水曜日, 7月 22, 2015

AVID (Advancement Via Individual Determination) Program


校内にクラスが設けられ、研修を受けた教員により、協働と探究、大学見学やゲストスピーカーによる講演によるやる気の向上、ノートの取り方などの勉強の仕方などを身に付けることに授業が行われる。特に、書くこと、探究すること、協働すること、読むことが重視される。教師は長期的な個人の学習計画も指導し、他の教員や校長、大学の入試担当者との折衝における代理人も務める。大学生を含む、研修を受けたチューターがクラスの探究活動のファシリテーションをする。
例えば、小学校では話したり書いたりするコミュニケーションスキルや組織運営のスキル、学習習慣や読み書きのスキルに焦点が当てられ、ミドルスクールや高校の準備がなされる。
The Student Success Pathと呼ばれる大学準備カリキュラムでは、読み、書き、学習スキル、テストの受け方、組織づくり、批判的思考、目標設定、大学選び、大学入試準備などに焦点があてられる。
The write pathと呼ばれるプログラムでは、数学や理科、英語、歴史や社会科学の分野における適切なリテラシースキルに焦点があてられる。
Avid Centerが教員研修を提供し、夏期講座(一人当たり670-845ドル)、学区の幹部教員向けイベント、全国大会、データ分析研修(一人500ドル)、校長や教科主任向けの2日間研修(500ドル、385ドル)などがある。

米国教育局がプログラムの査定をする2010年WWCレポートによれば、根拠となるデータが少ないので効果については検証できないとされる。

http://ies.ed.gov/ncee/wwc/interventionreport.aspx?sid=19

テキサスのオースティン独立学区では、1999年から2002年にかけての調査で、AVIDの生徒の方が学年末テストの結果がよいとされている。ただし、比較の土俵となる人種構成や家庭の経済状況が統制されているわけではない。

http://www.austinisd.org/sites/default/files/dre-reports/01.20_The_AVID_Program_in_AISD_1999-2002.pdf


しかし、AVIDを学内のコミュニティづくりや文化資本の形成の観点から価値づけ、社会経済的に恵まれない生徒にとって意義ある取り組みとみなす研究もある。

The Advancement Via Individual Determination (AVID) Program: Providing Cultural Capital and College Access to Low-Income Students

http://files.eric.ed.gov/fulltext/EJ1004339.pdf

また、今日の標準テストの蔓延する米国の教育において、教員のライフヒストリーという観点から、社会的正義を実現する仕事としてAVIDを捉える見方もある。

Teachers ’ Beliefs about Educational Justice in an Advancement via Individual Determination

http://www.hrpub.org/download/20140205/UJER13-19502040.pdf


AVIDを立ち上げたMary Catherine Swansonの初期の実践から伺えるのは、コーネル式ノートというわかりやすい取り組みをシンボルとして、クラスが協働して探究的学習に向かう仕掛け、そのために、英語がうまく話せなくても安心して発言できるクラスづくりを行った点である。
では、このようなクラスづくりだけで生徒のモチベーションは高まるのだろうか。彼女のクラスは、ほとんどが4年制大学に進学し、数学の成績も良かったという。ここで思い出されるのは、ドキュメンタリー映画にもなったハイメ・エスカランテの実践だ。彼も同じく、社会経済的には恵まれないヒスパニックの子どもたちの多くを大学に進学させ、数学の点数も上げた。その手法は、カルト的とも言えるクラスづくりだった。
これら実践を分析する上で、両者の間に共通する、カリフォルニアにおけるヒスパニック系移民の性質をどのように捉えるのかが重要になってくる。一つの観点として、80年代の移民と、今日の移民が、その上昇志向や第一世代の家庭的ハビトゥスにおいてどのような違いが見られるのかをおさえておく必要があろう。

The AVID Classroom : A System of Academic and Social Supports for Low-Achieving Students

http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED368832.pdf



日本ではその起源とプログラムの概要を踏まえ、OECDの定義を参照し、すべての人に保障される最小限の教育スタンダードを意味するインクルージョンよりは、社会経済的地位や民族のように取り除かれるべき教育的成功の障害という意味のフェアネスの概念に近いものと位置付ける研究がある。
http://www.owc.ac.jp/pdf/36kiyo.pdf

金曜日, 7月 03, 2015

多様性のある都市部の高校において国際バカロレアを実施する際の影響要因

Mayer, A. P., 2010, Factors Influencing the Implementation of an International Baccalaureate Diploma Program in a Diverse Urban High School, Journal of Advanced Academics, pp. 78-105.


【主たる実施及び組織的内容】
スタッフの選定、事前研修、コーチング、スタッフの評価、プログラムの評価、管理職の支援

スタッフの選定:選定基準を持つことが重要。学内から教員が選出され、コーディネーターは要求を出すが、最終決定は校長が出す。教員の能力が生徒の査定に関係している。

事前研修:研修は学校を離れて、教科に分かれて行われる。参加した教員は変化を感じている。

コンサルティング、又はコーチング:学内のプログラム・コーディネーターになる教員は、日々のプログラム運営や、スタッフの研修監督の責任を持つ。教員は、国際バカロレア組織によるオンラインのサポートも受ける

スタッフの評価:プログラム・コーディネーターは5年ごとに自己評価資料を作成しなければならない。コーディネーターは証拠を示しつつ、プログラムが実施されていることを示す必要がある。国際バカロレア組織のスタッフがこの資料をレビューする。年度末の生徒の成績は教員の能力を測るために使われる。1年に一度、教員は授業計画と生徒の課題を評価したものを国際バカロレア組織に送る。外部のレビューする人は、個々の教員にフィードバックを書いて送る。もし、教員の仕事が国際バカロレアの基準に満たない場合は、国際バカロレア組織の専門家がより詳細なレビューを行う。

スタッフとプログラムの評価:高2、高3は学校外で教科の総括的試験を受ける。これらの試験と、要求される追加プログラムを通過すると国際バカロレア卒業資格を得られる。コーディネータは、何割の生徒が試験を通過し、卒業資格を得たかでスタッフのパフォーマンスの評価とする。

促進的な管理職の支援:予算や政策、手続きなどを効果的に取扱う。裁量権のある予算をプログラム費の支払や、教育・カウンセリングのスタッフの配置、適切なプログラムの要求に合うようなスケジュールの調整を行う。

介入システム:他の政策や政治的支援、経済状況などを含む外的要因。プログラムの国内における権威は極めて肯定的な影響を及ぼす。学区と学校の連携が取れていないと、プログラムの実施が困難になる。


ジェファーソン高校のあるカリフォルニア州Portville市は、白人が53%、ラティーノ37%、アジア系23%、アフリカンアメリカンが11%という工業地帯のダウンタウンにある。25歳人口の68.2%しか高校卒業資格を持っておらず、学位を持つのは15.4%である。ジェファーソン高校はタイトル1校(貧困層の生徒が一定数いるため補助金が交付される学校)であり、136人の教員の内30名が国際バカロレアのプログラムを受けている。生徒数は3,176人(2004年)、ラティーノが60%、アジアンが13%、アフリカンアメリカン12%、白人10%、アメリカンインディアンやアラスカンネイティブが5%である。64%が貧困層に分類される。

1993年から2003年までは、ジェファーソン高校のIB卒業プログラムは、学区の人種差別撤廃計画の一部であった(マグネットスクール:魅力あるプログラムを貧困地域の学校に導入することで、白人などを呼び戻す政策)。2004年からは、IB卒業プログラムは連邦政府基金によるものから、学区の責任によるものとなった。
ジェファーソン高校では、二人の教員をIBコーディネーターとした。コーディネーターたちは、白人生徒をコミュニティに呼び戻す、という学区の目標は共有せず、学区のミドルスクールからの生徒を集めた。そのうち、8年生(中学卒業時)で代数を取っているのは半分程度であり、42%程度が英語を第二言語としていた。

スタッフの選定
国際バカロレアのように基準の厳しいプログラムを、十分な資格を持たない教員により運営することは意味をなさない。場合によっては、IBクラスを担当する教員の配置換えも必要となる。10年前と異なり、今では生徒の成績が悪い原因を生徒の責任にせず、「違うやり方はなかっただろうか」と考えるようになっている。

事前研修
研修はIB教員により行われ効果的と評価される。スタッフの採用基準がないため、事前研修の果たす役割は大きい。

コーチングとコンサルティング
ピア・リーダーを配置することで、IBコーディネーターは組織文化に対して影響を強く与えることができる。

プログラムとスタッフの評価
外部からのモデレーター(評価者)と学内での評価が異なる場合は、生徒の課題をより詳しく見るなどの調整が行われる。

(割愛)

結論
学校改革は簡単にはいかないが、IBプログラムにはそのプログラムを括弧として運営するためのシステムとサポートがあり、生徒の学業達成を押し上げることが期待できる。

木曜日, 7月 02, 2015

米国のカトリック高校における国際バカロレアの導入について

White, John, 2012, The international baccalaureate diploma programme in U.S. catholic high hchools: An answer to the church’s call to global solidarity, Catholic Education: A Journal of Inquiry and Practice, vol.15, pp.179-206

米国のカトリック系高校での国際バカロレア卒業プログラムが、大学での成功に寄与している。また、カトリック系高校への入学動機を高めるといったマーケティング面での効果も見られる。
国際バカロレアの導入は、より高い水準の教育プログラムに押し上げる効果もある。
国際バカロレアは、そのミッションを学習成果や、学習者像として落とし込んでいる。そのカリキュラムは急進的過ぎるというものではない、数学や理科のカリキュラムは、これまでのAP(大学の単位を高校で取得できる授業)と似ているが、異なるのは国際バカロレアではこれを合科的に行ったり、人権教育などと融合させている点である。
国際バカロレアは、導入に費用が掛かるものの、国際感覚を身に付けたカトリック市民を輩出する上で役に立つものだ。

月曜日, 2月 02, 2015

医者と教師

アメリカでは、教師の専門性を語る比喩として医者の例が引かれる。
曰く、死んだかどうかを診断するのでなく、どうすれば健康になるかを助言するのが医者だとか、優秀な外科医は空いている時間に他の外科医の手術を診る、
教育方法史を研究する稲垣忠彦氏は、授業研究をカンファレンスと位置付けて、それぞれの専門的見地から一つの事象を検討することを提唱するし、向山洋一氏はどのような手法であれ患者を直すのが良い医者だと考え教育技術法則化運動を推し進めた。ラビッチさんは医者の世界に、ニューヨーク市で行われてるような一律の点数評価を公開するようなことがあるかと批判する。
ただし、向山氏の法則化運動に対する批判がイメージしやすいが、ある状態に戻すことを目指す医者の専門性を教育に適用すると、ステータス・クオ、現状維持のイメージも喚起する。教育を、教師や生徒達の関係性から生み出される、無限の成長や発達、創造と見る立場からすると、異なる専門家像が浮かび上がる。
教育を医者的専門性で定義すれば、簡単な病気なら町の薬屋さんでという手軽な解決策に行き着く。それは既に私達の置かれている状況だ。

日曜日, 2月 01, 2015

あなたと分かち合いたいこと: 発展途上国からの「教員輸入」と使い捨て教員

あなたと分かち合いたいこと: 発展途上国からの「教員輸入」と使い捨て教員:  「教員派遣」というビジネス  新自由主義の理想を追い求め、公教育に市場原理を徹底的に導入した場合、「教員」の存在とその仕事はどのように変化するだろうか。その行き着くところは、教員の非専門職化、更には「使い捨て人口化」ではないだろうか。教員養成、教員免許、教員配置等のあらゆる...



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実に明晰な分析だと思う。

この分析をもとに、仮想実験をしてみよう。

派遣ビジネスとしての教員が拡大した世界について。

実は、これはすでに日本でも始まっている。

都内の教員採用に、塾関連の会社が関わっていることは、学校関係者であれば知っている人もいるだろう。



ここで、あえて、別の立場から批判してみる。

「なぜ、それがいけないんだ。教え方の上手な教員、能力の高い教員が集まるなら、それは子どものためになるだろう。それの何がいけないんだ。そういうのは、結局、教員の既得権益を守りたいだけなのではないか。」という声もあがるだろう。



「これまで<結果>が上がらなかったのは、教員の養成段階の問題だろう。だから、養成段階そのものをもっと厳しく、長くする必要がある、もしくは養成機関の格付けを行う必要がある。」



このようにして、<責任感=アカウンタビリティ>をもった教員が、不安定で流動的な労働条件の教員が、増える。こうした労働環境は、すでに大学で始まっている。

そうであれば、派遣先を切られても、別の派遣先を提供できる会社に登録したほうが、教員にとっても安定なのではないか。また、民間経験をしてから教員になる、もしくは教員をしてから民間にいく、ということも容易になり、<社会を知らない>教員というレッテルも少しはなくなるのではないか。





こうした声には一定の妥当性があるように思える。しかし、それが大きく進められたニューヨーク市の教育を少しばかり肌で感じてみると、そこに薄ら寒さを感じる。日本の教員に問題がないわけではないだろう。壁を感じさせる教員や、自分の価値観に凝り固まって協働しない教員、地域との交流は面倒だと感じる教員、様々だ。



鈴木さんのブログで、すでに現実に存在する問題として、教育現場における正規雇用と非正規雇用の格差により生じる、<教育という物語>の緩やかな消滅だ。非正規の教員は、その学校の組織文化を構成する一員とならず、正規雇用のみで構成されるコミュニティは硬直化し、縮小し、個別化する。教育委員会の存在が問われ、自治体としての物語の継承が危うくなっている状況で、さらにその学校独自の物語を紡ぎだすことができなくなれば、教員文化を再生産する資源が枯渇する。

そして、鈴木さんのいうように、「使い捨てられる教員」により構成される、新たな、おそらく悲哀に満ちた物語が語られ始めるのではないだろうか。



ただし、アメリカとの違いは、幸か不幸か、日本語は英語のような影響力ある言語ではない、ということである。すなわち、この言語の壁が参入障壁となり、教員派遣市場はアメリカに比べ、小さいものにとどまるであろう。

しかし、もし、提供する教育が、コンビニやファースト店におけるマニュアル的なものを超えないのであれば、鈴木さんの危惧する状況はすぐそばまで来ているのかもしれない。

したがって、考えるべきことは、日本の教員文化である包括的な関わりの価値を考えること、より高度な教育を創りだせる専門家となるかである。後者は単に難しいことを教えるということでなく、社会経済的に恵まれない子どもや特別支援を必要とする子どもをどう包摂し、教育という場の中で学び合えるようコーディネートするか、という意味も含めてである。

このように考えることは、教員や学校にすべての責任を押し付けることや、多忙感を増すことにもつながるため、慎重な姿勢が求められる。しかし、鈴木さんの指摘する危機を問題とするならば、自分たち教員はどのような存在であるべきか、というアイデンティティを問い、どのようなことをすべきなのかという問題と正面から向き合う必要があるのではないだろうか。