木曜日, 7月 19, 2012

いじめ 担任の考えるべきこと


●担任が考えるべきこと

(1)児童・生徒の状況及び変化の把握
いじめの初期で発見し、その段階で「いじめは許さない」という態度で対処し、観衆(C)や傍観者(D)がいじめる子(B)にならないようにする。

(2)児童・生徒との信頼関係
(1)の指導が成立するためには、信頼して情報を寄せたり安心して相談を持ちかけられる関係が成立している必要がある。その前提条件として、教科指導など教師としての専門的能力や、人間的な面での尊敬の念が必要とされる。

(3)いじめを発見した場合

①いじめられた子の話しを聞き、その子の立場に立ち、慎重に対処する。
(よくない事例)生徒AとBのいじめ的関係について生徒Cが先生に相談した時、「注意したから大丈夫だ」というだけで終わる。もっと時間をかけて生徒と話し合ってほしい。(豊川市の中学3年生)


②「絶対にいじめは許さない」という態度で臨む
学級だけでなく、学校全体で厳格な態度で対処する。いじめグループ(B)に対しては、それぞれの子どもを、時に個別に、時にグループとして面談し、面談する。この時、担任だけでなく、校長や主だった先生も同席し、両親を含め、学校が断固とした処置をとることを態度で示す。もし、いじめを教師に知らせたことで報復があるような事態となれば、停学や退学などの処罰があることを示すことが再発防止につながる。金品の恐喝や暴行の程度がひどい場合は、警察に知らせ、法的な処置を受けさせる。


③学校と家庭が緊密な連絡を取り、協力して問題の解決に当たる

④いじめる側の言い分を聞く

⑤SOS信号がでている場合、いじめグループ(B)といじめられっ子(A)を隔離し保護する
いじめを受けている子どもの話しを無条件に受け入れて聴く。コメントや支持的な付け加えをしない。励まさない。非難しない。感情レベルでの共感的理解を重視する。自殺を決意させるほどの心理的危機は比較的短い期間しか続かないと言われる。早くて4~5日、遅くて2~3カ月で消えることが分かっている。心理的危機を先延ばしにする。身近な人が自殺することで、残された人は心理的負担を負う。一人の人間が死ぬと平均7~8人の人が嘆き悲しむことが分かっており、何人かが後追い自殺をする。

●いじめを解決した事例

渡邊(1996)は文献の整理から、つぎのことを述べている 。

(1)いじめをいかに把握するか

①複数の教師が手分けして事情を聴く(情報の出所は隠す、うわさの域を出ないという形にする、教師がたまたま見聞きしたという形にする)

②教師が実際に目で確認する

③クラス全員にアンケートを取る

(2)いじめられている子にどうかかわるべきか

いじめられている子が被害を言わない理由
みっともない、恥ずかしい、仕返しが怖い、親に心配をかけたくない、教師に行っても解決しない、いじめられている事実を受け入れたくない、孤立するよりまし、話すことによりつらい経験を追体験しなければならない。

①いじめられている子を即時に保護する。いじめている子に会わないようにする。

②つらさを十分に聴いて認め、心から理解を示す。

③「お前にも欠点がある」と言わない。

④「人生ではもっとつらいことがある。これくらいでくじけるな。強くなれ。」と言わない。

⑤孤立させない。

⑥教師が折に触れ声をかける

⑦いじめの記録を書かせる。証拠の品を残す。

⑧別室での個別授業を保障する。不登校になった場合は訪問授業をして学習権を保障する。

(3)いじめている子にはどうかかわるべきか

①よわいものいじめは許されないという認識、態度で臨む。いじめたつもりがなくても相手はいじめと感じていること、仕返しは卑怯であることを含めて。

②一方的な説教にしない。問題児童というレッテルを貼らない。いじめをやりたくなる背景、やめられないつらさに目を向ける。内省の機会を与える。良いところを発見し、頑張りどころを見出し、将来への希望が持てるようにする。追いつめず、逃げ道を残す。

(割愛)

⑤「どうして?」は非難されている感情を引き起こすので、避ける。

⑥特別指導プログラムを個別、集団で組む。

⑦警察、指導相談書、家庭裁判所の協力を仰ぐ。

(4)親との関わり

①いじめをなくすために徹底して戦う姿勢を伝える。実態理解の目的でアンケート実施もよい。

②親との信頼関係を作る。冷静に親の話しを聴き、立場を理解する。教師は「一生懸命やっている」「何度も指導している」など自分の正当化をしない。いじめられている保護者に対して「騒ぎすぎ」「いじめられる方にも問題がある」、いじめている保護者に対して「家でちゃんと教育しているのか」など責めない。話合いは継続して行う。

③学校、教師の考えや姿勢を表明する。現在どう取り組んでいるか、今後どうしていくのかを具体的に述べる。

④こどもを全体的に理解するために、家庭での様子を聴く。学校での様子を伝える。

⑤家庭訪問をする。

⑥緊急父母会、PTA会合を開く。欠席者にも議事録や情報を伝える。

いじめられている子の親に対して:緊急時であることを認識していないような発言をしない、謙虚に謝罪する勇気、学校だけで難しい場合は他の機関の紹介

いじめている子の親に対して:単純に子どもを悪者扱いしない、補償や弁償については合理的に解決できるよう取り計らう、家庭での指導を約束し実行されているかを確認する、あらかじめ個人面談を行ったうえで集団面談を行う

直接関わっていない子の親に対して:当事者だけでなくオープンにすることが効果的、傍観者という立場はいじめていることだという考えを貫く、日記、感想文、手記などを材料に話合いを繰り返す、いじめについて共同で学習する、ルールを作る、学校全体での話合いに勧める

(5)教師間の連携

①複数の教師で手分けして実態の把握をする

②教師用のいじめ調査を行う。

③対策委員会の設置

④学年会での情報交換

⑤学年全体で個別指導

安易に「自分のクラスにはいじめはない」と言わない。いじめはある、という姿勢で考える。

●いじめを解決した事例をもとに、次のことを考える。

・いじめについての情報をどう把握し、確認したか
・いじめられている子に対してどのようにかかわったか
・いじめている子に対してどのようにかかわったか
・双方の親に対してはどのようにかかわったか
・いじめられている子の親にはどのようにかかわったか
・いじめている子の親に対してはどのようにかかわったか
・その他の子どもに対してはどのようにかかわったか
・教師の連携、自分の姿勢の見直しはどうだったか
・子どもの年齢によって教師の関わりかたに違いがあるか

参考)

酒井 亮爾,1995, 「学校におけるいじめとその対処法に関する一考察」『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要』 10, pp.230-260

渡邉孝憲,1996,「「いじめ」を解決した事例にみる教師の効果的なかかわりかたの分析」『聖徳大学研究紀要 人文学部』第7号,pp.47-55

いじめ


●いじめの定義
文部省(旧)の定義によれば、いじめとは「1.自分より弱いものに対して、一方的に」「2.身体的・心理的な攻撃を継続的に加え」「3.相手が深刻な苦痛を感じているもの」とされる。


●いじめの発生件数
いじめの発生件数は、1985年に155,066(小・中・高の合計)件であったが、1988年には29,786件、1994年は21,598件と減少を見せている 。
学年別にみると、小学校1年から6年にかけて次第に増え、中学1年生で急増し、中学校3年生で急減し、高校でさらに減るという傾向を見せる。報道されるいじめによる自殺者が中学1,2年生に集中している事実と合わせ、現行のいじめは中学校時に急増・深刻化する問題行動と考えられる 。

発生件数は学校の報告による。不登校や登校拒否は1981年→1991年に掛けて小学生3,600人→12,600人、中学生15,900人→54,100人。児童生徒の自殺発生数は、1985年215件、1988年175件、1993年131件。


●いじめの種類
小・中・高全体で最も多いのが「ひやかし・からかい」(24.5%)、次いで「暴力をふるう」(21.8%)、「ことばでの脅し」(18.3%)、「仲間はずれ」(15.8%)、「持ち物を隠す」(7.2%)。学校段階が上がるにつれて「金銭をたかる」が多くなる(小1.9%、中6.2%、高11.0%) 。


●いじめのプロセス
学校におけるいじめとその対処法について考察する酒井(1995)は 、いじめという現象が生じる場面には、いじめられる子(A)、いじめる子(B)、いじめを見てはやし立てる子(観衆)(C)、いじめにきづいても見て見ぬふりをする子(傍観者)(D)、先生(学級内で最も協力なリーダー)(T)の5つの立場があるとする。
いじめられる子(A)の条件は、「1.クラスの中の力関係の弱い子」「2.その子がクラスの他の生徒たちに違和感や不快感を与えること。例えば、動作が遅い、不潔、すぐ泣きごとを言う、転校生であるなど」「3.いじめる子がいじめによって会館を得られる、いじめがいがある」などが挙げられる。いじめられる子を類型化すると、いじめっ子の嗜虐性を刺激する「孤独型」(口下手、身体のアザや血管、肥満、動作が遅い、不潔、臆病、すぐ泣きごとを言う、弱虫、転校生など)、いじめっ子の攻撃性を刺激する「つっぱり型」(派手な服装、反抗的な態度など)、いじめっ子の劣等感を刺激する「ぶりっこ型」(成績がよい、美人、もてる、高価な服装、など)が考えられる。
いじめる子(B)の条件は、「1.クラスの中の力関係の強い子」「2.その子が何らかの理由で欲求不満状態であったり、ストレス状況下にあること。例えば、勉強ができなくて、授業がよくわからない、両親が離婚寸前、青年期で自分の心身のコントロールを上手にできない。」などがある。
いじめのプロセスは、いじめられる子(A)を取り巻く同心円が大きくなるというモデルで考えられる。つまり、いじめる子(B)と観衆(C)が増えるというプロセスである。相対的に傍観者(D)や教師(T)のプレッシャーが弱くなることで歯止めが利かなくなる。


●いじめに対する反応類型
 いじめ現象を傍観者の観点から研究した橋本(1999) は、いじめをめぐる集団状況を「同調―黙認・不介入」の縦軸と、「同意・支援―批判・同情」の横軸で整理している。Ⅰ象限(同調/同意・支援)は加害者グループの一員として率先的に加害者と共に行動する同調的加害者(いじめる子B2、いじめグループの主犯格をB1とする)である。Ⅱ象限(同調/批判・同情)は被害者側に共感を持ちながら、行動面では加害者に属する(いじめる子B3)。Ⅲ象限(黙認・不介入/批判・同情)は加害者に批判意識、被害者に同情を感じながらも黙認・不介入を保つ傍観者である(傍観者D)。Ⅳ象限(同意・支援/黙認・不介入)は、直接手出しはしないが、周りで面白がって見ることでいじめ行動を促進する観衆的存在である(観衆C)。
インタビュー結果から、小学校と中学校では集団状況が異なることが分かっている。小学校では各象限に均等に分布している。Ⅰ象限の同調的加害者(いじめる子B2)は「面白かった」「深く考えていなかった」と答える。Ⅲ象限の傍観者(D)は、「自分が被害者になるのが嫌だった」「関わりたくなかった」と保身からいじめを黙認するが、Ⅳ象限の観衆(C)は、「直接手は出さないが、被害者のことが嫌だった。」と答える。傍観者(D)が多くなるケースは被害者が流動的かつ恣意的に選ばれるのに対し、観衆(C)が多くなるケースは被害者が特定化され、保身の心配が少ない。Ⅱ象限のいじめる子(B3)は保身からの過剰同調である。黙認
同調行動となる女子生徒間での集団無視という形態も多い。
中学校では、Ⅱ象限のいじめる子(B3)と、Ⅳ象限の観衆(C)がほとんどなくなり、Ⅰ象限の同調的加害者(いじめる子B2)と、Ⅲ象限の傍観者(D)に分化する。加害者に対する周囲の心理的な同調・支援傾向が減少し、傍観者の増加と加害者層の固定化が認められる。被害者が頃津した場合に深刻な状況が生じる。小学校時には仲裁者だった者たちも、中学になると傍観者に回っている。加害者とも被害者とも親しくなかった、という回答が見られる。
小学校と中学校では、①仲裁者の減少、②加害者への同調者・支援者の減少、③傍観者の増加、④加害者・被害者、いじめ現象から距離を取る生徒の増加、という点で違いが見られる。これは、中学になるといじめが不透明化することを示唆している。中学校では、事情を知らない傍観者層が現れる。


●小学校でのいじめ構造
①スケープゴート型
被害者への嫌悪感がクラスで共有されているケース。被害者は孤立し、被害者以外にとっては娯楽的要素が強い。観衆と加害者の間には依頼と代行の関係がある。「いじめられる側にも問題がある」などの認識を生みやすい。被害者は性別に関わりなく選別され、加害者層はクラス内において何事も率先して行うような活発な子どもで構成される。
②均衡型
傍観者が被害者に同情し、加害者層に批判意識を持っているケース。傍観者層は孤立しており、加害者層とも仲が良い場合が多い。状況によっては仲裁者となる。被害者に友人がいる場合もあるが、いじめの場面においては仲裁者とはならならず、保身から傍観している。加害者・傍観者が均衡を保つことにより状況の進化を抑制する傾向がある。
③ヒエラルキー型
加害者・傍観者/同調者・被害者の階層が男女別に形成される。傍観者と被害者の線引きがあいまいであり、傍観者はいつでも被害者になりうる。横先が自分に向く恐れから傍観者は介入に消極的になる。仲裁者が現れない。男子は別々のグループを形成し、物理的な加害行動であることが多い。女子は同一集団内でリーダー以外の子が被害者/同調者の立場を繰り返す。無視などの形態が多い。クラス内で女子が一元化し、被害者の孤立が長引くと深刻化する。

スケープゴート型と均衡型の往復がよく見られる。スケープゴート型→均衡型への移行は、笑って見ていた傍観者(観衆)が状況のエスカレートに伴って被害者に同情し始めることや、状況を認知した教師による介入・指導によって起こる。均衡型→スケープゴート型は被害者の不快な態度により同上心が消える場合である。各類型に固定化せず、教師の介入効果も長期間持続することはない。
小学校のいじめは集団成員全員が均等に関わることを特徴とし、被害者が分かりやすく固定している場合、保身の心配のない傍観者は面白がる。気まぐれで被害者が選ばれる場合は、傍観者は関わらないようにする。加害者に近い傍観者が仲裁し、事態が収束する。


●中学校でのいじめ構造
①分断型
傍観者は一貫していじめとは孤立し、加害者/被害者の関係に干渉することがない。徹底した無関心、無力感から来る諦念を持つ。日常生活において傍観者層が加害者、被害者のどちらに親近感を抱くかによって状況の深刻化に差異が認められる。
②加害者孤立型
傍観者が被害者に近い持つタイプ。加害者が不良グループで、周囲とは異質な行動様式を取る場合に被害者に同情を寄せる。直接関わることは避けるが、後で慰める、助言するなど精神的なフォローを行う傍観者が多数見られ、深刻化する危険性は少ない。加害者の行為は周囲へのデモンストレーションであるため、陰湿化する傾向は小さい。不良や際立って勉強のできる子、面白い子、運動のできる子は被害者にならず、誰を被害者にするかは注意深く選ばれていた気がするという意見もあり、加害者が周囲へのアピール手段として被害者を利用していることが分かる。
③被害者孤立型
傍観者が加害者に近いタイプ。被害者にとって親しいものは加害者だけという状況で、被害者に逃げ場がなく、いじめ行動のエスカレートに気づく者がいない、という状況が生まれる。傍観者は、加害者と被害者が友だちだと思っていることもあり、状況の深刻さを認知することがない事態に発展する可能性が高い。

加害者孤立型と被害者孤立型の間で変動が見られる。特に、加害者孤立型→被害者孤立型への移行が比較的良く見られる。当初、道場や危機感を持って自体の推移を眺めていた傍観者も、暴力が日常になるにつれて注意を払わなくなる。加害者/被害者層が固定化する為、傍観者層には保身の心配がなくなり、両者からある程度の距離を保てば日常生活に支障をきたすことがなくなる。逆に、被害者孤立型→加害者孤立型への移行は困難である。被害者が孤立しているため、当事者以外への波及がない。被害者自身による周囲へのアピールが必要であり、状況の深刻さがわかりやすい形で第三者に提示される必要がある。
中学校でのいじめは、当事者(加害者/被害者)とそれ以外(傍観者)が分断される。いじめが深刻化するのは、こうした集団の変化が原因である。加害者が孤立している場合はいじめが収束しやすいが、被害者が疎外されている場合は深刻化しやすい。いじめが見えにくく、当事者以外の者が状況の深刻さを把握することが難しい。加害者の変化、被害者の第三者に向けた強いアピールがなければ事態は収束しにくい 。


●小学校から中学校への移行期といじめ構造の移動経路
小学校時にⅠ象限(同調的加害者、いじめる子B2)は、スケープゴート型の場合は傍観者に移る。娯楽としていじめに参加していた者たちが無関心な傍観者に代わることにより、スケープゴート型が分断型に以降する。ヒエラルキー型における同調的加害者で会った場合は、継続して分断型の加害者層に残る。Ⅱ象限(いじめる子B3)は、意識的にいじめに関わりをもたないように努める。Ⅲ象限(傍観者D)では、均衡型に分類されたものがそのまま残る。Ⅳ象限(観衆C)で、スケープゴート型に属していた層も分断型の傍観層に移る。
つまり、小学校→中学校の移行期に、スケープゴート型、均衡型における率先的加害者(いじめる子B1)、ヒエラルキー型における加害者層がそのまま加害者となり、スケープゴート型における観衆(C)は傍観者(D)となり、その他の傍観者も継続して傍観的態度を取り続ける。
傍観者は、加害者、被害者双方に対して批判意識を持つようになるが、加害者層には意識の変化は見られない。傍観者との分断が生じることで行動の客観視ができず、エスカレートし、加害者側の収束がない限り、事態は深刻化する。卒業が近づいたので馬鹿な真似はやめようと思った、などが加害者の収束要因となっている。傍観者の関心がなぜなくなるのか、ではなく、加害者の関心がなぜなくならないのか、が課題となる。


●現代のいじめの特徴
現代のいじめの特徴として、(1)集団で一人をいじめることが多く、集団の中も階層化している、ことが挙げられる。大河内君の事例では、12名のいじめグループの中でも、主犯格の4人、積極的にいじめに加担した数名、その遊び仲間という序列ができていた。大河内君は、遊び仲間のグループに加わっており、一緒に遊ぶことのできる仲間(プラスの感情)と、いじめられる(マイナスの感情)という両面的な感情を持っていたと考えられる。また、いじめグループのリーダー格を除いては、被害者と加害者が状況によって逆転する。(2)いじめの手口が巧妙で、教師や大人の目の届かないところで行われる、(3)いじめ方が執拗で陰湿化している、(4)歯止めがきかず徹底的にいじめる、という特徴もある。


●「いじめ」問題の扱われ方
1986年「葬式ごっこ」(東京中野)や94年O君事件(愛知県・東部中)のセンセーショナルな報道を通じて問題視される 。
「いじめ」がどのように語られるようになったかを研究する間山(2002) は、「いじめ」は昔からあったのではないという。昔からあったのは「犯罪」としての恐喝や、「ささいなこと」として考えられていた無視や悪口であり、これらは「いじめ」ではない。「いじめ」というカテゴリーが新しくできたという立場を取る。
「いわきいじめ訴訟」(福島地方裁判所いわき支部 1991[1990年12月26日判決])は日本の裁判史上はじめて「いじめ自殺」に対して学校の過失責任を認めた判決であると同時に、「いじめ自殺」者本人に、自らの命を守る手立てを尽くす義務が果たされなかったという過失を認めている。この判決を分析した山本(1996) は、「子どもを大人によって守られ、解釈されるべき存在へと押し込め」るという社会から、「子どもを命の最終責任者として、判断し、表現し、行動する主体へと位置付け直している」と解釈した。そして、「いじめ=(苦痛→死)」という語られ方が作られてしまったことが、いじめ被害者自身が死を正当化する根拠となっているとし、これを差別の語られかたにつなげて、被害者が差別の告発者となることを正当とする社会が必要だと言う。つまり、「いじめ」と「自殺」の結び付きを加害者、被害者、傍観者、社会の様々なレベルで切り崩すことが、「いじめ自殺」被害者を根絶することにつながると考える。「いじめを受けたから自殺しなくてはならない」という意識を転換させる意図がそこにはある。

●学校の対応
いじめ問題の事例を収集し検討する酒井(1995)は 、1984年、愛知県瀬戸市の中学2年男子生徒の首吊り自殺と、1994年のO君の事件の対応が似ていることを指摘している。学校は最初「いじめはなかった」と否定し、その後、詳細な遺書などの資料が残されていることが判明し、いじめによる自殺であることを認めるという形である。O君事件のとき、校長は自殺に至る様々な原因のうちの一つにいじめがあったことは認めつつも、「自殺の引き金は、前夜や当日の朝、お父さんが厳しくしかりつけたり、さとしたりしたことなど(いじめとは)別にあると思う。」と付け加えている。


  社会問題として取り上げられることで様々な機関が動く一方で、地元のイメージが悪くなり高校推薦に影響がでる、と遺族を責める保護者もいた。

参考)


  酒井 亮爾,1996,「学校におけるいじめ自殺―1995年の場合」『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 』11, pp.197-228。

1994年文部省「生徒指導上の諸問題の現状」。

   橋本摂子,1999,「いじめ集団の類型化とその変容過程―傍観者に着目して」『教育社会学研究』第64集,pp.123-142.

  文部省初等中等教育局「生徒指導上の諸問題の現状と文部省の施策について」(1991年/複数回答)

  酒井 亮爾,1995, 「学校におけるいじめとその対処法に関する一考察」『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要』 10, pp.230-260

   加害者に着目したいじめ集団類型として、迫田 真由子, 2000,「第4章 加害者に着目したいじめ集団類型」『学校臨床研究』 1(1),pp. 31-37、がある。

  間山広明,2002,「概念分析としての言説分析-「いじめ自殺」の<根絶=解消」へ向けて」『教育社会学研究』第70集,pp.145-163。

  山本雄二,1996,「言説的実践とアーティキュレーション」『教育社会学研究』第59集,pp.69-88。 判決は学校に3割、家族に3割、自殺者本人に4割の過失を認めている。


土曜日, 7月 14, 2012

看護専門学校 教育学 授業アンケート結果


実施:2012年7月3日 13講目 1~12講を対象 36名 
スケール:1:面白くなかった 5:面白かった 1:役に立たなかった 5:役に立った




    面白かった   役に立った   合計  
    平均 標準偏差 平均 標準偏差 平均 標準偏差
1 1.オリエンテーション  ヒーローインタビュー 3.5 1.0 3.1 1.0 6.1 2.4
2  チーム作り 3.5 1.0 3.2 1.1 6.3 2.3
3 2.教育学とは何か  教育学とは何か 3.0 1.0 3.1 1.0 5.7 2.3
4  1年生に伝えたい歌 3.7 1.4 2.6 1.1 6.0 2.6
5 3.教育とは何か  教育とは何か 2.8 0.9 3.0 0.9 5.2 2.4
6  自校の教育理念を探す 3.0 1.2 3.0 0.9 5.8 2.1
7 4.学校とは何か  学校とは何か 2.9 0.9 3.0 1.0 5.3 2.6
8  学校のメタファー(例) 3.1 1.2 2.9 1.0 5.4 2.5
9 5.リフレクション  子ども観 2.9 0.8 3.1 1.1 5.4 2.4
10  クイズを作る 2.9 1.2 3.0 1.0 5.8 2.1
11 6.学びの空間のデザイン  学びの空間のデザイン 3.7 1.2 3.3 1.2 6.4 2.9
12  デザインしてみよう 4.2 1.1 3.4 1.1 7.4 2.0
13 7.学ぶということ  学ぶということ 2.9 0.9 3.2 1.0 5.6 2.4
14  スキットの脚本づくり 3.0 1.1 3.1 1.1 6.1 2.1
15 8.学習の過程と形態  学習の過程と形態 2.9 1.1 3.1 1.1 5.4 2.7
16  スキットの発表 3.1 1.1 3.2 1.0 6.3 2.0
17 9.省察的専門家像①  省察的専門家像 2.8 1.0 2.9 0.9 5.6 1.9
18 10.省察的専門家像②  学びの共同体 3.2 1.1 3.2 1.1 5.8 2.6
19  ディベート 1年制 3.4 1.1 3.4 1.1 6.6 2.3
20 11.リフレクション  教育相談 3.1 1.0 3.3 1.2 5.7 2.8
21  ディベート 学校選択 3.5 1.1 3.4 1.1 6.7 2.4
22 12.リフレクション  子どもの学習と参加 3.3 1.0 3.3 1.1 5.8 2.8
23  ディベート 留年 3.5 1.1 3.5 1.1 6.9 2.4
合計   69.1 21.4 68.3 21.4 137.4 42.2
平均   3.0 0.9 3.0 0.9 6.0 1.8




l  合計点の高かったセッションは、デザインしてみよう、ディベート留年(3グループ)、ディベート学校選択(代表チーム)、ディベート1年制、学びの空間のデザイン、チーム作り→「学びの空間のデザイン」「ディベート」「チームづくり」を時間かけてする
l  合計点で標準偏差が大きかったのは、学びの空間のデザイン、教育相談、子どもの学習と参加、1年生に伝えたい歌、学校とは何か、学習の過程と形態→二極化しているのでやり方を見直す
l  合計点の低かったセッションは、教育とは何か、学校とは何か、学校のメタファー、学習の過程と形態、学ぶということ、省察的専門家像→テーマの見直し
l  面白かったと役に立ったはほぼ連動。面白さが勝っているのが、デザインしてみよう、ヒーローインタビュー。役に立ったが勝っているのが教育相談、子ども観、学ぶと言うこと、学習の過程と形態。
l  満足度の高かった学生の意見(1年生に対してどのような教育学の授業を行うか)は、「ストレスの発散方法」「看護学校における男女の役割」「勉強をなぜ行うのか」「看護学校に入って苦労したこと」「学びの空間のデザイン」。満足度の低かった学生の意見は、「現実問題になっている不登校とかいじめ」「コミュニケーションの確立→ロールプレイ」「大学などの教育学部での授業の雰囲気」「患者さんへの教育方法」「教育学の歴史や考え方を講義しわかりやすく解説をする。グループワークはディベートやスキットの目的をしっかり理解した上で行ってもらう」→残り2回でできるだけフォローし、次回のカリキュラムづくりに反映させる。



(自由記述意見 合計満足度の高い順)


  218
 ストレスの発散方法・・・グループワークを行い体験談を話し、クラスで情報を共有する 206
 看護学校における男女の役割についてもっと話しを聞いてみたかったです。 192
 勉強をなぜ行うのか。勉強するとなぜよいかを考え、利点を述べ、分かりやすくプリントにまとめる。 189
 看護学校に入って苦労したこと、楽しかったことについて。グループワーク。 181
 学びの空間のデザインを私たちがやったように1年生にもやってもらったら楽しいと思います。 180
 基礎の大切さ 179
 学びの空間のデザインが楽しかったので「学びの空間~」をする 168
  166
 様々な意見に耳を傾け視野を広げてほしいので私は「授業は黒板に板書するか、パワーポイントを用いる」などのようなテーマでディベートを行いたいです。 165
 ディベートを行い、重要か重要でないかを一人一人が知り、理解する 163
 毎回グループのメンバーを代えて授業を行い、現在の社会で挙げられている問題をディベートやクイズを通して生徒達主体で行う。 159
 ディベートするのは楽しかったが考える時間をもう少しほしかった。 156
 学びの空間のデザインを取り上げ、みんなで実際にやってみる! 153
 効果的な教育指導方法→言葉の選び方、話しの運び方など体験 楽しく学べる工夫→実際にパンフレットとか作ってみる 153
  149
  148
  142
 患者への生活指導。教育学的に効果的な方法、指導方法を学ぶ。グループで実際にやってみる。 139
 教育学に対してまだ自分が解っていないのでできないです。 139
 1年制について 138
 教育学とは何か?の講義と様々なテーマのディベートを行う。 136
 みんなで考え、作っていく作業。他の人の意見や考えを聞くことのできること。もっと学生ならではの「あるある」を※、教育を身近な言葉で理解してもらえるような授業。 130
 教育学とは何か→なるべく簡単な言葉で説明する。 128
 看護学生は教育を受ける側ですが、患者さんへの生活や健康の教育もできるようにならないといけません。教育する方法やどう教育を受けるか、その姿勢や工夫について考えさせます。 127
  126
 「学びの空間のデザイン」 自分達がやったように全員が意見を出し合い色々なデザインや発送があることを知ってもらう。 123
  100
 教育学の歴史や考え方を講義しわかりやすく解説をする。グループワークはディベート、スキットの学びの目的を理解した上で行ってもらう。 92
 学びの空間のデザイン、理想の学校風景を書いてもらう 86
 子どもの教育について、学校制度について 84
 患者さんへの教育(指導)方法 82
 大学などの教育学部ではどのような授業をしていたり、雰囲気や様子を知りたかったのでそのような講座を一コマ設ける 72
 コミュニケーションの確立→ロールプレイ 67
 現実問題になっている不登校とかいじめとかをテーマに学ぶ。小児や母性看護につながるから。 61
  50

学校の中のジェンダー


第一問、グループで「女らしさ」について考えてみてください。

男性チームは最後に発表してもらいましょうか。

→女らしさ:やさしさ、料理、家庭、おしとやか、グループ、髪ながい、化粧、縫物、ハンカチ、いい香り
(男性チーム):上品、几帳面、スカート、ブラジャー

女性の考える女らしさと男性の考える女らしさには少しづれがあるようですね。

男らしさ、女らしさとはいつ頃から言われ始めたと思いますか。皆さんもしっているナイチンゲールは、1881年の講演ですでに「看護に重要なのは女らしさ」と言っています。この女らしさとは、もの静かで、優しく、辛抱づよく、許すこと、だと言います。

これは、18世紀のブルジョワジー、中産階級に広まった考えで、いわゆる良妻賢母というものですね。その背景には、お父さんとお母さんが一緒に仕事をする家内生産から、お父さんが別の場所に働きに行くようになったと言う産業社会の影響もあります。日本では大正期にこうした考えが紹介されたようです。

では、第二問、学校で男、女を感じるときはどのような場面ですか?ちなみに、中学、高校は共学校でしたか?(全員が共学。一人が男女別クラス。)

→卒業アルバムの委員が全員女子だった、テントは男がつくる、体育は男女別

体操服はどうでしたか?

→男女同じ

制服は、学校で男女を分ける最たるものだと思います。明治30年ころに「女学生」という言葉が出始めましたが、これは中流階級の活発な娘さんを象徴する言葉でした。大正期には、女子体育でより機能的な衣服が求められブルマが取り入れられました。つまり、女子学生の制服は、活発で機能的な身体性を表現していると言えます。同時に、清楚、女性らしさの象徴であり、まなざしの可視化であったと言えます。このように、衣服や体育など身体に関することがらと、ジェンダーはとても強く結び付いています。看護師についても同様のことが言えるかもしれません。戴帽式の時、男子はナースキャップを女子と違った付け方をしていましたね。
ジェンダーとは、もともと文法用語でしたが、1960年代、アメリカで始まった第二期フェミニズム以後、生物学的な性差を指すセックスに対し、文化的・社会的に作られ意味付けられた性差を示す用語として用いられました。それまでは、セックスという言葉しかなかったため、生物学的性差と性役割は切り離せないものとして認識されていました。例えば、「出産するのは女性だから、女性が育児をするのは当たり前だ」というように、生得的な性差によって、特定の性役割を担うことが「当然」「自然」であるとみなされる、ということです。しかし、「男らしさ」や「女らしさ」とうのは、学習によって習得されていく、と考えられました。これを性の社会化といいます。「~らしさ」というのは、「医者らしさ」「看護師らしさ」「教師らしさ」など社会的カテゴリーと結びつけた職業人像を指すときにも使われます。「男らしさ」「女らしさ」が取り上げられるのは、あらゆる日常生活場面の隅々に浸透しているからです。

では、第三問、男、女で損したと感じる場面はありますか。

→家事、門限、痴漢、お金かかる(化粧、服)
(男性チーム)レディースデイ、力仕事、プロポーズは男から。

女性が損していることを最もよく表しているのが賃金ではないでしょうか。日常生活の中で見えやすい性差別は、男女間の賃金格差や就労形態の違い、管理職の割合の格差などが挙げられます。古いデータですが、平成15年の男性賃金を100としたとき、女性の賃金は68程度しかありません。つまり、男性が30万円もらっていたとしたら、21万円程度しかない、ということです。スウェーデンは91.2、オーストラリアで88.5と、日本はまだ賃金格差が大きいと言えます。それは、女性に昇進機会が少ないことにも影響し、「ガラスの天井」と呼ばれたりします。しかし、家庭や職場、政治の領域で男女平等になっていると答える人が2割から4割であるのに対し、学校については65%以上と高くなっています。しかし、実はそこに隠れた男女意識の刷り込みがあり、それが男女性差の再生産につながるのではないか、と指摘されるようになりました。
例えば、高校受験についてみると普通科は男女数がほぼ均衡しますが、工業高校や水産高校には男子が、商業高校、家庭科、看護科、福祉科には女子が多いというパターンになっています。大学の専攻では、社会科学(1993年18.7%→2003年30.7%)や農業(29.9%→41.3%)、保健(42.7%→56.9%)の分野で女子学生の割合が増え、一方で家政学で男性(6.3%→10.3%)が増えるというように性別役割の流動化も見えますが、大きな傾向として人文科学、教育、家政学、芸術の学部に女子が多く、工学、商船、理学に男子が多くなっています。
また、教員についてみても、学校段階が上がるほど女性の比率が下がります。幼稚園教諭の98.4%が女性、小学校教諭では65.1%ですが、中学校では40.3%、高校では25.1%、大学では13.2%となります。これは、子どもに対するケアを施す仕事を女性が希望した結果です。このように、気づかない内にジェンダーに適した生き方が提供され、それを自分のなかに組み込まれているのはなぜか、それは学校教育のなかでそうした意識が形成されるからではないか、と関心を寄せるのが学校におけるジェンダー研究と言えます。
(住田正樹・田中理絵「12ジェンダーの世界」住田正樹・鈴木晶子『教育文化論-人間の発達・変容と文化環境』放送大学教育振興会、pp.187-198)

(学校生活の中で感じる性役割について考える)

1990年代半ばごろからジェンダーの視点によって学校を見なおそうという動きが活発化しました。ジェンダーバイアスの是正が試みられたわけです。学校における性の不平等、性役割の固定化/分別化、男子優位主義、などです。それは、どのような言葉づかいをすべきか、とか、偏見や差別を取り除くべきだ、という視点よりは、それがなぜ生み出されるのかというメカニズムを明らかにする視点を取ります。例えば、子どもとの関わりにおいて性別はどのように捉えられているのか、また性別によって子どもに対してどのような対応をしているのか、性別によって子どもをどのような方向へと導いているのかなどのメカニズムを明らかにすることなどです。
ここで、ジェンダー問題が教育問題として、いじめや不登校、学級崩壊などが「問題である」とされることとは異なるイシューであることを考える必要があります。学校という場では、まず問われるのは解決の緊急性です。いじめや非行が問題として注目されるのは、それらが人を傷つけると判断されるためです。また、それが外から見てもわかりやすいからです。
また、男女平等教育との違いも混同されがちです。例えば、男女混合名簿を導入するということと、更衣室も一緒にすることを一緒に考えるべきなのか。それぞれの意図は何なのか。ジェンダーという言葉がなぜ必要になったのか、どのようなことが問題で何を考えなければいけないのか、が不明瞭であるために「問題」として取り扱われにくいという側面もあります。男女平等教育は、男女共同参画社会の実現に向けた行政主導による規格化された問題領域、ということができます。それは差別の撤廃を目的としており、実践としてもわかりやすい。一方で、ジェンダー問題というのは、ジェンダーを考えることで、これまでに見えなかった学校教育の問題点や課題を考えること、が目的とも言えます。これは、多文化共生、というアプローチでも同様のことが言えるかもしれません。
例えば、委員会活動で性役割が固定されていなかったか、家庭科の授業の中でどのような性役割が暗黙の内に設定されていたか。ジェンダー問題を考えることで、何が問題と鳴っているかを発掘し、問題とするのかと同時に、ジェンダー関係の変容自体が目標となります。この点が、問題を解決し、問題を消滅させる、ということを目標とする他の学校問題と異なります。
例えば、男女混合名簿、下駄箱や教室内表示における色分け、「さんづけ」の徹底、学内行事における男女別のグループわけなどの見直しは、その「当たり前」を見直すことでこれまで「女/男」という境界線をどのように使用していたのかを意識化することにつながります。通常、そうした「性」は学校の中で慎重に扱われ、表にでることがありません。しかし、授業中に男子がよく発言するクラスで「女子も元気出して」と声をかけたり、「そこの男の子たち静かにしなさい」と注意したり、生徒には「これはしてはダメだ」と注意しておきながら、後で同僚同士では「この時期の男の子だからしかたがないんですけどね。」と話したりする。こうして、教員には「性」がハッキリ意識されていることもあります。
そして、教師もまた「性」役割のイメージを押し付けられる対象でもあります。
小中学生を対象とした調査では、「男・女に生まれてソンをした」と感じるのは、「学校で感じる」方が「家庭で感じる」よりも比率が高かったそうです。
(吉原恵子2003「14学校のなかのジェンダー問題」苅谷剛彦・志水宏吉編著『学校臨床社会学―「教育問題」をどう考えるか』放送大学教育振興会,pp.203-220)

木曜日, 6月 28, 2012

子どもの学習と参加の権利 シティズンシップ教育と関連して 説明


1989年の国連総会で採択された「子どもの権利に関する条約」がこのユニットのポイントの一つですね。それは、①法的効力を有していること、②開発途上国やマイノリティに対する現状とニーズを考慮していること、③権利行使の主体としての子どもという子ども観を打ち出していることが画期的と書かれています。
もう一つの大事なポイントとして、「参加のはしご」が紹介されています。これは、参加の段階をわかりやすく示していますね。あやつり、お飾り、名目のみ、という非参加の段階があって、次に、大人から役割を与えられ情報を与えられるという段階、大人から相談され情報を与えられるという段階、大人が主導し、子どもと共同決定するという段階、子どもが主導し、大人に指導されるという段階、子どもが主導し、大人と共同決定するという段階が示されています。

みなさんの中学校、高校では生徒会はどのような活動をしていましたか。また、それは、どの段階に位置づくと思いますか。

社会とどのように関わるかということは、教育の位置づけにおいてとても重要なことです。教科書では参加民主主義の方向性でシティズンシップを育成しようとしている、と書かれていました。シティズンシップとはどのようなことなのでしょうか。

シティズンシップとは、もともとは、17世紀、18世紀に国家の主権者としての市民層をあらわしていましたが、その対象は一部の成人男性に限られていました。それは、個人の自由をあらわす市民的権利から、19世紀の参政権や政治参加を表す政治的権利を経て、20世紀の副詞国家段階における社会的権利へと発展してきたといわれます。しかし、1960年代末から、福祉国家的な政策に対する批判が強まる中で、シティズンシップの理念が動揺し始めます。というのも、市場原理を再評価し、平等よりも卓越性を重視する視点と、共同体を再評価し、個人の権利よりも個人が貴族する共同体への義務や責任を重視する視点があったからです。この二つの視点は時に対立します。
ハーバード白熱講義という番組でマイケル・サンデルさんが有名になりましたが、この人はジョン・ロールズという人の書いた「正義justice」を再解釈した話しをします。それを、現代風の事例をとって、わかりやすく説明しているのですね。例えば、イチローは年間何億というお金を稼いでいるが、それはすべてイチローが個人的に使うべきである、とかいうものです。
こうした二つの対立する視点を克服する「第三の道」という考えが90年代から現れ始め、アメリカやイギリスの政治で語られるようになりました。それは、個人の権利と平等という考え、市場と共同体の再評価という視点を融合していく考えです。それは、新しいシティズンシップ像を示すものではなく、模索するものです。その一つの事例として、チャータースクールが挙げられます。
チャータースクールについては、194ページにかかれています。ちなみに、前回行った学校選択については、189ページに書かれていますので、また目を通して頂きたいと思います。チャータースクールは公費によって運営され、教育委員会の規制を受けない公設民営の公立学校と書かれています。特に、マイノリティや移民などのニーズに応えて作られた新しい形の公立学校であるということです。したがって、理念的にはという注釈が必要ですが、単なる教育の市場化、民営化ではありません。これは、アメリカの共和党、民主党のいずれからも支持されました。共和党は個人の権利や市場(規制緩和・分権)、民主党は平等性や共同体を支持すると分類できますが、どちらの党からも支持されるということは、こうした考えの対立を克服する象徴としてチャータースクールが位置づいているといえます。しかし、それは、顕在化しなかった問題を浮上させることにもなりました。チャータースクールのチャーターは許可する、という意味ですが、それはこれこれこうした成果を挙げるという契約のもとに成り立ちます。しかし、教育上の成果を説明することは難しいです。また、教育委員会からみて成功していないと思われる学校も、その学校に対して影響力を行使しているマイノリティの有力者や政治勢力との関係で、閉校の措置をとることができないといいます。つまり、チャータースクールは、アイデンティティ・ポリティクスの舞台となっているといいます。アイデンティティ・ポリティクスとは、簡単に言えばそれぞれの立場の正当性を主張するための政治的行為といえるでしょう。このことは、多文化教育のユニットを読むと、より深く理解できると思います。つまり、ここに見られるように、第三の道とは、規制の緩和によって、それまで封印されていたアイデンティティ・ポリティクスなどの政治問題が噴出し、政治的相克が顕在化していく可能性が含まれるということです。
したがって、シティズンシップの教育を問うとき、そこには二つの課題があると考えられます。一つは、国民国家への帰属をあらわす近代的シティズンシップの概念を批判し、その組み換えが求められているという課題です。これまでにも何度か触れましたが、教育とはもともとは国民を育成するための営みでした。エバンゲリオンのアスカの例で説明しました。しかし、80年代ごろから、啓蒙主義的進歩史観的な教育、つまり教師は新しい社会の伝達者であり、子どもは歴史の進歩の担い手という関係で営まれる教育のあり方が揺らいでいる、と話しました。もう一つの課題は、そうした近代的シティズンシップを批判しながらも、新しいシティズンシップの可能性を模索しなければならない、ということです。つまり、シティズンシップの教育について考えることは、近代教育思想を批判的に問い直すことだということです。では、学校をどのような場として位置づければいいのか。一つの考えとして、学校を社会の批評空間とする、という考えがあります。つまり、具体的な社会問題に対して、様々な意見や立場があることを踏まえた上で、社会問題を判断する能力や他者の立場を理解する力を養う、ということです。
(上記説明の多くは、小玉重夫2003「シティズンシップの教育思想」白澤社,pp.11-20,p.160から引用しています。)
これまでに、ディベートの時間を設けてきましたが、これもそうした考えに基づくものです。福井県のおおい原発の再稼動が決まりそうです。この問題に対して、どのように参加してきたのか、どのように判断してきたのか、そうした参加や判断の質を高める役割を、今、学校は担っているといえます。

水曜日, 6月 13, 2012

教育相談 説明


教育相談 説明

確認問題

1 学校教育の現場で教育相談活動の重要性が認識されてきたのはなぜだろうか

1980年代以降、いじめや登校拒否などの問題が深刻化していく中で、教育相談へのニーズが急速に高まった。多くの学校では保健室が居場所や相談室の機能を果たしていたが、生徒指導の一環として相談活動の充実が求められるようになっていった。(110字)
第一に子どもの状況の変化が考えられる。人間関係を調整する能力を衰退させ、ストレス耐性の低下したという変貌が要因といえる。第二に成熟社会への以降に伴い、価値観やニーズの多様化が進んだことが挙げられる。個性化と個別化が望まれる時代環境にマッチしたことが要因といえる。また、80年代以降に顕著となった学校の生徒指導がもつ強制性に対する教師の信念のゆらぎにも要因の一つといえる。(183字)

2 カウンセリングの知や技法の特徴を整理してみよう

比較的多くの教師たちに学ばれたC.R.ロジャーズのクライエント中心療法の特徴は、人間は誰もが自ら成長し自己実現をしようとする性向を本質的にもっており、心理臨床の技法はこのことへの徹底した信頼に基礎を置くべきだとしている点にある。助言や指示の多かった従来のカウンセリングを改め、非指示的カウンセリングを提唱し、クライエントの「あるがまま」を受け入れ、共感に貫かれた態度で臨むことを極限まで強調した。(195字


① 治療契約 クライエントが自身の石で治療者であるカウンセラーと治療の契約を結ぶ。その上で対話的な面談が進められていく。
② 非日常的な場、許容 そこには日常から隔絶された場と時間が用意される。その中で日常生活では不道徳とされる欲望や行為、特定の人物への怒りといったことが自由に語られることが許容される。
③ 覚醒、葛藤の意識化 そうした場と時間のなかで、クライエントは自身の心的葛藤の意識化を行っていく。無意識の中にしまいこまれた受け入れがたい心的苦痛や怒りなどを呼び覚まし、自覚的に内面的な生活史の再構成を行っていく。
④ 傾聴、支援、対話 その際、カウンセラーは中立的・受動的な立場を持ってクライエントの語りに耳を傾け、彼(女)の気づきと改善を見守りつつ支援していくという態度を取る。支援に当たっては、クライエント自身が問題についての「直面」「明確化」「解釈」の遂行をうながすための、専門的知見に基づいた対話的な技法が用いられる。

3 生徒指導へのカウンセリングマインドの導入は、子どもたちに何をもたらしたのだろうか

カウンセリングを基礎づける臨床心理学は、教師たちに現象学的な人間理解の重要性を示す。つまり、先入観や理念的判断を一度脇に置き、対象の内的な意味世界を理解することを促した。カウンセリングマインドに基づく受容と共感のアプローチは、子どもの行動という表層に現れた問題に対し、規範で裁くような態度を戒め、そうならざるを得なかったその子の内的な意味世界を肯定する受容的態度や、同伴者となろうとする支援的態度を取る教師により、より複雑化した共同体の中で生きる子どもを支援すると期待される。(238字)

4 学校教育の現場に心理臨床のアプローチを根付かしていく際の困難はどのような点にあるのだろうか

たとえば、評価権を保持する教師を前に、子どもたちはカウンセラーに対するクライエントのような構えがとれるのか、守秘義務について子どもや保護者がどこまで教師を信頼できるのかという問題がある。そもそも非日常的な治療の場で行われる相談のための知見と技法が、学校教育という児童・生徒にとっての日常の場に持ち込まれる点に困難がある。1995年から派遣されるようになったスクールカウンセラーについても、個人の治療を目的とするカウンセリングのアプローチと、集団的な指導を目的とする教育のアプローチという次元の違いを踏まえた相補的関係の有り方や、協働関係に関する困難もある。(278字)

学校選択制度に関するディベート


学校選択制度について

概要
80年代の米英のサッチャー政権、レーガン政権の元で進められた教育水準の向上を目的とする公立学校改革が始まり、財政悪化への対応と行政・公共サービスの効率化・質改善を目的として市場的競争原理が導入された。

定義
 狭義では、義務教育段階で使用される。義務教育段階では、自治体内に複数の学校がある場合、教育委員会が就学予定者の保護者に対し、就学すべき学校を指定する仕組みが設けられている。その際に、就学予定者の保護者から、あらかじめ子どもを就学させる希望校を聴取し、その申し立てを尊重して就学指定する仕組みが導入されるようになり、それを学校選択制と呼称している。就学希望を表明する方式には、自由選択制、ブロック選択制、隣接校選択制などがある。(『教育学用語辞典』学文社2006年)

ディベートテーマ:小中学校で学校選択制度を導入すべきである。

肯定
【現在のシステムの問題】日本の公立学校教育(制度)は、「中央集権的な教育行政」や平等主義・官僚主義・専門職手技によって管理・運営されてきたために画一性・硬直性・閉鎖性といった弊害を抱えており、多様化する子ども・保護者のニーズ・要望に適切に対応することができず、しかも、個々の学校の「創造的な教育実践」や「改革の努力」を妨げている。
【問題を解決するシステム】そうした公立学校の画一性・硬直性・閉鎖性を打破し、各学校の想像的実践や改革努力を誘発・促進する、その触媒・メカニズムとして学校選択性が必要である。
【モデルの類型】学校選択制には、保護者を公教育の消費者とみなし、学校間の競争と市場メカニズムによって公立学校の改善・活性化が図られるとする市場的競争モデルと、教職員・教育行政当局・保護者・子ども・地域住民といった「様々な関係者の力と働きを再統合する場として学校を再構築」しようとする抑制・均衡モデルがあり、後者が必要である。
【先行事例】ニューヨーク市で推進されたスモール・スクール(小さな規模、自発的に参加する教職員のチームワーク、実質的な学校自治、発案者がリーダーとなり教職員を募ってチームをつくり、保護者は普通の公立学校に行くかスモール・スクールに行くかを選択できる)の創造的な実験による公立学校の革新が必要である。

否定
【序列化】学校の序列化を招き、それは学校の人気(志望倍率)やその人気を左右する特定要素(例えばテスト成績・進学実績や逸脱的問題のない落ち着いた学校かどうか)といった一元的尺度や学校の立地環境といった、学校がコントロールできない要因に基づきがちとなる。それは、学校教育の包括性・総合性が低下し歪むというモラル・ハザードを起こし、学校の格差化と閉鎖性・社会的排除性を強める。
【想定モデル】市場的競争モデルと抑制・均衡モデルは理論的には区分可能であっても、改革・施策を主導する各種審議会や政治勢力のプランは市場的競争モデルを想定しており、抑制・均衡モデルの実現可能性は乏しい。
【学習指導要領】「公共の形成」を課題とする義務教育は学習指導要領に基づき共通基礎教育を提供しているため、選択に値するほどの違いはありえない。また、公立学校制度は学校間に違いがないことを建前とするため、多様な選択肢といっても、それは多様性ではなく格差となる。
【利点の根拠のなさ】教育の自由化論者は、学校選択を自由にすれば学校教育が改善され、教育荒廃がなくなり、受験競争が緩和され、個性や創造性が育成され、財政支出が削減され、家計負担が軽減され、教育の機会均等化に役立つというが、それらの利点には実現に制約があり、むしろ家計負担の増大と低所得層の教育機会の劣化、選択機会の縮小・格差を招く。
【市場モデルが機能しない理由】選択制になれば公立学校も生徒集めに努力するから、どの学校も良くなるというが、その主張は、保護者・子どもは「よりよい教育(サービス)」(学校・教育の実質的価値)を求めて学校選びをすることを前提としている。しかし、その実質的価値は選択時点・入学時点では未完の価値(未完成品)でしかなく、しかも、入学した子ども(や保護者)の資質・能力や学業・学校への関わり方などに左右される。この2点で、学校という商品の市場は一般の商品市場と大きく異なる。
【多様な選択肢の実態】義務教育段階の教育は、上級段階の学校への進学準備という構造的特徴を持っているから、教育内容面での多様化・差異化には限界がある。したがって、多様な選択肢を提供するといっても、それは格差化・序列化となる。
【学校選択制度以外の方法】学校選択制を導入しなくても、学校ボランティア制度、学校評議員制度、学校運営協議会制度など、「開かれた学校づくり」政策として促進・奨励されており、積極的な改善努力を推進する学校・地域も増えている。
(上記の肯定/否定の意見は、藤田英典「第Ⅲ部 学校選択制・民営化と教育機会 解説」藤田英典・大桃俊行編著『リーディングス 日本の教育と社会11 学校改革』pp.199-207、2010年.から引用しています。)

参考データ:嶺井正也・中川登志男著『学校選択と教育バウチャー 教育格差と公立小・中学校の行方』八月書館、2007年
東京都、埼玉県、広島県での実施数の多さが目立つ。10~50万人程度の市での導入可能性が高い(p.9)。/京都内の学校選択制度を導入した自治体の2つの中学校を2002年~2005年で比較すると、人気校には所得階層の高い家庭の子どもの学区外からの流入が多く、不人気校に残るのは所得階層の高くない家庭の子どもが多い。(p.104)

水曜日, 6月 06, 2012

教職の専門職化 説明


教職の専門職化 説明

175ページのしかし、逆接の接続詞の後には強調したいことが言われるのですが、
そこで開放制を原則とする教員養成及び教師教育の在り方は、いま大きく問い直されている、と書かれています。日本で教員になるためには、一定の単位をとって、教育実習に行って、都道府県の採用試験を受ける、という流れを取ることが多いです。この単位を認定する際に、できるだけ幅広い人材を集めようという趣旨で作られた制度が開放制で、法学部などでも教職に必要な単位が取れるのもこうした制度があるためです。戦前は、師範学校と呼ばれる学校でしか教員免許が取れませんでした。そうして養成された教師が批判的視点を欠いていた事が、戦中の教育に影響したという考えも、開放制の採択に影響しているといわれます。アメリカも開放制をとっていますが、国によって異なります。それは、教師の専門性をどのように定義して、どのように担保しようとするのかという考え方を反映します。大学院修了をその要件とする、という考えもその一つです。教員の免許更新制がたびたび新聞で取り上げられますが、これは日本において教職の専門性をどのように担保するのかについて考え直そうという動きを反映しています。ただし、教科書でも触れられていますが、その内容については十分に議論されているとはいえません。その背景に、日本の教職は専門職とは言いがたい状態にあることが影響していると書かれています。では、看護師は専門職とみなされているのでしょうか。また、それはどのように定義され、どのような教育をもって担保されているのでしょうか。
<新人看護師研修ガイドライン>

専門職とは何か、というところで触れられる要件は重要です。①職務遂行に高度な知識及び技術が要求されること。②そのために長期間の専門的教育が必要とされること。③私益よりも公益を優先して職務に当たること。④そのために職能集団を結成し専門職としての倫理要綱を持つこと。⑤職能水準の向上のための自主的な研修の機会を恒常的に持つこと。⑥これらが社会的に承認され、職務遂行上の大きな裁量を元とする自律性が保障されること。

教師の専門性の高度化という流れは20世紀後半以降の新しい課題であると書かれています。ユネスコとILOにより共同採択された「教員の地位に関する勧告」(1966)が世界的な動きを作り出した、と書かれています。そこで教材や教育方法の選択の権限を教師に認めるべき、という教師の教育権が主張されました。そして、30年後の1996年に、新たな勧告がまとめられています。そこでは、市民との協働と教師の政治的コミットメントについての勧告がされています。すなわち、が出てきていますが、教育をめぐる多様なニーズやビジョンの調整着になるべき、と述べられています。

新自由主義の行財政改革とありますが、ここを簡単に紹介するのは、少し私の力量では難しいのですが、教育改革について言えば、日本では1984年から1987年まで中曽根総理の諮問機関として設置された臨時教育審議会が推進したといわれます。それは、教育の自由化、教育の個性化という原理を提唱し、学校設置主体の多様化、学校選択の自由を提案していました。多様な欲求を満たしやすい市場を学校教育に導入することにより、子どもの個性や親の希望に応じた教育を実現すべきだ、というのがその主張です。しかし、小渕総理の私的諮問機関として設置された教育改革国民会議意向では、グローバル競争で勝つことのできる人材養成という目的が前面に掲げられ、国家の設定したスタンダードに基づく評価(学力テストの実施)、学校をめぐる競争的環境の形成(学テ結果の公表と学校選択)、学校という組織の階層化(副校長、主観教諭、指導教諭などの新職の法制化)、そして国際学力比較の詳細な紹介に基づく国際競争勝利への刺激の氾濫へと急速にその姿を変えていった(世取山洋介「序論 新自由主義教育改革研究の到達点と課題」佐貫浩・世取山洋介編『新自由主義教育改革 その理論・実態と対抗軸』大月書店、pp.7-21pp.9-10)。
新自由主義、という考え方はフリードマンという人が1950年代に経済学説として唱えていました。世界的に見れば、新自由主義とは、それまでの福祉国家の解体と再編成が目標でした。福祉国家とは、資本主義を維持しながら、国家による所得の再配分を通じて、国民の最低限のニーズ、あるいは共通のニーズを、すべての国民に保障することをその役割として引き受ける国家です((世取山洋介「第2章 新自由主義教育政策を基礎付ける理論の展開とその全体像」佐貫浩・世取山洋介編『新自由主義教育改革 その理論・実態と対抗軸』大月書店、pp.36-53,p.37))。たとえば、アメリカでは60年代は貧しい人や苦しい環境にある人にこそ手厚くすべきだという考えで行政的支援が行われていました。しかし、予算が膨らみ、かけた予算に対して成果があまりでてないじゃないかという批判がでます。80年代は日本の経済力が世界で目立った時期ですが、その影でアメリカは苦しんでいました。そうすると、それまで正しいとされていた国家のやり方を変えないといけない、教育を変えないといけない、という考え方がでてきます。国際競争に勝てないのは、教育が悪いせいだ、という論法です。そして、もっと、自由に、マーケットに任せた方がいい、競争させた方がいい、という考え方がでてきます。これが新自由主義の特徴です。では、何が問題になっているのかというと、果たしてその考え方で公共性が担保できるのか、ということです。もっと言えば、耳障りのよいことを言うけれども、実は強い人たちが得をするようなルールになってるんじゃないの、ということです。

教科書に戻りますと、そうした新自由主義の行財政改革が進む中で、教師が専門職とは言いがたい扱われ方とされているということでした。そこで、民主的専門職性という考え方が役に立つのではないか、と書かれています。それは、国家と官僚主義に統制されたものでなく、市民社会に足場を置いたものであり、公教育をめぐる利害の調整を図り、当事者間の合意調達と共同的関係の構築を推し進め、公正の実現の第一の担い手になることだ、と書かれています。こうした考えで教師教育のスタイルが考えられ、相互に教育実践を批評しあう事例研究や、教材や教育方法を開発していくための自由な発想が交換されるワークショップ型の学びがふさわしいとされ、学校という場を「探求のコミュニティ」としていこうという試みが始まっていると書かれています。
ここで、「省察」概念に基づき、各教科の単元開発を中心にする「実践―批評―開発モデル」が採用され、相互に授業を公開しあい、実践の経験を語り合う同僚関係が築かれていく、そのためには同僚関係を築くことが重要である、と書かれています。

金曜日, 6月 01, 2012

教師の力量とアイデンティティの形成 説明


教師の力量とアイデンティティの形成 説明

ここでは、教師像を4つの類型に分けて説明がされています。
まず、脱専門職化・官僚化と位置づけられる公僕としての教師についての説明があります。これは、看護師でいうとどのようになるでしょうか。国家の要請、模範的、献身、というキーワードで作られる教師=聖職者像という教師像は、看護師像にも当てはまりそうです。
教師像がどのように変化しているのかは、漫画を見ると面白いです。「マンガが語る教師像」(山田浩之、昭和堂、2004年)という本がありますが、なぜGTOのような不良が教師になる物語が受けるのかを考えて見ましょう。これは、1980年代以降多く発表されているといいます。その原型は山下真司主演の「スクールウォーズ」(1984年TBS)や、武田鉄也主演の「三年B組金八先生」(1979年TBS)などの熱血教師にあるといわれています。しかし、テレビと違って、マンガでは純粋な熱血教師はあまり見当たらない、ということです。60年代は「巨人の星」や「あしたのジョー」など、熱血マンガの時代でした。「わんぱく先生」は、そのころのマンガで、大学院で歴史を学んだ秀才が、千葉の田舎で手の付けられないクラスを更正させる、という物語です。に見られる熱血教師の条件は、①教育への情熱、②教師らしさのなさ、③理想的人間像、ということですが、70年代には姿を消し、手塚治虫の「どろんこ先生」(1976年)のように、少し頼りない先生を主人公としたマンガが出てきます。しかし、昔は不良やオチこぼれだったので、そうした子ども達の気持ちが良く分かる、というものです。つまり、テレビドラマでは80年代にブームとなった熱血教師の物語りは、マンガの世界ではすでに終わっていたといえます。60年代から70年代は高校進学率が上昇し、管理教育による受験指導が行われていた時期です。学校は息苦しい場所であり、自分たちを理解してくれる教師を求めていたのでこうしたマンガが流行ったと考えられます。これを、マンガが反学校文化を象徴していた、と言うこともできるでしょう。不良教師の魅力は、教師や学校の文化と対極にあることや、高い問題解決能力、生徒との距離、これはあまり教師に干渉されたくない、という意味での距離ですが、そうしたところにあるかもしれない、と書かれています。ただし、少女マンガでは教師と生徒の恋愛に焦点が当てられていて、また異なる話となります。もし、みなさんが関心をもたれるようであれば、また詳しく時間をとってお話ししてみたいと思います。
話しを戻しましょう。聖職者像に対抗して、働く側の権利を主張する労働者としての教師像が挙げられています。
ここには、感情労働という労働も含まれます。これは、もともとスチュワーデス、CAさんを対象とした研究なのです。皆さんは飛行機に乗ることは怖いですか。スチュワーデスという仕事は、そうした空の旅に伴う不安、そして実際に乱気流などのトラブルに対処したときに、乗客の不安を和らげるために、自分の感情を制御、もしくは演技をすることがスキルの一つとして求められます。不愉快な乗客に対しても、不快な感情を押さえ、笑顔でフレンドリーな対応を維持することも求められます。「みなさま、ご安心ください」というあの笑顔ですね。ハッピーフライトという映画の綾瀬はるかさんのように、CAさんがあたふたされては乗客は不安になってしまうのです。このように、自分の感情が他律化される。相手にある感情を喚起させるために、マニュアル化された感情規則に合わせて自分の感情を表したり、押さえたりということを行っています。これは、感情の商品化、といわれ、働く人にとって否定的な作用があるのではないか、と批判されることもあります。教師の仕事も同じです。子どもの指導において、時に怒りの感情を抑えて微笑みで受け止めないといけないこともあれば、わざと怒った表情を見せる必要もあります。看護における感情労働についても研究があります(武井麻子2001『感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味』医学書院)。看護の感情規則は、患者を安心させるために「患者の気持ちに共感せよ」「患者には優しく親切に」といった明示的な感情規則と、患者に対して怒りや取り乱しといった感情を抑制するよう求める非明示的なものにより構成されるといいます。
このユニットで特に考えて頂きたいことが、技術的熟練者としての教師と、反省的実践化としての教師についてです。
技術的熟練者としての教師モデルを基礎付けているのは、複雑な過程をできる限り一般化し、それを法則的に認識下上で目標に向けて合法則的にそれを統御していくことのできる技術を開発し、駆使していこうとするテクノロジーの概念である、とかかれています。例えば、向山洋一さんという人が始められた教育技術法則化運動というものがあります。跳び箱はみなさん得意でしたか?向山さんは、跳び箱はまず跳び箱まで走る練習、これは助走を十分につけるためです、そして踏み切りの練習、そして、跳び箱の前に手をつく練習、と分けることで、子ども達が跳び箱を飛べるようになる、と示しました。この前、テレビでは駆けっこが速くなるための練習、というのもやっていましたね。まず、太ももをあげる練習、これは足を鞭のようにしならせる目的だそうです、大またで早歩きをする練習、これは地面をしっかりと捉える目的だそうです、ということをすると実際に子どものタイムが縮まっていました。
しかし、みなさんがスキットで示してくれたように、実際は個々の患者に応じた対応が求められますし、どうすればよいかわからないような状況もあります。これから一生、白いご飯を食べられないかもしれない、とか、不注意から感染症を引き起こしてしまった患者さんやその家族に対してどのように接すればよいか、という状況があります。書かれているように、技術的実践においてカバーしうるのは、教育実践の全体ではなく、ごく限られた部分でしかない、というのは看護師さんの世界にも当てはまることように思います。
そこで、反省的実践家としての教師像が考えられました。実践の中の理論、に着目しています。以前、日本では工場などで働く人から、サービス業で働く人が増えている、というお話しをしました。そこで最も異なるのは、工場では決められたラインがあり、商品が保存できるのに対し、サービス業は状況対応的であり、商品が保存できない、その場で精算と消費が行われる、という話しをしました。つまり、人と人のかかわり自体が仕事の対象となるのがサービス業といえます。このように考えたとき、教師の仕事も瞬間瞬間でどのように対応するかが重要であり、その行為を裏付ける暗黙知、わざやコツといったものをどのように学習の対象としていくかに関心が寄せられました。
例えば、皆さんは看護実習レポートを書く際に、プロセスレコードというものを用いると思います。プロセスレコードの創始者は、1950年代の看護理論家であるヒルデガード・E・ぺプロウです。プロセスレコードは、看護場面における相互作用の家庭の記録や評価、臨床経験のリフレクションの方法として用いられます。みなさんが問題と感じた場面を思い出して、患者さんとの言語的、非言語的コミュニケーションを時系列に記述するもので、①患者の言動、②看護者の思ったこと、感じたこと、③看護者の言動、④分析・考察について書きます。相互作用とは、相手と関わるみなさんの存在自体に着目する視点です。スキットで「大丈夫ですか」と患者さんに問いかける時に、多くの人がしゃがんで問いかけをしました。言葉だけを捉えれば、立って、患者さんの目線より上から「大丈夫ですか」と問いかけても、同じです。しかし、そこにみなさんの身体が関係することで、「大丈夫ですか」の言葉が患者さんにもたらす効果は異なります。つまり、その患者さんと皆さんとの関係の中に、皆さんは身体ごと織り込まれているといえます。このように、看護する、という行為と看護をする「私」とは切り離して取り出すことはできないのです。そして、ここが重要ですが、その関係性に織り込まれた「私」は、相互作用を構成する全ての要素を明るみに出すことはできない、ということです。
<スキットの映像>
ここでスキットを演じてもらっているみなさんの視点と、今、観客としてみている視点は異なると思います。おそらく、演じているときの焦点は患者さんに向けられていると思います。しかし、観客として、後でみる視点は患者さんと看護学生の関係性や、他の人の立ち位置など、より全体的なものを捉えているといえるでしょう。一方で、ここでスキットを演じていない人にとっては、全体的なものは捉えられますが、患者さんと看護学生さんが、それぞれのやりとりの中で、何を感じ、どのような所作がどのような影響を与えたのかまでを捉えることは難しいと言えます。スキットの中で演じられていた「間(ま)」、もしくは行間といったものを読み解く必要があります。
プロセスレコードを書くことで、患者の言動と看護師の受け止め方のズレや、看護師の内面に沸き起こった感情と実際に表出された言動とのズレを明らかにし、その原因や何が問題であったかを考えることができます。その状況に巻き込まれているときは見えにくかった患者の言動の意味を再認識することが可能となります。また、そうしたプロセスレコードを書けないということは、それが自分の関心の外にあったため記憶に残っていないということを意味します。したがって、自分が何を見失いがちであるかを知ることもできます(臨床教育人間学会編2007『臨床教育人間学2 リフレクション』東信堂)。このとき、同僚や指導教員を交えて討議することで、自分のものの見方や考え方を広げ、深めることができると考えられます。
テキストに出てくるショーンとアージリスという人は、セオリー・イン・プラクティスという本の中で(43ページ)、ある状況を取り上げ、自分がその時に思ったこと、実際に発言したこと、相手の言動の解釈を書くというケーススタディを取り上げていますが、プロセスレコードもこうした考えの延長にあるといえるでしょう。その目的は、なぜそうした現象が生じたのか、なぜ自分はそのように考えたのか、自分がそのときに考えた相手の意図とは別の意図が合ったのではないか、など、自分の認識の枠組み、ものごとの見方や考え方自体を振り返ることにあります。これが、反省的実践家として物事の全体を見失うことなく捉えるために必要なことと考えられています。

p.74 確認問題

※教職を目指される人であれば、以下の不確かな回答を丸写しにするのでなく、ご自身の教育観や体験、様々なテキストや論文を引用していただけることと期待しています。教材研究とは、教科書会社からもらう赤本を丸暗記することでなく、自分の足と目で様々な情報や資料に触れて、状況に応じて引き出せるようにしておくことだと思いますので。(2015.2.2追記)

1 「技術的熟練者」というモデルはどのような特徴を持ち、そこにはどのような限界があったのだろうか。

技術的熟練者のモデルを基礎付けているのは、複雑な過程をできる限り一般化し、それを法則的に認識した上で目標に向けて合法則的にそれを統制していくことのできる技術を開発し、駆使していこうとするテクノロジーの観念である。しかし、技術的実践が前提とする一義的な命題の形で把握する認識の様式では、教師の場合では、教師の教育実践の現実が示す複雑性や、避けがたい不確実性を捉えることはできないという限界が指摘される。(198字)

2 「反省的実践家」モデルが提起する「省察」においては、教育と仕事の固有性を踏まえたどのような志向が重視されるのだろうか。

省察とは、状況との反省的対話の中で、問題の発見や解決に見通しを与える枠組みである。それは、自身の行為に即して瞬時に形づくられていった理解の意味を問い直し、出来事の構造や問題をより深く捕らえる認識の枠組みの発見と組み替えを行う。この思考様式は、事実を要素に分割して全体を見失うことを防ぎ、当面する固有の行為状況を文脈的かつ包括的に把握していくことを可能にする。多くの教師は子どもという生きた他者との間につくりだされる即興的な対応を必要とする様々な教育的瞬間の連続の中を生きている。このことは、教育実践の遂行を基底から支える重要なものが、活動と同時遂行的になされる実践的志向であることを示唆している。(298字)
(別解)
反省的実践家モデルでは、行為の中の知に着目する。それは、実践の渦中でリアルタイムに遂行される「行為の中の省察」と、事後に出来事を振り返る「行為についての省察」の循環的で螺旋的な展開の中で獲得される。このような状況との反省的対話の中で重視されるものが、問題の発見や解決に見通しを与える省察の枠組みである。具体的に言えば、自身の行為に即して瞬時に形づくられていった理解の意味を問い直し、出来事の構造や問題をより深く捕らえる認識の枠組みの発見と組み替えを行う。この思考様式は、事実を要素に分割して全体を見失うことを防ぎ、当面する固有の行為状況を文脈的かつ包括的に把握していくことを可能にする。ここで、教師の日々の仕事を考えてみると、多くの教師は子どもという生きた他者との間につくりだされる即興的な対応を必要とする様々な教育的瞬間の連続の中を生きている。そこでは、経験によって形作られた暗黙知に基づく即座の判断と行為が行われる。このことは、教育実践の遂行を基底から支える重要なものが、活動と同時遂行的になされる実践的志向(具体的で文脈的な思考)であることを示唆している。反省的実践化というモデルは教師の仕事のこうした特徴にマッチしている。(515字)

3 力量を高め、専門職従事者として成長し続けていくために、教師はどのような学びを積み重ねていったらよいだろうか
教育実践に対する省察の力量は、教師としての初任期から始まる省察的実践の積み重ねの中で形成されていく。教師は、教職を選んだ動機ややりがいとして想定していたこととは異なる現状を前にして、教師としての信念がゆらぐ「危機」に陥る経験をする。それを乗り越えながら、力量の向上とアイデンティティの再構築を図る。それは、子ども観や授業観や実践スタイルの転換が行われるターニングポイントともいえる。このとき、ライフコース研究やライフヒストリー研究が教師であり続けることを励まし、力量の向上とアイデンティティの強化に見通しを与えるように、先達の経験を資源として同僚たちとの関係の中で不断に省察するという学びを積み重ねる必要があろう。(307字)

月曜日, 5月 28, 2012

看護師のライフヒストリー


キャリア中期における看護師の 看護実践の承認
平瀬節子 尾原喜美子
(高知大学医学部看護学科)
高知大学看護学会誌 1巻 1号(2007 )

https://ir.kochi-u.ac.jp/dspace/bitstream/10126/278/1/kangohirase.pdf

日曜日, 5月 27, 2012

プロセスレコード


タイトル: 初回基礎看護実習におけるプロセスレコードの分析 : コミュニケーションのつまづき場面に焦点をあてて
著者: 大池, 美也子 / 鬼村, 和子 / 村田, 節子
出版年: 2000-03-00
刊行元: Kyushu University School of Health Sciences Fukuoka, Japan
掲載情報: 九州大学医療技術短期大学部紀要 || 27 || p9-14 / 9-14 / Memoirs of Kyushu University Scool of Health Sciences || 27 || p9-14

https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/handle/2324/278

プロセスレコードとは何か
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/061121geNba.html


プロセスレコードによる学生の学び
~対人関係間の相互作用に関する記述から~
河合 規仁・橋本 美香
東北文教大学・東北文教大学短期大学部紀要 第1号

http://repo.lib.yamagata-u.ac.jp/bitstream/123456789/8222/1/btbc-1-00010009.pdf


精神看護学実習においてプロセスレコードに
取り上げられたテーマと学習内容
片岡 三佳 須藤 葵 瀧川 薫
滋賀医科大学看護学ジャーナル,1(1),56‐66

http://www.shiga-med.ac.jp/education/ejournal/kango_vol_1/56-66.pdf



看護初学者のプロセスレコードからみるコ
ミュニケーションの特徴
林, 智子; 井村, 香積
三重看護学誌. 2012, 14(1), p. 141-148.

http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/11947/1/AA113538240140121.pdf


リフレクションの方法としてのプロセスレコード
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/education/clinical/pdf/p36.pdf

学習の過程と形態―新たな学びのデザインへ 説明


学習の過程と形態―新たな学びのデザインへ 説明

このユニットは、皆さんが看護師となるために、また看護師として継続して学ぶ上で重要なことが書かれていますので、よく考えていただければと思います。

「できない」から「できる」を学習の定義としてきたことから、「わかる」という状態がいかに作り出されるか、という「認知」を研究する学問が現れたといいます。学習とは、個人の頭の中で起こる現象でなく、個人と他者や人工物との間で起こる現象だと説明されています。
哲学の世界では、「われ思う、ゆえにわれあり」で有名なデカルトにより、物事を捉えている自分、つまり主体と、自分以外の世界、つまり客体が分けられました。そして、どんどん、そうやって考えている自分について考えるようになり、ややこしいですが、そうして考えることの限界がどこにあるのか、ということをカントという人は考えました。
どうですか?「あれこれ考えている自分」というのは疑いなく存在している、と考えたとして、では、もし自分が死んでしまったら、世界はなくなってしまうのでしょうか。その人にとっての世界はなくなってしまうかもしれませんね。一体、自分と世界はどのように関係し、つながっているのでしょうか。こんなことを考えたとき、自分と世界をつなぐ「からだ」が着目されました。そして、自分がいて、世界があって、と二つに考えるのでなく、それぞれは同時に存在しているのだ、という考えや、それは服とハンガーのようなものであって、それぞれが並行に存在して時に接するのだ、という考える人がでてきました。
いずれにせよ、考えているその人の頭の中だけに世界が存在している、というような考えでなく、自分と世界との関係で考えようと、という方向に動いているといえます。この辺、からだや生死に関わる看護師になろうとするみなさんにとっても関係するところですね。からだと人格、考えというのは関係している、という捉え方です。
さて、そこで、状況的学習と社会文化的アプローチが代表的な二つの理論である、と紹介されています。まず、状況的学習では「場」、という点が着目されていますね。そこでは、他の人とどのような関係を結ぶか、それはつまりは学び手のアイデンティティの自覚が伴う、と書かれています。話をして、それを聴くという関係、お互いに話をしながら何かを探ろうとする関係、看護という新しい場で動く身体を作るために必死に学ぼうとする自分、それぞれの場において、自分はなんのために学ぶのか、この場にいるのか、という自覚が、学びに関係する、と書かれています。
ここで、重要な言葉がでてきます。正統的周辺参加、という言葉ですね。新参者は共同体の周辺的な仕事に関わる中で、仕事をする上で必要な道具や言葉の使用に精通し、共同体の成員としてのアイデンティティを強化する、と説明されています。
ここで、みなさんの場合について考えてみましょうか。「看護」という実践を考えたとき、ベテラン、新人、看護学生はそれぞれどのような仕事があるのでしょうか、そうした仕事に参加することで、みなさんはどのような道具や言葉を学び、どのようなアイデンティティを強化するのでしょうか。

 <正統的周辺参加 概念図>

次に、社会文化的アプローチと活動理論では、学習は言語をはじめとする文化的道具(人工物)に媒介された行為である、とされています。つまり、自分の体験を言葉にしてお互いに伝えたり、教科書に書かれていることを介して自分の考えを深める、というようなことです。そうした文化的道具に自分なりに意味づけして、「自分のものにしていく」ことを専有という、と説明されていますね。
ヴィゴツキーとエンゲストロームの理論については難しい説明がされていますが、この理論が実際に教室で活用される時には特にヴィゴツキーの発達の最近接領域に着目されます。とても難しい理論なのですが、こんな風に考えられます。これは、一人ではわからないというレベルと、みんなと一緒ならわかることのレベルの間でできる空間のことです。授業の中で、その空間をぴょん、とジャンプできれば、そのわからなかった生徒たちは学んだといえる、と考えます。

 <発達の最近接領域 図>

例えば、数学の問題を班で考える、という活動について考えてみましょうか。その班の中で、一番できる生徒もちょっと考えてしまうような問題があるとしましょう。このとき、普段はあまり勉強ができない、とされる生徒のちょっとした一言で、そのできるとされる生徒が気づいたり、別の生徒がたまたま覚えていた公式でわかったりすることがあります。

例)
下の図を2分する直線を書いてください。


<図 階段型の長方形>


ヒント)長方形の対角線の交点をOとし、Oを通る直線で分けられた二つの形はOを対象として点対称となる。
解答)図を二つの四角形に分け、それぞれの長方形の二つの交点を通る直線を引く。


いずれにしても、学習の過程と形態は共同的行為として遂行される文化的実践への参加としてデザインされている、つまり他の人と一緒に、その場の文脈を生かした活動に参加することで学びが生じるように工夫されている、ということです。そのために、アーティファクトをどのように配置するか、ということに関心が寄せられた。空間のデザインもその一つです。そうした関心の高まりに一役買っているのがアフォーダンスという考えです。これは、うまく説明することが難しいのですが、人間と環境を考えたとき、環境には意味が埋め込まれていて、人間がそれをピックアップする、という考え、といえばよいのでしょうか。お掃除ロボットなどは、こうした考えの転換があって発明された、と言われています。

確認問題
1 認知科学の発展がもたらした学習観の転換は、従来の学習の捉え方のどのような部分を、どのように変えていったのであろうか。

従来、学習はできない、からできる、という行動の変容を定義されていた。しかし、物事の構造の理解、すなわち、わかる状態がいかに作りだされるかという認知を研究する学問の発達により、学習とは個人の頭の中で起こる現象ではなく、個人の頭の外で、個人と他者や人工物との間で起こる現象であると理解されるようになった。(150字)

2 学習が共同的行為として遂行されていくということの根拠は何か。状況的学習(認知的徒弟制)、社会文化的アプローチ(活動理論)のそれぞれに即して考えてみよう。

状況的学習から考えた根拠は、レイヴらが洋服の仕立て職人の事例で示したように、新参者が職人集団という実践共同体の周辺的な仕事を通じて参加することにより、その仕事に必要な道具や言葉、成員としてのアイデンティティを強化することに求められる。この学習形態はスポーツクラブや科学の実験室などでも見られる。
また、社会文化的アプローチから考えた根拠は、認知の社会的発生、学習の媒介性、学習の共同性に即した事例に求めることができる。例えば、看護事例を検討するカンファレンスは、それがよりよい看護のあり方を求める社会的コミュニケーションの中で、共有された言語や道具を介して問題解決に向けた協働を通じた学習が生起する場となっている。
いずれも、学習が文化的なйや道具の共有と協働使用により成り立つ点や、発達とはその使用の仕方の変化によってもたらされるという捉え方をしている点に共通点が認められる。(387字)

土曜日, 5月 19, 2012

学習の過程と形態

最近接発達領域(ZPD)
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/090113ZPD.html

http://www.h5.dion.ne.jp/~hpray/shakai/keizaimondai/riron-seisaku2/04Vigotuki/vigo-1.htm

アフォーダンス
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/affordance.htm

http://blog.livedoor.jp/aratara123/archives/3098644.html


ケーススタディ 参考

意思の疎通が困難であった患者への援助と通して学んだこと
http://www.geocities.co.jp/berkeley/3959/kesu.html


火曜日, 5月 15, 2012

学ぶということ 説明


ここは、概念的なことが多いので難しいですね。

教えることと、学ぶことはどちらが先に来るのでしょうかね。教師の側から見ると、教えるが先に来て、次に生徒が学んだ、と思うのかもしれません。でも、みなさんから見てみると、何かを学んだと感じて、そして、教えられた、と感じるのかも知れません。そもそも、学ぶ、ということをどう捉えるのかも違うのかもしれませんね。教師は、自分の伝えた知識が定着したことを、学んだという。しかし、みなさんにしてみると、そうした話しに接することで自分の価値観が変わったり、もともと持っている考えをさらに先に進めてくれたことを学んだという。それは、必ずしも一致しない。ただし、大学受験や看護師の国家試験に合格するためのスキルや知識を学ぶ、という目的であれば、そのズレは小さくなる。つまり、必要の論理と要求の論理が一致しているのですね。
ソクラテスや孔子は、相手が何かしら知りたかったり、解決したいことを抱えている、という状況で対話をしてその道筋を示した。または、疑問に思わなかったようなことを掘り起こすことで新しい物事の見方を示した。しかし、教育機関を通じてそうした見方を修得させようと考えたとき、「このように学ぶことがよい」という「型」を示したり、そのための階段のようなプロセスを作った。

たとえば、「幸福な生き方ってどういうことですか。」と聞かれたらどう応えますか。

▼ソクラテスの問答例
 【カリクレス】
「およそありとあらゆる欲望をもち、それらを残らず満たすことができて、それによって喜びを感じながら幸福に生きるということを言っているのだ」
 【ソクラテス】
「先ず手はじめに聞くが、人が疥癬にかかって、かゆくてたまらず、思う存分いくらでも掻くことができるので、掻き続けながら一生を過ごすとしたら、これもまた幸福に生きることだと言えるのかね?」
 【カリクレス】
「やむをえぬ。
そういうふうに掻きながら生を送るものも、やはり快く生きることになるだろう、と言っておく」
 【ソクラテス】
「快い生ならば、幸福な生でもあるだろうね?」
 【カリクレス】
「いかにも」

ここでは、カリクレスは「欲望を満たすことこそが幸福なのだ」という、一見すると常識的な主張をしているわけですが、それに対してソクラテスは「先ず手はじめに聞くが、人が疥癬にかかって、かゆくてたまらず、思う存分いくらでも掻くことができるので、掻き続けながら一生を過ごすとしたら、これもまた幸福に生きることだと言えるのかね?」というふうに切り返し、カリクレスの考え方の底の浅さを指摘しているわけです。

教授学が発達することで、次第に先生が教えることが先で、その次に修得することが来る、という様式が生まれてきた。効率化が求められ、学ぶという行為は試験や資格の取得をするための「勉強」となっていった。そうした「勉強」の世界を変えよう、という考えが生まれ、学習する人の興味や自発的活動を尊重していこうとする運動が起こった。そして、問題解決を通じて知性を養うと共に、仲間とコミュニケーションをとりながら協働することで民主主義の倫理も獲得させようとした。ここで大事な人といえばデューイです。ちなみに、「スクール・オブ・ロック」という映画の主人公の名前もデューイですね。
ロックギタリストのデューイ(J・ブラック)が居候先の親友の代わりに小学校の教師になり、規律そっちのけで生徒たちにバンドを組ませてバンド・コンテストにも出場しようと企む、というお話しです。学校を主題とする映画やドラマは多いですが、基本的にこうしたパターンとなりますね。学校の制度を叩き潰す、そこに、キャッチーな音楽や破天荒なキャラクターが入る、というものです。
デューイの、これは教育学のほうのデューイですが、経験主義は日本の教育にも影響を与えました。たとえば、戦後に「社会科」が創設されるわけですが、これは生活と密接に関わる内容を、問題解決を通じて学ぶ、というコンセプトで設けられた科目です。しかし、経験主義は、本国アメリカでは這い回る経験主義とも批判されていました。どういうことかというと、活動が中心になり、結局生徒は何も学んでいないのではないか、ということです。そして、それに対抗する主義が唱えられた。それが、系統主義です。つまり、これを学ぶためにはこういうことが必要であり、そのためにはその前にこういうことを知っておいてもらわないといけない、という考えです。日本の学習指導要領はこれまでに何度か変わってきていますが、この二つの考えを振り子のように動いています。いわゆる詰め込みの勉強と総合的な学習の時間、というのが象徴的でしょうか。経験主義的な授業、この授業もそうですが、が学びにつながるためには、反省、省察が重要になってきます。デビット・コルブという人は、次のように言っていますね。

①Concrete Experience(具体的な体験)
 ↓  具体的な経験をする。
②Reflective Observation(内省的な観察)
 ↓  その内容を振り返って内省する。
③Abstract Conceptualization(抽象的な概念化)
 ↓  そこから得られた教訓を抽象的な仮説や概念に落とし込む 
④Active Experimentation(積極的な実験)
 ↓  ③で得られたものを新たな状況に適用させて行動してみる
(以降、①に戻ってサイクル化)

おそらく人は経験から学習をする際に、このサイクルにのっとっていることが多いのかと思います。ここでまず大事なのは3つのことです。

①何よりも行動をしてみなければ始まらない
②単に行動をするだけでなく、それを振り返ることが大事
③単に振り返っているだけではなく、それを次の行動に振り向けることが大事

ここで、構成主義という難しい言葉が出てきます。「教育における構成主義は、子供たちがある対象について、彼ら自身による(それぞれ違った)理解を組み立てるようなかたちで教育すべきである、あるいは子供たちの中に既に存在している概念を前提に授業を組み立てる必要がある、という学習・教授理論を指す。ここでの教師の役目は、子供がある対象範囲における事実や考えを見つけるのを手助けすることである。」ということですけど、要は体験、経験したことを自分の知識ともう一度つなぎ合わせていく、ということですね。たとえば、前回、理想的な学校のデザインをみんなで作ってもらいましたけど、その活動とこれまでに授業で扱ったテーマを関連させて、学校の建物は近代学校制度の問題点を象徴しているのだ、というようなことです。

確認問題
1 学ぶことによって、人にはどのような可能性がひらかれていくのだろうか。このユニットでとりあげた個々の教育思想に即して考えてみよう。

学ぶことは、自己の存在意義を探り、世界への参与の見通しを立てることを意味している。一方で、「教える」という形で、先行世代が次世代に学びを求めることもある。後者の学びはコメニウスの汎知学や印刷技術の発展により、学ぶという行為を秘事的な修養行為から、世俗的な行為として大衆に開放する可能性を開いた。しかし、フレイレの言うように、学ぶという行為を知識の獲得であると同時に、変革主体を育てるという可能性に開く必要がある。(206字)

2 制度化された近代学校の中で、本来の学びの何が失われ、どのようなものに変質していったのだろうか。

本来、学びとは個々人に固有のものである。しかし、近代学校の中で教師の教授行為に従属した修得という受動的な学習の様式が生まれ画一化される中で、学ぶという行為は競争と管理の中におかれる「勉強」へと矮小化された。(103字)

3 学びの探求的・共同的・対話的な性格を取り戻すための、デューイやフレイレの提起の要点を整理してみよう。

デューイは学びということの活動的で社会的な性格の回復に向けて、重要な提起を行った。デューイは問題解決的な学習の世界をつくり、実験的な知性を形成させると共に、仲間と豊かなコミュニケーションと協働により民主主義の倫理を獲得させることを目的とした実験学校を設立した。(130字)
フレイレは、「対話による批判的意識化」のための学びを提起し、現代における学ぶことと社会変革の実践との連続性を追及した。第三世界におけるリテラシーの修得を目的とした学習を批判し、対話様式の民衆教育の実践を提唱した。(106字)

看護専門学校に関する論文


看護専門学校の組織文化と教師の力量形成との関連 : 事例検討会の
コミュニケーション分析から

原田, 広枝
Citation 教育経営学研究紀要 || 5 || p77-90; Research Bulletin of Educational
Administration || 5 || p77-90
Issue Date 2001-03-31

https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/772/4/KJ00000042624-00001.pdf



佛教大学大学院紀要 教育学研究科篇 第39号(2011年3月)
看護専門学校生の多様化と初年次教育
久 司 一 葉

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/kiyou39k/D039L001.pdf


山梨医大紀要 第19巻,25-30(2002) 25
看護学生の職業社会化に関する研究
白鳥さつき

http://opac.lib.yamanashi.ac.jp/metadb/up/yamanashi/KJ00004287685.pdf



日本教育工学会論文誌  2004
1
論文・資料・寄書・ショートレター

ワークショップ実践家のデザインにおける熟達過程
デザインの方法における変容の契機に着目して†
森 玲奈*

http://www.harinezuminomori.net/pdf/Mori%202009.pdf




日曜日, 5月 13, 2012

スキット

きだつよし
http://kidablog.jugem.jp/?eid=400

実践知の創造を支援する活動システム理論の構築
http://kaken.nii.ac.jp/ja/p/20530789/2010/8/ja

保育者養成という現場の日常
http://ci.nii.ac.jp/els/110008673097.pdf?id=ART0009750542&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1336958855&cp=

金曜日, 5月 11, 2012

学びの空間のデザイン 説明


学びの空間のデザイン 説明

これは、みなさんが一番関心のあったテーマですね。みなさんは学校というとどんな空間をイメージされますか。標準化された教室が廊下に沿って一列に並ぶ形式は、兵隊の宿がイメージされているということですね。それは、一斉授業をするのに一番効率が良いように、ということでした。

しかし、オープンスクールという形式が80年代から見られた、とあります。オープンスクールというと、学生募集のイベントのように聞こえますが、違いますね。

<写真>

おもしろいことに、画一的なものはいやだ、といってオープンスクールが増えると、これまでの授業のやり方では不都合が生じた、空間の変化により方法も変えないといけない、ということが面白いですね。

確認問題
1 自分自身の学校生活を思い出してみよう。愉快に感じられたり、わくわくしたりしたのは、どのように過ごしたどのような場所だっただろうか。

グランドや体育館裏

2 学校改革としてのオープンスクールは、日本の学校に何をもたらしただろうか。また、
それが行きづまった原因はどこにあっただろうか。

80年代の日本におけるオープンスクールは、画一化された一斉授業の廃止と学習の個別化・個性化を推進する愛知県緒川小学校のように、物理的空間の改革と授業改革により新たな教育のあり方を模索するきっかけとなった。しかし、オープンスクール建築の画一化や空間を活用する教育実践の改革が伴わず形だけの取り組みに陥った点に行き詰まりの原因がある。(165字)

3 学校建築や内部空間のデザインという点で、このユニットで触れていること以外に、必要だと感じられたり、試みる価値があると考えられたりすることはないだろうか。自由にアイディアを出してみよう。

火曜日, 5月 08, 2012

ディベート授業 参考

ディベート授業あれこれ
http://nade.jp/school/etc.html


ヒゲ猫先生が、わかりやすい事例で説明してくれる
http://dctama.katsu-yori.com/index.html


フローシート
http://jdcfs.web.fc2.com/sub23.html
http://www.nipec.nein.ed.jp/sidouan/03kou/13syougyou/h22/40sakai.pdf
http://sdsdann.web.fc2.com/SDSkouza/kouza2-6.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~t-usui/kyoushi/kokugo/debate/flowsheet.htm
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~cont1/kou_kokugo/devate/doc/j.pdf
http://homepage2.nifty.com/dfujikawa/bessei.pdf

そのほかワークシート
http://www3.ocn.ne.jp/~niagara/debate/worksheet.htm