わが国における校長の文化的リーダーシップの萌芽
-中澤忠太郎著「校風論」(明治44年)の紹介-
元兼正浩
教育経営 教育行政学研究紀要、1996、第3号、85-90
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/819/1/KJ00000685486.pdf
【内容抜粋】ほぼ原文をそのまま引用しています。
はじめに
本研究室・共同研究会で学校文化、教師文化、さらには学校組織文化に関する先行研究を渉猟したところ、「校風」を直接に論じているものはあまり多くないことが判明した。ただ、管見の限りでは、校風はその個別性ゆえに学校の組織風土・組織文化研究の範疇として位置づけられているようである。(今津孝次郎「変動社会の教師教育」、名古屋大学出版会、1996、154ページ)
本書が著された明治末期(40年代)は、従来(30年代)の放棄解釈中心の「学校管理法」に対して、「学校経営論」(の萌芽)が台頭する時期である。同時期には、校長の主観的な役割が期待されていた(山松鶴吉「模範的小学校経営の実際」、同文館(東京)1910)。本書もその流れに位置するものとみられ、校長自身が校風に積極的に働きかけることが随所で期待されている。
校風の研究は、当時すでに理論的にはいわゆる学校改善との関わりでとらえられていたようである。このことを、学校の雰囲気や組織文化を変える、いわば文化的リーダーシップに近いものとして紹介者は注目しているのである。
本書の概要(総論)
校風の定義
筆者の中澤は、校風を「其校精神の統合」とし、その内容は徳目・徳行(勤勉、正直、清潔、勇気など)に関連する多様なものであり、それらが馴致同化のベクトルとして生徒に発せられる構造と捉えている。そこでは、各徳目、各徳行の関連状況、連絡が重要であると指摘されている。なお、ここで注意すべきは、本書が著された時代的な制約もあって、学校が強化機関として捉えられている点である。ゆえに校風は「教化薫陶の力のある一種の潜勢力」とも定義されており、この潜勢力に感じたものはかならずや「同化」されると筆者は指摘する。しかしながら、校風は一時的、かつ部分的な単なる「訓化」ではなく、永遠の教育力としてここでは捉えられているのである。
校風の感化・発達・養成
校風のない学校というのは存在しないだろうが、校風の衰えている学校は数多いであろうと筆者は指摘する。つまり、校風の衰微が問題になる。そのような学校にとっては、校風の感化力こそが重要であり、教師らは一致・協力してその発揚に焦心すべきであると指摘されている。ここでは、校風の感化について、筆者は「校風の感化は、精神的であり、自然的であり、普遍的であり、強大である」と4点を挙げている。
校風は、最初に作成されたものに限定されるべきではなく、量的にも増加し、質的にも充実、精錬、熟成すべきものであり、これを本書では校風の発達として捉えている。「校風の発達には熟慮を要する」とし、校風のなかには弊風という校風も存在するため、悪しき傾向が認められる点はそれを根本的に排除するよう奨励すべきとされる。「校風の発達は漸進的であるべき」とし、校長・教師はその養成・発達にあたって根気が必要とされる。「校風を発達させる順序如何」について、校風の扶植(現状把握と初歩の経営、職員間の統一)→練習時期(実行練習を競わせる)→完成期(全校児童の歩調を揃え、美風を作る)という順序で発達するものとされる。
校風の養成については、とりわけ教育者の人格が校風に与える影響は大きく、その直接的影響力はあらゆる言説を超えるものとされる。それゆえ、全校教師が生徒の徳育の養成を直接に行うべき、と指摘されている。また、父兄や卒業生といった外部と連絡をとり、外部からの補助者を利用して校風の養成をはかることもなおざりにしてはならないと提言されている。
本書の概要(各論)
校長・教師の人物と校風
学校の主脳である校長には教育教授に関する一切の指導と管理施設に関するあらゆる経営が期待されており、したがって、教授の統一と訓育管理の方針作成は校長の主要な役割であった。単なる事務処理や外交に巧みなだけでは不十分と言及されている。ところが、校長が外部的事務に力点を置き、内部の仕事を疎かにしているのが当時の状況であった。
また、校長には一校の教訓について確乎たる理想をもつことが必要とされる。各教師の努力と校長自身の理想とを徐々に調和的に統一(結合)することで、当該校の問題の解決をはかるべきという。
ただ、もちろんひとり校長のみによって学校の改善は実現するわけではなく、教師(集団)の協働は不可欠である。教師の人物・学識もまた教育事業の向上発展のためには問われるべきである。それゆえ教師の人物の陶冶、学識の収得のためには修養もしくは研究、すなわち研修が重要であることが指摘されている。
学校の改善は協同事業であるゆえに、全校教職員の精神的団結が最も望まれている。特に、校長と教職員がお互いに尊重し、信頼しあう「合成的の感化力」は無限の効果を日教育者である児童・生徒に与えるという。
そのためには、永年勤続が不可欠となる。だが、当時は少しでも棒給の高い学校へと異動が頻繁に行われていたため、校風の養成が容易ではなく、このことが問題点として指摘されている。
教授論と校風
教授方針の定が主因(補導)となって校風を作成することがある。また逆に、校風の内容に因由して方針を定めることもある。いずれが主でいずれが従かはともかくとして、校風が認められる学校には必ずこの図式が成り立っているという。
緊要必須の教授方針として、①教授方法を親切にすべし、②教授は確実に、応用自在にすべし、③教授に誠意あるべし、④鍛錬主義をもって教授すべし、の4点が挙示されている。
校長は校風の刷新をはかるため、講堂修身の場あるいは朝礼の場で、系統(統一的)にかつ反省的にかつ具体的に訓諭をおこなわなければならないと指摘する。また、教師の統一も重要で、教師は校長の訓諭内容を十分に了解し、実践し、これが校風に帰結するよう努力しなければならないと指摘する。
訓育(校訓含む)と校風
筆者は級訓もその学級の長所、短所、発達程度をわきまえたものであれば制定してもよいのではないかと言及する。ただその場合、級訓と校訓との間の調和がきわめて重要となる。校訓や級訓を制定するにあたっては、学校の理想を案じる必要があり、それは校長の役割とされる。学校の理想は校長の頭脳から演繹されるべきものだからである。また、同時にそれは教職員の知恵をしぼった帰納的な目標でもあるべきもので、校長はそうした意見の結集を図らなければならない。理想のある学校の校風は生気を帯び、進歩的で、かつ改善的であり、校風の改良や発揚に結びつくものと指摘される。訓育が校風の養成に価値を発揮するために次の従原則が挙げられている。
① 自然に従うべし
② 児童の境遇を知悉(ちしつ、詳しく知ること)すべき
③ 児童に密接すべし
④ 熱烈なる愛情を以て接すべし
⑤ 実行主義なるべし
⑥ 身を以て範を垂るべし
⑦ 性善主義を以て訓練すべし
⑧ 活動主義なるべし
⑨ 積極主義なるべし
⑩ 永続的方針にて訓練すべし
感化と校風
教育事業はある程度までは感化であり、人を教化しようとするのは二次的とされる。まずは教師が熱誠・温情・公明・清浄などの各要素を披露する赤心から感化ははじまる。また、卒業生には校風の発揮に努力する義務が残っており、卒業生の逸話(「英雄的生徒」の神話はインフォーマルな学校文化の象徴の一つ)を感化の材料に使うことは有用であるという。
さらに、郷黨(きょうとう、党の旧字、ふるさとの意)における先進の助力や家庭の賛助、社会教育の力などの諸勢力によって学校教育の解決をはかることが不可欠とされ、例えば偉人の活用、家庭との連絡などの必要性が挙げられている。また、校長・教師たちが学校事業のみならず、市町村の教化事業にまで悉砕するのは、①社会改善のためばかりでなく、これによって②学校教育をよくするためであると指摘されている。以上のように、教育の効果は学校だけでは不十分であり、学校・家庭・社会が三身一体となって協力して取り組んでいかなければならないとされているのである。
また、校風に一定の影響を及ぼしているものに学校の歴史的感化がある。例えば、歴代校長の精神は一種の遺訓として後代の学校経営者に引き継がれることがよくある。また、伝統校の所在地(校地)は、その郷土における歴史上の因縁のある場所のことが多く、それゆえ古英雄の偉業から範とすべきものを採択することも容易となる。このようにして歴史的感化を助成することは校風の発展に大いに貢献すると述べられている。
本書の概要(結論)
「校風問題の解決は、主として、有効なる教育の永続的実施と、教育事業の有機的統一と、教育当事者の精神的努力と、児童生徒の自覚的発奮との四者の調和宜しきを得、其相互の関係をば阻害するもの無く密接せしめ、進行せしむるにありと断言するものである。」と筆者は述べている。
ここでいう四者を広義の学校文化を形成する四つの下位文化として捉え直すことはできないだろうか。つまり、「有効なる教育」をカリキュラム文化の改善と、「教育事業の有機的統一」を組織文化の改善と、「教育当事者の精神的努力」を教員文化の改善と、「児童生徒の自覚的発奮」を生徒文化の改善と言い換えることにより、それぞれの領域の調和的な改善が、「校風論」を軸として当時から求められていたものと受け止めることはできないかと紹介者は考えるのである。
おわりに
校長と校風の関係、校風の改善に果たすべき校長の役割がたびたび論じられていることは看過できない。例えば、「学校の主脳」である校長には部下職員の長所を認めて短所を矯正して、各教師の努力と自身の理想との結合を図ることが期待されていた。また、経営管理のみならず、教授・訓練のすべてにおいて、互いの信頼にもとづく部下教員への指導が理想として掲げられていた。これらは校長の(間接的な)教育的リーダーシップに対する要請とみられる。
また、学校の理想を案じることも校長の役割として非常に高く期待されていた。校長自身の教育信条に教職員の意見を統合させながら当該校のビジョンをえがき、そのために「校風」を養成したり、感化させたり、発達させたりすることは、すなわち学校の組織文化に校長が主体的かつ積極的に働きかけることにほかならない。その意味でこの一連の校風とのかかわりあいを校長の文化的リーダーシップの萌芽的形態として紹介者は捉えるのである。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/819/1/KJ00000685486.pdf
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