水曜日, 6月 06, 2012

教職の専門職化 説明


教職の専門職化 説明

175ページのしかし、逆接の接続詞の後には強調したいことが言われるのですが、
そこで開放制を原則とする教員養成及び教師教育の在り方は、いま大きく問い直されている、と書かれています。日本で教員になるためには、一定の単位をとって、教育実習に行って、都道府県の採用試験を受ける、という流れを取ることが多いです。この単位を認定する際に、できるだけ幅広い人材を集めようという趣旨で作られた制度が開放制で、法学部などでも教職に必要な単位が取れるのもこうした制度があるためです。戦前は、師範学校と呼ばれる学校でしか教員免許が取れませんでした。そうして養成された教師が批判的視点を欠いていた事が、戦中の教育に影響したという考えも、開放制の採択に影響しているといわれます。アメリカも開放制をとっていますが、国によって異なります。それは、教師の専門性をどのように定義して、どのように担保しようとするのかという考え方を反映します。大学院修了をその要件とする、という考えもその一つです。教員の免許更新制がたびたび新聞で取り上げられますが、これは日本において教職の専門性をどのように担保するのかについて考え直そうという動きを反映しています。ただし、教科書でも触れられていますが、その内容については十分に議論されているとはいえません。その背景に、日本の教職は専門職とは言いがたい状態にあることが影響していると書かれています。では、看護師は専門職とみなされているのでしょうか。また、それはどのように定義され、どのような教育をもって担保されているのでしょうか。
<新人看護師研修ガイドライン>

専門職とは何か、というところで触れられる要件は重要です。①職務遂行に高度な知識及び技術が要求されること。②そのために長期間の専門的教育が必要とされること。③私益よりも公益を優先して職務に当たること。④そのために職能集団を結成し専門職としての倫理要綱を持つこと。⑤職能水準の向上のための自主的な研修の機会を恒常的に持つこと。⑥これらが社会的に承認され、職務遂行上の大きな裁量を元とする自律性が保障されること。

教師の専門性の高度化という流れは20世紀後半以降の新しい課題であると書かれています。ユネスコとILOにより共同採択された「教員の地位に関する勧告」(1966)が世界的な動きを作り出した、と書かれています。そこで教材や教育方法の選択の権限を教師に認めるべき、という教師の教育権が主張されました。そして、30年後の1996年に、新たな勧告がまとめられています。そこでは、市民との協働と教師の政治的コミットメントについての勧告がされています。すなわち、が出てきていますが、教育をめぐる多様なニーズやビジョンの調整着になるべき、と述べられています。

新自由主義の行財政改革とありますが、ここを簡単に紹介するのは、少し私の力量では難しいのですが、教育改革について言えば、日本では1984年から1987年まで中曽根総理の諮問機関として設置された臨時教育審議会が推進したといわれます。それは、教育の自由化、教育の個性化という原理を提唱し、学校設置主体の多様化、学校選択の自由を提案していました。多様な欲求を満たしやすい市場を学校教育に導入することにより、子どもの個性や親の希望に応じた教育を実現すべきだ、というのがその主張です。しかし、小渕総理の私的諮問機関として設置された教育改革国民会議意向では、グローバル競争で勝つことのできる人材養成という目的が前面に掲げられ、国家の設定したスタンダードに基づく評価(学力テストの実施)、学校をめぐる競争的環境の形成(学テ結果の公表と学校選択)、学校という組織の階層化(副校長、主観教諭、指導教諭などの新職の法制化)、そして国際学力比較の詳細な紹介に基づく国際競争勝利への刺激の氾濫へと急速にその姿を変えていった(世取山洋介「序論 新自由主義教育改革研究の到達点と課題」佐貫浩・世取山洋介編『新自由主義教育改革 その理論・実態と対抗軸』大月書店、pp.7-21pp.9-10)。
新自由主義、という考え方はフリードマンという人が1950年代に経済学説として唱えていました。世界的に見れば、新自由主義とは、それまでの福祉国家の解体と再編成が目標でした。福祉国家とは、資本主義を維持しながら、国家による所得の再配分を通じて、国民の最低限のニーズ、あるいは共通のニーズを、すべての国民に保障することをその役割として引き受ける国家です((世取山洋介「第2章 新自由主義教育政策を基礎付ける理論の展開とその全体像」佐貫浩・世取山洋介編『新自由主義教育改革 その理論・実態と対抗軸』大月書店、pp.36-53,p.37))。たとえば、アメリカでは60年代は貧しい人や苦しい環境にある人にこそ手厚くすべきだという考えで行政的支援が行われていました。しかし、予算が膨らみ、かけた予算に対して成果があまりでてないじゃないかという批判がでます。80年代は日本の経済力が世界で目立った時期ですが、その影でアメリカは苦しんでいました。そうすると、それまで正しいとされていた国家のやり方を変えないといけない、教育を変えないといけない、という考え方がでてきます。国際競争に勝てないのは、教育が悪いせいだ、という論法です。そして、もっと、自由に、マーケットに任せた方がいい、競争させた方がいい、という考え方がでてきます。これが新自由主義の特徴です。では、何が問題になっているのかというと、果たしてその考え方で公共性が担保できるのか、ということです。もっと言えば、耳障りのよいことを言うけれども、実は強い人たちが得をするようなルールになってるんじゃないの、ということです。

教科書に戻りますと、そうした新自由主義の行財政改革が進む中で、教師が専門職とは言いがたい扱われ方とされているということでした。そこで、民主的専門職性という考え方が役に立つのではないか、と書かれています。それは、国家と官僚主義に統制されたものでなく、市民社会に足場を置いたものであり、公教育をめぐる利害の調整を図り、当事者間の合意調達と共同的関係の構築を推し進め、公正の実現の第一の担い手になることだ、と書かれています。こうした考えで教師教育のスタイルが考えられ、相互に教育実践を批評しあう事例研究や、教材や教育方法を開発していくための自由な発想が交換されるワークショップ型の学びがふさわしいとされ、学校という場を「探求のコミュニティ」としていこうという試みが始まっていると書かれています。
ここで、「省察」概念に基づき、各教科の単元開発を中心にする「実践―批評―開発モデル」が採用され、相互に授業を公開しあい、実践の経験を語り合う同僚関係が築かれていく、そのためには同僚関係を築くことが重要である、と書かれています。

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