土曜日, 1月 06, 2007

校長の文化的リーダーシップの語用論的分析に関する試論

校長の文化的リーダーシップの語用論的分析に関する試論
千々布 敏弥
教育経営学研究紀要、1997、第4号、117-126
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/760/1/KJ00000042603.pdf

はじめに
 校長がとる経営戦略の一つとしての「文化的リーダーシップ」に焦点をあて、特に文化的リーダーシップが発現される主たるメディアとして、校長の<ことば>に注目し、その語用論的分析を試みるものである。
 ここでは、暫定的な定義として「学校文化とは、学校の組織成員が学校の教育活動に関して意思決定する際の背景となる、知識や価値であり、成員はそれを明確に意識する場合もあるが、意識しない場合もあるもの」、「文化的リーダーシップとは、学校文化を自らの理想と考える方向に変革することを意図するリーダーシップ」とする。

学校文化の意義 ハーバーマスを手がかりに
 ここでは、学校文化の意義を考察するのに、ハーバーマスによる、了解の概念を中心とした発話行為の分類枠組みを参考にして論を進めたい。例えば、校長が教師に行政研修に参加させるという目標を達成しようと意図して、教師の行政研修参加それ自体を目的とする場合、それは目的合理性に基づく行為となる。これに対し、コミュニケーション的合理性とは、目的が「教師が行政研修に参加する必要性を理解すること」となっていることをさしている。
 了解過程における妥当要求として、ハーバーマスは、正当性、誠実性、真理性の3つを挙げた。今日の学校現場で特に問題となるのは真理性に関する合意であろう。歴史教育論争などはその典型といえようし、体罰に関する見解の対立もいまだに多くの学校で見られるところである。真理性に関する合意が不十分でも最終的に了解される場面は、「あの人がこういうのだから、信じよう」という文脈で語られることが多い。

学校文化の創造場面 ことばによる文化的リーダーシップ
 「学校文化を創造する」とは、学校の教育活動に関係するものたち(主に教師集団)が共通の背景的知識を所有することにより、了解可能な局面が増える現象を指している。学校文化を創造する戦略には、ことばによるもの以外に物的条件整備によるものや在的、人的条件整備によるものもありうる。それは、「すべてにあきらめていた」という文化を変容させることを意図していた。また、校長が目指す学校文化になかなか同意しない教師がいる場合には、その教師を異動させ、かわりに校長が目指す学校文化に適した教師を迎えるという人的整備のあり方も考えられる。ただ、教師が了解する際の背景的知識に直接働きかける手段としては、ことばがもっとも有効であろう。
 東井義雄は赴任した最初の職員会議で「経営方針を聞かせてもらいたい」と要求されたのに対し、「こどもたちに、まず何をしてやらねばならないかは、私が決めるのではなくて、あなた方が決めなければならないことです。」と語りかけている。氷上正は赴任した最初の職員会で明文化した「教師の信条」を掲げ、教師たちへの願いを語っている。師井恒男は着任してから一月後に「日々の高まりを求めて」と題したガリ版刷りを教師たちに配布した。これは「共通の意識に立った教師集団をつくりだす」ことを意図している。
 このように、教師集団に対して一方的に話しかけることから、教師集団の文化がすぐに変容することは期待できない。師井が「同調者をいそいでつくるよりも、教師のなかのわずかな人たちの胸にとどめるだけでよかった」というように、校長の理念がすこしずつ浸透することを期待しながら語りかけていると解せよう。
 また赴任当初ではなく、改善中途の戦略的意図をもつ発話もある。このような局面を説明するためには、オースティンによる「発語媒介的行為」の概念の方が適しているように思われる。それは、ことばにはことばそのものと、その意図と、そのことばによって生じる結果という3つの側面があるという概念である。

最後に
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/760/1/KJ00000042603.pdf

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