「美徳の博物館」について
学校教育の解釈や実践は多様であり、そうした様々な「教育」を所蔵している博物館が学校であるとされています。こうした状況をシステムに落とし込む方法として、価値中立的に様々な「教育」を陳列する「ショッピング・モール・ハイスクール」が紹介されています。学校には何か問題を発見しようとするまなざしが向けられますが、そのまなざしは「美徳の博物館」の所蔵品目が産み、このまなざしにより「作られた危機」が学校を動かすと言われています。学校は教育委員会などを上部とし、各学校を下部とするピラミッド型組織による「タイトな統制」をとるが、様々な「美徳」があることから生じる矛盾に対応するために、実際には厳密にはコントロールしない「ルーズな統制」をとるという考えが紹介され、こうした学校組織の特徴を、社会学的に「脱連結」と表現し、結論では、その「あいまいさ」を積極的に評価しています。
私が関心をもったのは学校組織がそれ自身で原動力を作り出している仕組みです。学校組織が所蔵する「美徳」とは、それ自身で目標となり組織を動かし得ます。一方で、「美徳」が実現していない領域を「問題」とすることで組織を刺激します。例えば、戦後日本の「高度経済成長を支える人材養成」という美徳的目標はそれ自身で学校組織を動かしました。しかし、高度経済成長が落ち着いた1970年代からは、「校内暴力問題」「いじめ問題」「学力低下問題」など、「美徳」と照らしてある事象を「問題」とすることが、学校組織が動くエネルギーを生んだと考えられます。このシステムは、アメリカ映画で批判的に描かれる「教会」の支配体制に似ています。「教会は、美徳をもって人を集め、罪悪を自ら作りそれを許すことで権威を示し人を支配する」、という体制です。日本の文部科学省が「未履修」を問題としたことも、そうした権威を創出する手段と考えることができます。ミクロな視点で見れば、校則や頭髪指導というのもそうした権威を作るツールであるといえます。しかし、学力の高い生徒が集まる学校であるほど自律的で、権威を示すツールは必要でなくなります。権威の代わりに、その学校の文化や風土が組織や個人を動かします。この権威と自律のギャップも「あいまいさ」と言えるのではないかと考えました。
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