜日, 6月 06, 2012

教職の専門職化 説明


教職の専門職化 説明

175ページのしかし、逆接の接続詞の後には強調したいことが言われるのですが、
そこで開放制を原則とする教員養成及び教師教育の在り方は、いま大きく問い直されている、と書かれています。日本で教員になるためには、一定の単位をとって、教育実習に行って、都道府県の採用試験を受ける、という流れを取ることが多いです。この単位を認定する際に、できるだけ幅広い人材を集めようという趣旨で作られた制度が開放制で、法学部などでも教職に必要な単位が取れるのもこうした制度があるためです。戦前は、師範学校と呼ばれる学校でしか教員免許が取れませんでした。そうして養成された教師が批判的視点を欠いていた事が、戦中の教育に影響したという考えも、開放制の採択に影響しているといわれます。アメリカも開放制をとっていますが、国によって異なります。それは、教師の専門性をどのように定義して、どのように担保しようとするのかという考え方を反映します。大学院修了をその要件とする、という考えもその一つです。教員の免許更新制がたびたび新聞で取り上げられますが、これは日本において教職の専門性をどのように担保するのかについて考え直そうという動きを反映しています。ただし、教科書でも触れられていますが、その内容については十分に議論されているとはいえません。その背景に、日本の教職は専門職とは言いがたい状態にあることが影響していると書かれています。では、看護師は専門職とみなされているのでしょうか。また、それはどのように定義され、どのような教育をもって担保されているのでしょうか。
<新人看護師研修ガイドライン>

専門職とは何か、というところで触れられる要件は重要です。①職務遂行に高度な知識及び技術が要求されること。②そのために長期間の専門的教育が必要とされること。③私益よりも公益を優先して職務に当たること。④そのために職能集団を結成し専門職としての倫理要綱を持つこと。⑤職能水準の向上のための自主的な研修の機会を恒常的に持つこと。⑥これらが社会的に承認され、職務遂行上の大きな裁量を元とする自律性が保障されること。

教師の専門性の高度化という流れは20世紀後半以降の新しい課題であると書かれています。ユネスコとILOにより共同採択された「教員の地位に関する勧告」(1966)が世界的な動きを作り出した、と書かれています。そこで教材や教育方法の選択の権限を教師に認めるべき、という教師の教育権が主張されました。そして、30年後の1996年に、新たな勧告がまとめられています。そこでは、市民との協働と教師の政治的コミットメントについての勧告がされています。すなわち、が出てきていますが、教育をめぐる多様なニーズやビジョンの調整着になるべき、と述べられています。

新自由主義の行財政改革とありますが、ここを簡単に紹介するのは、少し私の力量では難しいのですが、教育改革について言えば、日本では1984年から1987年まで中曽根総理の諮問機関として設置された臨時教育審議会が推進したといわれます。それは、教育の自由化、教育の個性化という原理を提唱し、学校設置主体の多様化、学校選択の自由を提案していました。多様な欲求を満たしやすい市場を学校教育に導入することにより、子どもの個性や親の希望に応じた教育を実現すべきだ、というのがその主張です。しかし、小渕総理の私的諮問機関として設置された教育改革国民会議意向では、グローバル競争で勝つことのできる人材養成という目的が前面に掲げられ、国家の設定したスタンダードに基づく評価(学力テストの実施)、学校をめぐる競争的環境の形成(学テ結果の公表と学校選択)、学校という組織の階層化(副校長、主観教諭、指導教諭などの新職の法制化)、そして国際学力比較の詳細な紹介に基づく国際競争勝利への刺激の氾濫へと急速にその姿を変えていった(世取山洋介「序論 新自由主義教育改革研究の到達点と課題」佐貫浩・世取山洋介編『新自由主義教育改革 その理論・実態と対抗軸』大月書店、pp.7-21pp.9-10)。
新自由主義、という考え方はフリードマンという人が1950年代に経済学説として唱えていました。世界的に見れば、新自由主義とは、それまでの福祉国家の解体と再編成が目標でした。福祉国家とは、資本主義を維持しながら、国家による所得の再配分を通じて、国民の最低限のニーズ、あるいは共通のニーズを、すべての国民に保障することをその役割として引き受ける国家です((世取山洋介「第2章 新自由主義教育政策を基礎付ける理論の展開とその全体像」佐貫浩・世取山洋介編『新自由主義教育改革 その理論・実態と対抗軸』大月書店、pp.36-53,p.37))。たとえば、アメリカでは60年代は貧しい人や苦しい環境にある人にこそ手厚くすべきだという考えで行政的支援が行われていました。しかし、予算が膨らみ、かけた予算に対して成果があまりでてないじゃないかという批判がでます。80年代は日本の経済力が世界で目立った時期ですが、その影でアメリカは苦しんでいました。そうすると、それまで正しいとされていた国家のやり方を変えないといけない、教育を変えないといけない、という考え方がでてきます。国際競争に勝てないのは、教育が悪いせいだ、という論法です。そして、もっと、自由に、マーケットに任せた方がいい、競争させた方がいい、という考え方がでてきます。これが新自由主義の特徴です。では、何が問題になっているのかというと、果たしてその考え方で公共性が担保できるのか、ということです。もっと言えば、耳障りのよいことを言うけれども、実は強い人たちが得をするようなルールになってるんじゃないの、ということです。

教科書に戻りますと、そうした新自由主義の行財政改革が進む中で、教師が専門職とは言いがたい扱われ方とされているということでした。そこで、民主的専門職性という考え方が役に立つのではないか、と書かれています。それは、国家と官僚主義に統制されたものでなく、市民社会に足場を置いたものであり、公教育をめぐる利害の調整を図り、当事者間の合意調達と共同的関係の構築を推し進め、公正の実現の第一の担い手になることだ、と書かれています。こうした考えで教師教育のスタイルが考えられ、相互に教育実践を批評しあう事例研究や、教材や教育方法を開発していくための自由な発想が交換されるワークショップ型の学びがふさわしいとされ、学校という場を「探求のコミュニティ」としていこうという試みが始まっていると書かれています。
ここで、「省察」概念に基づき、各教科の単元開発を中心にする「実践―批評―開発モデル」が採用され、相互に授業を公開しあい、実践の経験を語り合う同僚関係が築かれていく、そのためには同僚関係を築くことが重要である、と書かれています。

金曜日, 6月 01, 2012

教師の力量とアイデンティティの形成 説明


教師の力量とアイデンティティの形成 説明

ここでは、教師像を4つの類型に分けて説明がされています。
まず、脱専門職化・官僚化と位置づけられる公僕としての教師についての説明があります。これは、看護師でいうとどのようになるでしょうか。国家の要請、模範的、献身、というキーワードで作られる教師=聖職者像という教師像は、看護師像にも当てはまりそうです。
教師像がどのように変化しているのかは、漫画を見ると面白いです。「マンガが語る教師像」(山田浩之、昭和堂、2004年)という本がありますが、なぜGTOのような不良が教師になる物語が受けるのかを考えて見ましょう。これは、1980年代以降多く発表されているといいます。その原型は山下真司主演の「スクールウォーズ」(1984年TBS)や、武田鉄也主演の「三年B組金八先生」(1979年TBS)などの熱血教師にあるといわれています。しかし、テレビと違って、マンガでは純粋な熱血教師はあまり見当たらない、ということです。60年代は「巨人の星」や「あしたのジョー」など、熱血マンガの時代でした。「わんぱく先生」は、そのころのマンガで、大学院で歴史を学んだ秀才が、千葉の田舎で手の付けられないクラスを更正させる、という物語です。に見られる熱血教師の条件は、①教育への情熱、②教師らしさのなさ、③理想的人間像、ということですが、70年代には姿を消し、手塚治虫の「どろんこ先生」(1976年)のように、少し頼りない先生を主人公としたマンガが出てきます。しかし、昔は不良やオチこぼれだったので、そうした子ども達の気持ちが良く分かる、というものです。つまり、テレビドラマでは80年代にブームとなった熱血教師の物語りは、マンガの世界ではすでに終わっていたといえます。60年代から70年代は高校進学率が上昇し、管理教育による受験指導が行われていた時期です。学校は息苦しい場所であり、自分たちを理解してくれる教師を求めていたのでこうしたマンガが流行ったと考えられます。これを、マンガが反学校文化を象徴していた、と言うこともできるでしょう。不良教師の魅力は、教師や学校の文化と対極にあることや、高い問題解決能力、生徒との距離、これはあまり教師に干渉されたくない、という意味での距離ですが、そうしたところにあるかもしれない、と書かれています。ただし、少女マンガでは教師と生徒の恋愛に焦点が当てられていて、また異なる話となります。もし、みなさんが関心をもたれるようであれば、また詳しく時間をとってお話ししてみたいと思います。
話しを戻しましょう。聖職者像に対抗して、働く側の権利を主張する労働者としての教師像が挙げられています。
ここには、感情労働という労働も含まれます。これは、もともとスチュワーデス、CAさんを対象とした研究なのです。皆さんは飛行機に乗ることは怖いですか。スチュワーデスという仕事は、そうした空の旅に伴う不安、そして実際に乱気流などのトラブルに対処したときに、乗客の不安を和らげるために、自分の感情を制御、もしくは演技をすることがスキルの一つとして求められます。不愉快な乗客に対しても、不快な感情を押さえ、笑顔でフレンドリーな対応を維持することも求められます。「みなさま、ご安心ください」というあの笑顔ですね。ハッピーフライトという映画の綾瀬はるかさんのように、CAさんがあたふたされては乗客は不安になってしまうのです。このように、自分の感情が他律化される。相手にある感情を喚起させるために、マニュアル化された感情規則に合わせて自分の感情を表したり、押さえたりということを行っています。これは、感情の商品化、といわれ、働く人にとって否定的な作用があるのではないか、と批判されることもあります。教師の仕事も同じです。子どもの指導において、時に怒りの感情を抑えて微笑みで受け止めないといけないこともあれば、わざと怒った表情を見せる必要もあります。看護における感情労働についても研究があります(武井麻子2001『感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味』医学書院)。看護の感情規則は、患者を安心させるために「患者の気持ちに共感せよ」「患者には優しく親切に」といった明示的な感情規則と、患者に対して怒りや取り乱しといった感情を抑制するよう求める非明示的なものにより構成されるといいます。
このユニットで特に考えて頂きたいことが、技術的熟練者としての教師と、反省的実践化としての教師についてです。
技術的熟練者としての教師モデルを基礎付けているのは、複雑な過程をできる限り一般化し、それを法則的に認識下上で目標に向けて合法則的にそれを統御していくことのできる技術を開発し、駆使していこうとするテクノロジーの概念である、とかかれています。例えば、向山洋一さんという人が始められた教育技術法則化運動というものがあります。跳び箱はみなさん得意でしたか?向山さんは、跳び箱はまず跳び箱まで走る練習、これは助走を十分につけるためです、そして踏み切りの練習、そして、跳び箱の前に手をつく練習、と分けることで、子ども達が跳び箱を飛べるようになる、と示しました。この前、テレビでは駆けっこが速くなるための練習、というのもやっていましたね。まず、太ももをあげる練習、これは足を鞭のようにしならせる目的だそうです、大またで早歩きをする練習、これは地面をしっかりと捉える目的だそうです、ということをすると実際に子どものタイムが縮まっていました。
しかし、みなさんがスキットで示してくれたように、実際は個々の患者に応じた対応が求められますし、どうすればよいかわからないような状況もあります。これから一生、白いご飯を食べられないかもしれない、とか、不注意から感染症を引き起こしてしまった患者さんやその家族に対してどのように接すればよいか、という状況があります。書かれているように、技術的実践においてカバーしうるのは、教育実践の全体ではなく、ごく限られた部分でしかない、というのは看護師さんの世界にも当てはまることように思います。
そこで、反省的実践家としての教師像が考えられました。実践の中の理論、に着目しています。以前、日本では工場などで働く人から、サービス業で働く人が増えている、というお話しをしました。そこで最も異なるのは、工場では決められたラインがあり、商品が保存できるのに対し、サービス業は状況対応的であり、商品が保存できない、その場で精算と消費が行われる、という話しをしました。つまり、人と人のかかわり自体が仕事の対象となるのがサービス業といえます。このように考えたとき、教師の仕事も瞬間瞬間でどのように対応するかが重要であり、その行為を裏付ける暗黙知、わざやコツといったものをどのように学習の対象としていくかに関心が寄せられました。
例えば、皆さんは看護実習レポートを書く際に、プロセスレコードというものを用いると思います。プロセスレコードの創始者は、1950年代の看護理論家であるヒルデガード・E・ぺプロウです。プロセスレコードは、看護場面における相互作用の家庭の記録や評価、臨床経験のリフレクションの方法として用いられます。みなさんが問題と感じた場面を思い出して、患者さんとの言語的、非言語的コミュニケーションを時系列に記述するもので、①患者の言動、②看護者の思ったこと、感じたこと、③看護者の言動、④分析・考察について書きます。相互作用とは、相手と関わるみなさんの存在自体に着目する視点です。スキットで「大丈夫ですか」と患者さんに問いかける時に、多くの人がしゃがんで問いかけをしました。言葉だけを捉えれば、立って、患者さんの目線より上から「大丈夫ですか」と問いかけても、同じです。しかし、そこにみなさんの身体が関係することで、「大丈夫ですか」の言葉が患者さんにもたらす効果は異なります。つまり、その患者さんと皆さんとの関係の中に、皆さんは身体ごと織り込まれているといえます。このように、看護する、という行為と看護をする「私」とは切り離して取り出すことはできないのです。そして、ここが重要ですが、その関係性に織り込まれた「私」は、相互作用を構成する全ての要素を明るみに出すことはできない、ということです。
<スキットの映像>
ここでスキットを演じてもらっているみなさんの視点と、今、観客としてみている視点は異なると思います。おそらく、演じているときの焦点は患者さんに向けられていると思います。しかし、観客として、後でみる視点は患者さんと看護学生の関係性や、他の人の立ち位置など、より全体的なものを捉えているといえるでしょう。一方で、ここでスキットを演じていない人にとっては、全体的なものは捉えられますが、患者さんと看護学生さんが、それぞれのやりとりの中で、何を感じ、どのような所作がどのような影響を与えたのかまでを捉えることは難しいと言えます。スキットの中で演じられていた「間(ま)」、もしくは行間といったものを読み解く必要があります。
プロセスレコードを書くことで、患者の言動と看護師の受け止め方のズレや、看護師の内面に沸き起こった感情と実際に表出された言動とのズレを明らかにし、その原因や何が問題であったかを考えることができます。その状況に巻き込まれているときは見えにくかった患者の言動の意味を再認識することが可能となります。また、そうしたプロセスレコードを書けないということは、それが自分の関心の外にあったため記憶に残っていないということを意味します。したがって、自分が何を見失いがちであるかを知ることもできます(臨床教育人間学会編2007『臨床教育人間学2 リフレクション』東信堂)。このとき、同僚や指導教員を交えて討議することで、自分のものの見方や考え方を広げ、深めることができると考えられます。
テキストに出てくるショーンとアージリスという人は、セオリー・イン・プラクティスという本の中で(43ページ)、ある状況を取り上げ、自分がその時に思ったこと、実際に発言したこと、相手の言動の解釈を書くというケーススタディを取り上げていますが、プロセスレコードもこうした考えの延長にあるといえるでしょう。その目的は、なぜそうした現象が生じたのか、なぜ自分はそのように考えたのか、自分がそのときに考えた相手の意図とは別の意図が合ったのではないか、など、自分の認識の枠組み、ものごとの見方や考え方自体を振り返ることにあります。これが、反省的実践家として物事の全体を見失うことなく捉えるために必要なことと考えられています。

p.74 確認問題

※教職を目指される人であれば、以下の不確かな回答を丸写しにするのでなく、ご自身の教育観や体験、様々なテキストや論文を引用していただけることと期待しています。教材研究とは、教科書会社からもらう赤本を丸暗記することでなく、自分の足と目で様々な情報や資料に触れて、状況に応じて引き出せるようにしておくことだと思いますので。(2015.2.2追記)

1 「技術的熟練者」というモデルはどのような特徴を持ち、そこにはどのような限界があったのだろうか。

技術的熟練者のモデルを基礎付けているのは、複雑な過程をできる限り一般化し、それを法則的に認識した上で目標に向けて合法則的にそれを統制していくことのできる技術を開発し、駆使していこうとするテクノロジーの観念である。しかし、技術的実践が前提とする一義的な命題の形で把握する認識の様式では、教師の場合では、教師の教育実践の現実が示す複雑性や、避けがたい不確実性を捉えることはできないという限界が指摘される。(198字)

2 「反省的実践家」モデルが提起する「省察」においては、教育と仕事の固有性を踏まえたどのような志向が重視されるのだろうか。

省察とは、状況との反省的対話の中で、問題の発見や解決に見通しを与える枠組みである。それは、自身の行為に即して瞬時に形づくられていった理解の意味を問い直し、出来事の構造や問題をより深く捕らえる認識の枠組みの発見と組み替えを行う。この思考様式は、事実を要素に分割して全体を見失うことを防ぎ、当面する固有の行為状況を文脈的かつ包括的に把握していくことを可能にする。多くの教師は子どもという生きた他者との間につくりだされる即興的な対応を必要とする様々な教育的瞬間の連続の中を生きている。このことは、教育実践の遂行を基底から支える重要なものが、活動と同時遂行的になされる実践的志向であることを示唆している。(298字)
(別解)
反省的実践家モデルでは、行為の中の知に着目する。それは、実践の渦中でリアルタイムに遂行される「行為の中の省察」と、事後に出来事を振り返る「行為についての省察」の循環的で螺旋的な展開の中で獲得される。このような状況との反省的対話の中で重視されるものが、問題の発見や解決に見通しを与える省察の枠組みである。具体的に言えば、自身の行為に即して瞬時に形づくられていった理解の意味を問い直し、出来事の構造や問題をより深く捕らえる認識の枠組みの発見と組み替えを行う。この思考様式は、事実を要素に分割して全体を見失うことを防ぎ、当面する固有の行為状況を文脈的かつ包括的に把握していくことを可能にする。ここで、教師の日々の仕事を考えてみると、多くの教師は子どもという生きた他者との間につくりだされる即興的な対応を必要とする様々な教育的瞬間の連続の中を生きている。そこでは、経験によって形作られた暗黙知に基づく即座の判断と行為が行われる。このことは、教育実践の遂行を基底から支える重要なものが、活動と同時遂行的になされる実践的志向(具体的で文脈的な思考)であることを示唆している。反省的実践化というモデルは教師の仕事のこうした特徴にマッチしている。(515字)

3 力量を高め、専門職従事者として成長し続けていくために、教師はどのような学びを積み重ねていったらよいだろうか
教育実践に対する省察の力量は、教師としての初任期から始まる省察的実践の積み重ねの中で形成されていく。教師は、教職を選んだ動機ややりがいとして想定していたこととは異なる現状を前にして、教師としての信念がゆらぐ「危機」に陥る経験をする。それを乗り越えながら、力量の向上とアイデンティティの再構築を図る。それは、子ども観や授業観や実践スタイルの転換が行われるターニングポイントともいえる。このとき、ライフコース研究やライフヒストリー研究が教師であり続けることを励まし、力量の向上とアイデンティティの強化に見通しを与えるように、先達の経験を資源として同僚たちとの関係の中で不断に省察するという学びを積み重ねる必要があろう。(307字)