教師の力量とアイデンティティの形成 説明
ここでは、教師像を4つの類型に分けて説明がされています。
まず、脱専門職化・官僚化と位置づけられる公僕としての教師についての説明があります。これは、看護師でいうとどのようになるでしょうか。国家の要請、模範的、献身、というキーワードで作られる教師=聖職者像という教師像は、看護師像にも当てはまりそうです。
教師像がどのように変化しているのかは、漫画を見ると面白いです。「マンガが語る教師像」(山田浩之、昭和堂、2004年)という本がありますが、なぜGTOのような不良が教師になる物語が受けるのかを考えて見ましょう。これは、1980年代以降多く発表されているといいます。その原型は山下真司主演の「スクールウォーズ」(1984年TBS)や、武田鉄也主演の「三年B組金八先生」(1979年TBS)などの熱血教師にあるといわれています。しかし、テレビと違って、マンガでは純粋な熱血教師はあまり見当たらない、ということです。60年代は「巨人の星」や「あしたのジョー」など、熱血マンガの時代でした。「わんぱく先生」は、そのころのマンガで、大学院で歴史を学んだ秀才が、千葉の田舎で手の付けられないクラスを更正させる、という物語です。に見られる熱血教師の条件は、①教育への情熱、②教師らしさのなさ、③理想的人間像、ということですが、70年代には姿を消し、手塚治虫の「どろんこ先生」(1976年)のように、少し頼りない先生を主人公としたマンガが出てきます。しかし、昔は不良やオチこぼれだったので、そうした子ども達の気持ちが良く分かる、というものです。つまり、テレビドラマでは80年代にブームとなった熱血教師の物語りは、マンガの世界ではすでに終わっていたといえます。60年代から70年代は高校進学率が上昇し、管理教育による受験指導が行われていた時期です。学校は息苦しい場所であり、自分たちを理解してくれる教師を求めていたのでこうしたマンガが流行ったと考えられます。これを、マンガが反学校文化を象徴していた、と言うこともできるでしょう。不良教師の魅力は、教師や学校の文化と対極にあることや、高い問題解決能力、生徒との距離、これはあまり教師に干渉されたくない、という意味での距離ですが、そうしたところにあるかもしれない、と書かれています。ただし、少女マンガでは教師と生徒の恋愛に焦点が当てられていて、また異なる話となります。もし、みなさんが関心をもたれるようであれば、また詳しく時間をとってお話ししてみたいと思います。
話しを戻しましょう。聖職者像に対抗して、働く側の権利を主張する労働者としての教師像が挙げられています。
ここには、感情労働という労働も含まれます。これは、もともとスチュワーデス、CAさんを対象とした研究なのです。皆さんは飛行機に乗ることは怖いですか。スチュワーデスという仕事は、そうした空の旅に伴う不安、そして実際に乱気流などのトラブルに対処したときに、乗客の不安を和らげるために、自分の感情を制御、もしくは演技をすることがスキルの一つとして求められます。不愉快な乗客に対しても、不快な感情を押さえ、笑顔でフレンドリーな対応を維持することも求められます。「みなさま、ご安心ください」というあの笑顔ですね。ハッピーフライトという映画の綾瀬はるかさんのように、CAさんがあたふたされては乗客は不安になってしまうのです。このように、自分の感情が他律化される。相手にある感情を喚起させるために、マニュアル化された感情規則に合わせて自分の感情を表したり、押さえたりということを行っています。これは、感情の商品化、といわれ、働く人にとって否定的な作用があるのではないか、と批判されることもあります。教師の仕事も同じです。子どもの指導において、時に怒りの感情を抑えて微笑みで受け止めないといけないこともあれば、わざと怒った表情を見せる必要もあります。看護における感情労働についても研究があります(武井麻子2001『感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味』医学書院)。看護の感情規則は、患者を安心させるために「患者の気持ちに共感せよ」「患者には優しく親切に」といった明示的な感情規則と、患者に対して怒りや取り乱しといった感情を抑制するよう求める非明示的なものにより構成されるといいます。
このユニットで特に考えて頂きたいことが、技術的熟練者としての教師と、反省的実践化としての教師についてです。
技術的熟練者としての教師モデルを基礎付けているのは、複雑な過程をできる限り一般化し、それを法則的に認識下上で目標に向けて合法則的にそれを統御していくことのできる技術を開発し、駆使していこうとするテクノロジーの概念である、とかかれています。例えば、向山洋一さんという人が始められた教育技術法則化運動というものがあります。跳び箱はみなさん得意でしたか?向山さんは、跳び箱はまず跳び箱まで走る練習、これは助走を十分につけるためです、そして踏み切りの練習、そして、跳び箱の前に手をつく練習、と分けることで、子ども達が跳び箱を飛べるようになる、と示しました。この前、テレビでは駆けっこが速くなるための練習、というのもやっていましたね。まず、太ももをあげる練習、これは足を鞭のようにしならせる目的だそうです、大またで早歩きをする練習、これは地面をしっかりと捉える目的だそうです、ということをすると実際に子どものタイムが縮まっていました。
しかし、みなさんがスキットで示してくれたように、実際は個々の患者に応じた対応が求められますし、どうすればよいかわからないような状況もあります。これから一生、白いご飯を食べられないかもしれない、とか、不注意から感染症を引き起こしてしまった患者さんやその家族に対してどのように接すればよいか、という状況があります。書かれているように、技術的実践においてカバーしうるのは、教育実践の全体ではなく、ごく限られた部分でしかない、というのは看護師さんの世界にも当てはまることように思います。
そこで、反省的実践家としての教師像が考えられました。実践の中の理論、に着目しています。以前、日本では工場などで働く人から、サービス業で働く人が増えている、というお話しをしました。そこで最も異なるのは、工場では決められたラインがあり、商品が保存できるのに対し、サービス業は状況対応的であり、商品が保存できない、その場で精算と消費が行われる、という話しをしました。つまり、人と人のかかわり自体が仕事の対象となるのがサービス業といえます。このように考えたとき、教師の仕事も瞬間瞬間でどのように対応するかが重要であり、その行為を裏付ける暗黙知、わざやコツといったものをどのように学習の対象としていくかに関心が寄せられました。
例えば、皆さんは看護実習レポートを書く際に、プロセスレコードというものを用いると思います。プロセスレコードの創始者は、1950年代の看護理論家であるヒルデガード・E・ぺプロウです。プロセスレコードは、看護場面における相互作用の家庭の記録や評価、臨床経験のリフレクションの方法として用いられます。みなさんが問題と感じた場面を思い出して、患者さんとの言語的、非言語的コミュニケーションを時系列に記述するもので、①患者の言動、②看護者の思ったこと、感じたこと、③看護者の言動、④分析・考察について書きます。相互作用とは、相手と関わるみなさんの存在自体に着目する視点です。スキットで「大丈夫ですか」と患者さんに問いかける時に、多くの人がしゃがんで問いかけをしました。言葉だけを捉えれば、立って、患者さんの目線より上から「大丈夫ですか」と問いかけても、同じです。しかし、そこにみなさんの身体が関係することで、「大丈夫ですか」の言葉が患者さんにもたらす効果は異なります。つまり、その患者さんと皆さんとの関係の中に、皆さんは身体ごと織り込まれているといえます。このように、看護する、という行為と看護をする「私」とは切り離して取り出すことはできないのです。そして、ここが重要ですが、その関係性に織り込まれた「私」は、相互作用を構成する全ての要素を明るみに出すことはできない、ということです。
<スキットの映像>
ここでスキットを演じてもらっているみなさんの視点と、今、観客としてみている視点は異なると思います。おそらく、演じているときの焦点は患者さんに向けられていると思います。しかし、観客として、後でみる視点は患者さんと看護学生の関係性や、他の人の立ち位置など、より全体的なものを捉えているといえるでしょう。一方で、ここでスキットを演じていない人にとっては、全体的なものは捉えられますが、患者さんと看護学生さんが、それぞれのやりとりの中で、何を感じ、どのような所作がどのような影響を与えたのかまでを捉えることは難しいと言えます。スキットの中で演じられていた「間(ま)」、もしくは行間といったものを読み解く必要があります。
プロセスレコードを書くことで、患者の言動と看護師の受け止め方のズレや、看護師の内面に沸き起こった感情と実際に表出された言動とのズレを明らかにし、その原因や何が問題であったかを考えることができます。その状況に巻き込まれているときは見えにくかった患者の言動の意味を再認識することが可能となります。また、そうしたプロセスレコードを書けないということは、それが自分の関心の外にあったため記憶に残っていないということを意味します。したがって、自分が何を見失いがちであるかを知ることもできます(臨床教育人間学会編2007『臨床教育人間学2 リフレクション』東信堂)。このとき、同僚や指導教員を交えて討議することで、自分のものの見方や考え方を広げ、深めることができると考えられます。
テキストに出てくるショーンとアージリスという人は、セオリー・イン・プラクティスという本の中で(43ページ)、ある状況を取り上げ、自分がその時に思ったこと、実際に発言したこと、相手の言動の解釈を書くというケーススタディを取り上げていますが、プロセスレコードもこうした考えの延長にあるといえるでしょう。その目的は、なぜそうした現象が生じたのか、なぜ自分はそのように考えたのか、自分がそのときに考えた相手の意図とは別の意図が合ったのではないか、など、自分の認識の枠組み、ものごとの見方や考え方自体を振り返ることにあります。これが、反省的実践家として物事の全体を見失うことなく捉えるために必要なことと考えられています。
p.74 確認問題
※教職を目指される人であれば、以下の不確かな回答を丸写しにするのでなく、ご自身の教育観や体験、様々なテキストや論文を引用していただけることと期待しています。教材研究とは、教科書会社からもらう赤本を丸暗記することでなく、自分の足と目で様々な情報や資料に触れて、状況に応じて引き出せるようにしておくことだと思いますので。(2015.2.2追記)
※教職を目指される人であれば、以下の不確かな回答を丸写しにするのでなく、ご自身の教育観や体験、様々なテキストや論文を引用していただけることと期待しています。教材研究とは、教科書会社からもらう赤本を丸暗記することでなく、自分の足と目で様々な情報や資料に触れて、状況に応じて引き出せるようにしておくことだと思いますので。(2015.2.2追記)
1 「技術的熟練者」というモデルはどのような特徴を持ち、そこにはどのような限界があったのだろうか。
技術的熟練者のモデルを基礎付けているのは、複雑な過程をできる限り一般化し、それを法則的に認識した上で目標に向けて合法則的にそれを統制していくことのできる技術を開発し、駆使していこうとするテクノロジーの観念である。しかし、技術的実践が前提とする一義的な命題の形で把握する認識の様式では、教師の場合では、教師の教育実践の現実が示す複雑性や、避けがたい不確実性を捉えることはできないという限界が指摘される。(198字)
2 「反省的実践家」モデルが提起する「省察」においては、教育と仕事の固有性を踏まえたどのような志向が重視されるのだろうか。
省察とは、状況との反省的対話の中で、問題の発見や解決に見通しを与える枠組みである。それは、自身の行為に即して瞬時に形づくられていった理解の意味を問い直し、出来事の構造や問題をより深く捕らえる認識の枠組みの発見と組み替えを行う。この思考様式は、事実を要素に分割して全体を見失うことを防ぎ、当面する固有の行為状況を文脈的かつ包括的に把握していくことを可能にする。多くの教師は子どもという生きた他者との間につくりだされる即興的な対応を必要とする様々な教育的瞬間の連続の中を生きている。このことは、教育実践の遂行を基底から支える重要なものが、活動と同時遂行的になされる実践的志向であることを示唆している。(298字)
(別解)
反省的実践家モデルでは、行為の中の知に着目する。それは、実践の渦中でリアルタイムに遂行される「行為の中の省察」と、事後に出来事を振り返る「行為についての省察」の循環的で螺旋的な展開の中で獲得される。このような状況との反省的対話の中で重視されるものが、問題の発見や解決に見通しを与える省察の枠組みである。具体的に言えば、自身の行為に即して瞬時に形づくられていった理解の意味を問い直し、出来事の構造や問題をより深く捕らえる認識の枠組みの発見と組み替えを行う。この思考様式は、事実を要素に分割して全体を見失うことを防ぎ、当面する固有の行為状況を文脈的かつ包括的に把握していくことを可能にする。ここで、教師の日々の仕事を考えてみると、多くの教師は子どもという生きた他者との間につくりだされる即興的な対応を必要とする様々な教育的瞬間の連続の中を生きている。そこでは、経験によって形作られた暗黙知に基づく即座の判断と行為が行われる。このことは、教育実践の遂行を基底から支える重要なものが、活動と同時遂行的になされる実践的志向(具体的で文脈的な思考)であることを示唆している。反省的実践化というモデルは教師の仕事のこうした特徴にマッチしている。(515字)
3 力量を高め、専門職従事者として成長し続けていくために、教師はどのような学びを積み重ねていったらよいだろうか
教育実践に対する省察の力量は、教師としての初任期から始まる省察的実践の積み重ねの中で形成されていく。教師は、教職を選んだ動機ややりがいとして想定していたこととは異なる現状を前にして、教師としての信念がゆらぐ「危機」に陥る経験をする。それを乗り越えながら、力量の向上とアイデンティティの再構築を図る。それは、子ども観や授業観や実践スタイルの転換が行われるターニングポイントともいえる。このとき、ライフコース研究やライフヒストリー研究が教師であり続けることを励まし、力量の向上とアイデンティティの強化に見通しを与えるように、先達の経験を資源として同僚たちとの関係の中で不断に省察するという学びを積み重ねる必要があろう。(307字)
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