金曜日, 11月 24, 2006
脳の可塑性
例えば、指や手を切断してなくしたヒトでは、それまで指の感覚を担当していた大脳皮質の部位は、その指をなくしたことにより、役割を失ってしまったか。これをfMRIで検討すると、身体の別の部位の感覚を担当するように役割を変えていたことが明らかになった。このように脳がもともとの役割と異なる役割を果たすようになることを、脳の可塑性と呼ぶ。これは機能的に性質を変えることであり、見た目の形が変わることはない。脳の可塑性を最もよく説明する事例は、目や耳に障害があり、視覚や聴覚を失った人たちの脳機能である。例えば、目の見えないヒトが点字を触読するとき、視覚情報を扱うはずの後頭葉に反応があったことが確認された。このことから脳においては、神経の再生という課題とは別に可塑性による機能の変化という、柔軟な役割の変更のようなものがあることが確認された。
感覚の生物学的意義
感覚の生物学的意義とは、感覚を通じて進退が置かれた観光を正確に判断し、正しい行動に結びつけることです。
私達は物があれば、見たり、聞いたり、触ったりすることによって、それが何であり、それがどこにあり、どのような形をしているか判断することができます。また、寒ければ厚着したり、暑ければ服を脱ぐということも感覚を基にした適切な行動といえます。これらは身体にとって外的環境の情報に関わる感覚です。
一方で、食べ過ぎればおなかが痛くなるように、身体の内部環境についての情報も感覚を通じて知ることができます。
これらはいずれも意識にあがる感覚ですが、意識に上らない感覚神経を通じた情報もあります。私達は自転車に乗る場合にも、体がこちらに傾いたから反対側に直そうなどと考えているわけではありません。また、何か目の前に飛んでくれば自然に目を閉じますが、これも意識して目を閉じるわけではありません。このような行動を反射的行動と呼びます。つまり、意識に上らなくても感覚神経によって伝えられる情報は適切な行動のために重要であることを示しています。運動と感覚は目的ある行動というものを通じて一体化したものであり、運動が感覚なしに独立した存在ではないといえます。
ヒトについては、感覚にもう1つの重要な役割があります。言語を通じたコミュニケーションに感覚が深く関わっていることです。ヒトは生まれたときから耳で言葉を聞くことから言語を習得します。そして、文字を見て言語を読み書きするようになります。このようにして習得した言語を用いて物事を考えたり、判断したりするようなり、その意味でも感覚の果たす役割は大きいといえます。
逆に言えば、感覚を失うということは、単に「感じが薄い」というようなことでなく、「行動に大きな影響を与える」ということで重大であるといえます。
私達は物があれば、見たり、聞いたり、触ったりすることによって、それが何であり、それがどこにあり、どのような形をしているか判断することができます。また、寒ければ厚着したり、暑ければ服を脱ぐということも感覚を基にした適切な行動といえます。これらは身体にとって外的環境の情報に関わる感覚です。
一方で、食べ過ぎればおなかが痛くなるように、身体の内部環境についての情報も感覚を通じて知ることができます。
これらはいずれも意識にあがる感覚ですが、意識に上らない感覚神経を通じた情報もあります。私達は自転車に乗る場合にも、体がこちらに傾いたから反対側に直そうなどと考えているわけではありません。また、何か目の前に飛んでくれば自然に目を閉じますが、これも意識して目を閉じるわけではありません。このような行動を反射的行動と呼びます。つまり、意識に上らなくても感覚神経によって伝えられる情報は適切な行動のために重要であることを示しています。運動と感覚は目的ある行動というものを通じて一体化したものであり、運動が感覚なしに独立した存在ではないといえます。
ヒトについては、感覚にもう1つの重要な役割があります。言語を通じたコミュニケーションに感覚が深く関わっていることです。ヒトは生まれたときから耳で言葉を聞くことから言語を習得します。そして、文字を見て言語を読み書きするようになります。このようにして習得した言語を用いて物事を考えたり、判断したりするようなり、その意味でも感覚の果たす役割は大きいといえます。
逆に言えば、感覚を失うということは、単に「感じが薄い」というようなことでなく、「行動に大きな影響を与える」ということで重大であるといえます。
身体に障害のある人にとってのスポーツの意義
医療技術の進歩に伴って障害者の寿命が大幅井延長してきた。障害者の高齢化が進むに伴い、種々の二次的障害やいわゆる生活習慣病の多発が新たな、しかも重大な問題として顕在化し、それらを防ぐ意味での身体運動の必要性が高まってきた。身体に障害のある人にとって健康・体力の保持増進を目的とした身体運動の必要性は健常者以上に高い。身体の一部に障害があると日常の身体活動量や基礎代謝の低下があり、健常者に比べて、冠動脈疾患や耐糖能異常を起こしやすいことが指摘されている。
身体障害者がスポールを行う意義は、こうした運動機会を増やすこととともに、社会への融和もあるといえる。例えば、車椅子ポロや車椅子バスケットボールなどのチームスポーツは、障害者も健常者も同じルールのもとに競い合うことができることから、お互いが理解しあい、また障害者が自信を深めるのに最適と考えられる。
身体障害者がスポールを行う意義は、こうした運動機会を増やすこととともに、社会への融和もあるといえる。例えば、車椅子ポロや車椅子バスケットボールなどのチームスポーツは、障害者も健常者も同じルールのもとに競い合うことができることから、お互いが理解しあい、また障害者が自信を深めるのに最適と考えられる。
高齢者の転倒に有効な運動プログラム
バランス訓練及び複合的な運動で特に高い転倒予防効果が得られることが報告されている。高齢者の転倒予防の運動プログラムで大切なのは、「無理なく楽しく30年」の兵庫に示すように、安全に配慮しつつ有効な運動を継続して行うことである。
バランス訓練の特徴は、①自分の体重がかかる立位での運動であること、②水平方向(前後左右)へのすばやし運動を含み、身体と頭部(眼球運動)の相互作用があること、③垂直方向(上下)の振幅運動を含み大腿部と股関節周辺の筋群が動くことである。 例えば、②では速く歩くことやスポンジテニス、リズム運動などが挙げられます。③では、階段昇降や太極拳などが挙げられます。
バランス訓練の特徴は、①自分の体重がかかる立位での運動であること、②水平方向(前後左右)へのすばやし運動を含み、身体と頭部(眼球運動)の相互作用があること、③垂直方向(上下)の振幅運動を含み大腿部と股関節周辺の筋群が動くことである。 例えば、②では速く歩くことやスポンジテニス、リズム運動などが挙げられます。③では、階段昇降や太極拳などが挙げられます。
高齢者の転倒に至る原因
転倒は結果であり、原因でもある。転倒の原因は、大きく二つある。ひとつは内的要因であり、身体機能の低下(加齢・運動不足)、身体的・精神的疾患の合併、薬剤の使用などが挙げられる。もう1つは外的要因であり、建物構造、道路、履物などが挙げられる。そのようにして転倒が起こると、結果として骨折、そして寝たきりや要介護状態を招きやすい。また、転倒することに恐怖を覚えることで、閉じこもりがちになる。すると運動する機会が減り、転倒リスクを高める原因となる。
転倒予防の意義
介護予防とは、単に高齢者が「介護保険の対象となることを防ぐことではなく、「生活機能」の低下を防ぐことにより、健康でいきいきした生活や人生を作ることである。そうした観点から、今後国家~市町村レベルで介護予防事業を一層拡大することが期待されている。そのためには、それらの政策や事業の基盤となるべき確かな学術的知見が求められる。
転倒予防が学術的・社会的に重視されるのは、転倒と大腿骨頚部骨折との因果関係にある。現在、年間約10万~11万例発生している大腿骨頚部骨折患者は、2030年には2.3倍になると予測されている。
転倒の発生頻度は年齢が増すごとに頻度が増し、女性の方が男性よりも若い時期から頻度が高いことが示されている。
転倒予防の重要性が強調されるのは、転倒が骨折、寝たきり、八日以後、そして志望に至る高齢者にとって重大かつ深刻な事態を招来するからである。また、転倒した高齢者が、対照群に比して生命予後が著しく不良であること、転倒に伴う外傷を契機に、一連の精神的・身体的偏重が生ずることも大きな理由といえる。
転倒予防が学術的・社会的に重視されるのは、転倒と大腿骨頚部骨折との因果関係にある。現在、年間約10万~11万例発生している大腿骨頚部骨折患者は、2030年には2.3倍になると予測されている。
転倒の発生頻度は年齢が増すごとに頻度が増し、女性の方が男性よりも若い時期から頻度が高いことが示されている。
転倒予防の重要性が強調されるのは、転倒が骨折、寝たきり、八日以後、そして志望に至る高齢者にとって重大かつ深刻な事態を招来するからである。また、転倒した高齢者が、対照群に比して生命予後が著しく不良であること、転倒に伴う外傷を契機に、一連の精神的・身体的偏重が生ずることも大きな理由といえる。
乳児期の運動の発達
生まれてから満1歳までを乳児期と呼ぶ。生後1ヶ月を過ぎるころになると、周囲の特定のものをじっと見つめたり、時々笑みを浮かべるようになる。2ヶ月を過ぎる頃には、「あーあー」という音を抑揚を付けながら発するようになり、微笑みも増えてくる。およそ3ヶ月ごろになると首が据わり、5ヶ月頃までには寝返るをするようになる。やがて、お座りしても体が倒れないよう自分でバランスが戸照るようになり、さらにつかまり立ち、伝い歩き、ひとり立ち、一人歩きが得きるようになる。概ね1歳前後に歩き出すのである。これらの発達は運動面と精神面そらぞれからなるが、順序性があり、ゆっくりではあるが逆戻りすることなく進んでいくという特徴がある。
ヒトはほかの哺乳類と比べて大脳が大きいため二足歩行が必要となった。二足歩行を行うためには様々な複雑なシステムが必要となる。そこで、生後まずは脳や神経系が先に発達していく必要がある。脳による指令やホルモンによる調節などが総合し、人間らしい発育・発達の仕方のあり方を決めている可能性がある。
脳神経は、大まかに大脳皮質と皮質下に区分される。皮質下は、大脳基底核、脳幹、脊髄などから構成される。一般には、大脳皮質よりも皮質下の神経系の方が早く発達する。
大脳皮質の発達には、1つの仮説がある。それは、生後1ヶ月では、形や色それぞれの処理に専門化した皮質領域が未分化であり、生後2ヶ月になると専門化が生じる。ただし、処理はできない。3ヶ月になると、処理可能なまでに専門化する、というものである。
また、2ヶ月児では、視覚野や聴覚野などの一次感覚野はすでに機能分化し、覚醒時には独立した知覚が成立していると考えられる。乳児が言語を話し始めるのは1歳を過ぎてからである。2ヶ月から4ヶ月の乳児は身体を動かすとそれに応じて環境が変わるということを学習し記憶することができる。
ヒトはほかの哺乳類と比べて大脳が大きいため二足歩行が必要となった。二足歩行を行うためには様々な複雑なシステムが必要となる。そこで、生後まずは脳や神経系が先に発達していく必要がある。脳による指令やホルモンによる調節などが総合し、人間らしい発育・発達の仕方のあり方を決めている可能性がある。
脳神経は、大まかに大脳皮質と皮質下に区分される。皮質下は、大脳基底核、脳幹、脊髄などから構成される。一般には、大脳皮質よりも皮質下の神経系の方が早く発達する。
大脳皮質の発達には、1つの仮説がある。それは、生後1ヶ月では、形や色それぞれの処理に専門化した皮質領域が未分化であり、生後2ヶ月になると専門化が生じる。ただし、処理はできない。3ヶ月になると、処理可能なまでに専門化する、というものである。
また、2ヶ月児では、視覚野や聴覚野などの一次感覚野はすでに機能分化し、覚醒時には独立した知覚が成立していると考えられる。乳児が言語を話し始めるのは1歳を過ぎてからである。2ヶ月から4ヶ月の乳児は身体を動かすとそれに応じて環境が変わるということを学習し記憶することができる。
ボディワーク
例えば、気功や太極拳のように自分でからだを動かすエクササイズ。あるいは、整体や指圧のように治療者によって体を整えてもらうボディセラピー。さらには、自分のからだの癖や緊張に気づくことから自分の体を整えていくアレクサンダーテクニックや、フェルデンクライスメソッド。
これらはすべて、自分のかただを用い、自分の身体感覚を通して、自分自身の成長、回復、変容を求めている。「からだの自覚」を貴店としてセラピーやレッスンである。ここには3つの認識が共有されている。
・ 私達は、自覚しないまま、日常不自然な動きをしている
・ その事実に気がつくことが重要である。
・ 緊張や力みが少なくなると、身体は本来備えていた機能を回復し、潜在的な可能性を発揮するようになる。つまり、ボディワークは、その根底において、私達の「からだの自然」を信頼しているのである。
これらはすべて、自分のかただを用い、自分の身体感覚を通して、自分自身の成長、回復、変容を求めている。「からだの自覚」を貴店としてセラピーやレッスンである。ここには3つの認識が共有されている。
・ 私達は、自覚しないまま、日常不自然な動きをしている
・ その事実に気がつくことが重要である。
・ 緊張や力みが少なくなると、身体は本来備えていた機能を回復し、潜在的な可能性を発揮するようになる。つまり、ボディワークは、その根底において、私達の「からだの自然」を信頼しているのである。
肉体とからだの区別
例えば、医者が患者の身体を診察する。このとき、医者は患者という他人の身体を見ている。医者の語る身体は、診察の対象である。そのように客体(対象)となった身体を「肉体」と呼ぶ。
一方で、患者自身にとってのは「自分のからだ」である。それは今痛んでいるからだである。冷静に観察などしていられない。痛くて仕方ない。からだとは、その人自身である、自分がからだである、といえる。
ということは、たとえ自分のからだであっても、自分で自分を観察している場合は、「肉体」である。「からだ」は見ることができない。からだは生きることができるだけである。そして「からだ」は対象にならない。一人称の主語(私)として体験されるだけなのである。
一方で、患者自身にとってのは「自分のからだ」である。それは今痛んでいるからだである。冷静に観察などしていられない。痛くて仕方ない。からだとは、その人自身である、自分がからだである、といえる。
ということは、たとえ自分のからだであっても、自分で自分を観察している場合は、「肉体」である。「からだ」は見ることができない。からだは生きることができるだけである。そして「からだ」は対象にならない。一人称の主語(私)として体験されるだけなのである。
問題行動の変遷
こどもは、どのような社会であっても身体的、心理的、あるいは社会的に未成熟な存在として扱われている。しかし、近年になってこうした無知、無力、無垢、無邪気といった子供のイメージは大きく揺らいできた。子供の意識、態度、行動は様変わりして、こどもに対する大人の観念もすっかり変わってしまい、大人はこどもをどのように取り扱い、どのように対処すべきかといったことについてまったく確信がもてなくなってしまったのである。かつての子供観はすっかり変わってしまったのだ。それにはさまざまな理由があるだろうが、ここでは3つの理由をあげておこう。
1つは、こどもの逸脱行動の多様化と多発化、そして不可解な動機と理由ということである。第2は、こどもの日常的行動の許容範囲の境界線の拡大とその日常的行動の多様化ということである。第3の理由は、近年の子供達の自我の肥大化である。
1つは、こどもの逸脱行動の多様化と多発化、そして不可解な動機と理由ということである。第2は、こどもの日常的行動の許容範囲の境界線の拡大とその日常的行動の多様化ということである。第3の理由は、近年の子供達の自我の肥大化である。
小説と子ども
夏目漱石の「坊ちゃん」が発表されてのは1906年であるが、その中に「(ある日、街で天麩羅蕎麦を4杯食べたら)翌日、黒板に大きな文字で、天麩羅先生と書いてある。」という描写がある。これは、教師の一挙一動がすぐに伝わるくらいの小さな街であることを示すくだりではあるが、ある意味生徒が先生に関心をもっていることを示すことでもあるといえる。また、大学生の心理描写をする作品はあっても、学童期のこどもの心理描写をしている作品は多くは無く、概ね屈託無く笑い、悪戯はするものの純朴な姿が描かれている。
一方で、2000年に発表された重松清の「ナイフ」という小作品集では、中学生の描写として次のようなくだりがある。
「あたしは二年B組のハブになった。誰も口をきいてくれない。目が合うと薄笑いを浮かべて顔を背け、廊下ですれ違う時には大袈裟な仕草で身をかわす。」(「ワニとハブとひょうたん池で」)
「駅前には、いつものように若い連中がたむろしていた。(中略)聞こえよがしの大きな音をたてて、毒々しいガラのシャツを着た男が路上につばを吐いた。バイクに乗った男が無意味なクラクションを、表紙を付けて鳴らした。ブレザーの制服姿の女子中学生が放り捨てたコンビニエンスストアの袋が、風に舞って、ロータリーの中央の噴水池にまで飛んでいった。」(「ナイフ」)
これらの描写からは、中学生の子供と教室内でのいじめがセットで描かれていること、公序良俗の意識の欠けた子供達が街で固まって存在しているシーンが描かれている。
教室内でのいじめや、反社会的な若者は明治の時代にはなかったわけではない。
ただ、こどもの置かれている状況に対する問題意識が高まったや、問題を抱える年代が低年齢化していることは、これら描写の比較から浮き彫りにされているといえる。
一方で、2000年に発表された重松清の「ナイフ」という小作品集では、中学生の描写として次のようなくだりがある。
「あたしは二年B組のハブになった。誰も口をきいてくれない。目が合うと薄笑いを浮かべて顔を背け、廊下ですれ違う時には大袈裟な仕草で身をかわす。」(「ワニとハブとひょうたん池で」)
「駅前には、いつものように若い連中がたむろしていた。(中略)聞こえよがしの大きな音をたてて、毒々しいガラのシャツを着た男が路上につばを吐いた。バイクに乗った男が無意味なクラクションを、表紙を付けて鳴らした。ブレザーの制服姿の女子中学生が放り捨てたコンビニエンスストアの袋が、風に舞って、ロータリーの中央の噴水池にまで飛んでいった。」(「ナイフ」)
これらの描写からは、中学生の子供と教室内でのいじめがセットで描かれていること、公序良俗の意識の欠けた子供達が街で固まって存在しているシーンが描かれている。
教室内でのいじめや、反社会的な若者は明治の時代にはなかったわけではない。
ただ、こどもの置かれている状況に対する問題意識が高まったや、問題を抱える年代が低年齢化していることは、これら描写の比較から浮き彫りにされているといえる。
中間システム
中間システムとは、地域共同体の結びつき、近隣関係、親類関係、同輩仲間集団、仕事の領域、医療サービス、社会事業、学校、保育施設、ボランティア組織、市場、教会、スポーツ、友達関係、地域の活動団体などである。
中間システム(世間)は、マイクロシステムである家族と外部システムである社会の中間に位置する。
世間の存在とそれへの意識は、共同体のなかで人々が自分勝手な振る舞いをせず、お互いの利益を犯さないような共生のためのルールであった。大人になることは、このような共同体のルールと、互恵関係にともなう義務に従う自己抑制の過程として求められた。
例えば大阪府高槻市には、「チャレンジ」という不登校の子供を対象とした集まりがある。そこは、フリースクールのように子供が集まれる居場所が提供され、地理などの学校教科の勉強やエスペラント語など学校のカリキュラムにない学習機会も用意されている。
夏には、福井県鯖江から高槻市内までの合計180キロほどの行程を一週間ほどかけて、ボランティアの青年スタッフとともに、歩き続けるというイベントがある。最初は集団に溶け込めなかった子供も、歩く中でスタッフと話したりするなかで、すこしづつ自分の話をし始めるようになる。このイベントの特徴は次のように一般化できる。1つは、明確な目標があることである。もう1つは励ましや宿泊時の協力など仲間との連帯感があることである、そこに青年スタッフが大人と子供のメゾモデルとして存在していることも加えられるだろう。もう1つは、身体を使っている、ということだろう。
別のイベントであるが、中学のときに不登校だった生徒が多く入学する高校の入学時の宿泊訓練の際に参加したことがある。その際、10人前後でボートを漕ぐプログラムがあった。よく鍛えた大人でもしんどい距離である。最後は全員が声を張り上げて号令にあわせてオールを漕ぐことになるが、そのように身体を思い切り使う機会の方が、座学をしているときよりもチームが一体化しやすいと感じたことがある。実際、宿泊訓練後のアンケートをとっても、ボートを漕いだ年と漕がなかった年では、前者の方が特に成績下位層での満足度が高かった。(分析の結果、友達を作る機会や一緒に作業する機会の多さが、特に成績下位層においてプログラムの満足度を左右する、という知見が得られた。)
中間システム(世間)は、マイクロシステムである家族と外部システムである社会の中間に位置する。
世間の存在とそれへの意識は、共同体のなかで人々が自分勝手な振る舞いをせず、お互いの利益を犯さないような共生のためのルールであった。大人になることは、このような共同体のルールと、互恵関係にともなう義務に従う自己抑制の過程として求められた。
例えば大阪府高槻市には、「チャレンジ」という不登校の子供を対象とした集まりがある。そこは、フリースクールのように子供が集まれる居場所が提供され、地理などの学校教科の勉強やエスペラント語など学校のカリキュラムにない学習機会も用意されている。
夏には、福井県鯖江から高槻市内までの合計180キロほどの行程を一週間ほどかけて、ボランティアの青年スタッフとともに、歩き続けるというイベントがある。最初は集団に溶け込めなかった子供も、歩く中でスタッフと話したりするなかで、すこしづつ自分の話をし始めるようになる。このイベントの特徴は次のように一般化できる。1つは、明確な目標があることである。もう1つは励ましや宿泊時の協力など仲間との連帯感があることである、そこに青年スタッフが大人と子供のメゾモデルとして存在していることも加えられるだろう。もう1つは、身体を使っている、ということだろう。
別のイベントであるが、中学のときに不登校だった生徒が多く入学する高校の入学時の宿泊訓練の際に参加したことがある。その際、10人前後でボートを漕ぐプログラムがあった。よく鍛えた大人でもしんどい距離である。最後は全員が声を張り上げて号令にあわせてオールを漕ぐことになるが、そのように身体を思い切り使う機会の方が、座学をしているときよりもチームが一体化しやすいと感じたことがある。実際、宿泊訓練後のアンケートをとっても、ボートを漕いだ年と漕がなかった年では、前者の方が特に成績下位層での満足度が高かった。(分析の結果、友達を作る機会や一緒に作業する機会の多さが、特に成績下位層においてプログラムの満足度を左右する、という知見が得られた。)
「サザエさん」「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」
「ドラエもん」では、主人公のび太をはじめ彼の遊び仲間は、近所の空き地に集まり、ガキ大将ジャイアンの指揮下、毎日のように遊び、小さな事件の展開をその遊びの中で経験している姿が描かれる。
そこには子供たちの阿蘇儀をめぐって、さまざまな近所の大人も登場する。野球ボールを庭に打ち込まれてかんかんになってのび太達を叱るおじさんや、のび太の遊び仲間の親達も、地域の小さな生活空間の中に登場し、子供達に関わっている。このような共同体の空間で、子供なりの小さな社会があり、世間がある。自分の思い通りにはいかない社会の壁をのび太は経験する。
学校においては、のび太は0点を取ることが多く、先生からはよく叱られ、「できない子」としての認識が先生、友達、のび太の間で共有されている。そこにはすでに学校でのテストの結果が学校での価値である、という社会が描かれている。
家庭においては、のび太は一人っ子であり、教育熱心なママと、大らかなパパ、そして便利な道具をつぎつぎと出してくれるドラエもんに囲まれている。このとき、ドラえもんはまさに科学技術の進歩による社会の変化を象徴している。しかし、便利な道具であるのに、のび太はいつも「サボり」や「悪用」のために使い、結果的には期待した利便性を得ることがない。このことは、科学技術は進歩したが、それを扱う人間に不信が残る社会や、ファミコンゲームのように仮想社会での万能感を膨らませる子供の姿などを象徴しているといえる。
時代をさかのぼり、「サザエさん」のカツオに焦点をあてて考えてみると、カツオは対等な存在である中島くんとよく遊びに行く。しかし、その姿はカツオが野球の道具をもち、中島くんはメガネをかけて、やや冷静にカツオと応対していることが多い。このことは、子供は活発に遊んでいることに価値があった、ということを象徴しているともいえる。先生に成績のことで叱られた後の対応をみても、カツオが舌を出して軽く受け止めているのに対し、のび太は落ち込み時に涙を流す姿が頭に浮かぶ。つまりは、学校でのテストの成績の重要度がのび太の時代の方が高まったことを象徴しているシーンであるといえる。
家庭においては、のび太は年のいった波平を父に持ち、姉のサザエとその夫であるマスオ、両者の子供であるたらちゃんと同居する大家族の一員として描かれている。また、のび太のパパ・ママの役割と異なり、波平は威厳をもち厳格な躾をし、母親の舟が優しく隣でそれを眺め時になだめる役割を取っている。実際、のび太とその言葉遣いを比較してみると、カツオの方が敬語を使う頻度や大人としての言動を匂わせることが多いようにも感じる。
また、近所づきあいも多く、裏の家の人や、マスオの会社の同僚と家族ぐるみで付き合っている姿もよく描かれている。カツオをはじめとした子供は、こうした大家族や地域の人達によって構成された社会のなかで、社会の通念やあるべき行動をまなんでいたことが見て取れる。
時代を近づけ、「クレヨンしんちゃん」について考えてみると、年齢が学童期に入る前であることも影響しているが、友達と遊ぶ姿は少なく、自己中心的な価値観で構成された世界が描かれている。のび太と同じく一人っ子ではあるが、家庭の中での影響力が大きく、パパやママはそれに翻弄される姿が描かれている。地域社会との関わりが描かれることはほとんど無く、つねにしんちゃんのわがままで物語が進んでいく。その言動は子供であることに自覚的であるとさえ言え、時に冷めた見方をし、性的な大人の話にも首を突っ込む。社会の通念やあるべき行動を学ぶ機会が描かれることはほとんどないといえる。
そこには子供たちの阿蘇儀をめぐって、さまざまな近所の大人も登場する。野球ボールを庭に打ち込まれてかんかんになってのび太達を叱るおじさんや、のび太の遊び仲間の親達も、地域の小さな生活空間の中に登場し、子供達に関わっている。このような共同体の空間で、子供なりの小さな社会があり、世間がある。自分の思い通りにはいかない社会の壁をのび太は経験する。
学校においては、のび太は0点を取ることが多く、先生からはよく叱られ、「できない子」としての認識が先生、友達、のび太の間で共有されている。そこにはすでに学校でのテストの結果が学校での価値である、という社会が描かれている。
家庭においては、のび太は一人っ子であり、教育熱心なママと、大らかなパパ、そして便利な道具をつぎつぎと出してくれるドラエもんに囲まれている。このとき、ドラえもんはまさに科学技術の進歩による社会の変化を象徴している。しかし、便利な道具であるのに、のび太はいつも「サボり」や「悪用」のために使い、結果的には期待した利便性を得ることがない。このことは、科学技術は進歩したが、それを扱う人間に不信が残る社会や、ファミコンゲームのように仮想社会での万能感を膨らませる子供の姿などを象徴しているといえる。
時代をさかのぼり、「サザエさん」のカツオに焦点をあてて考えてみると、カツオは対等な存在である中島くんとよく遊びに行く。しかし、その姿はカツオが野球の道具をもち、中島くんはメガネをかけて、やや冷静にカツオと応対していることが多い。このことは、子供は活発に遊んでいることに価値があった、ということを象徴しているともいえる。先生に成績のことで叱られた後の対応をみても、カツオが舌を出して軽く受け止めているのに対し、のび太は落ち込み時に涙を流す姿が頭に浮かぶ。つまりは、学校でのテストの成績の重要度がのび太の時代の方が高まったことを象徴しているシーンであるといえる。
家庭においては、のび太は年のいった波平を父に持ち、姉のサザエとその夫であるマスオ、両者の子供であるたらちゃんと同居する大家族の一員として描かれている。また、のび太のパパ・ママの役割と異なり、波平は威厳をもち厳格な躾をし、母親の舟が優しく隣でそれを眺め時になだめる役割を取っている。実際、のび太とその言葉遣いを比較してみると、カツオの方が敬語を使う頻度や大人としての言動を匂わせることが多いようにも感じる。
また、近所づきあいも多く、裏の家の人や、マスオの会社の同僚と家族ぐるみで付き合っている姿もよく描かれている。カツオをはじめとした子供は、こうした大家族や地域の人達によって構成された社会のなかで、社会の通念やあるべき行動をまなんでいたことが見て取れる。
時代を近づけ、「クレヨンしんちゃん」について考えてみると、年齢が学童期に入る前であることも影響しているが、友達と遊ぶ姿は少なく、自己中心的な価値観で構成された世界が描かれている。のび太と同じく一人っ子ではあるが、家庭の中での影響力が大きく、パパやママはそれに翻弄される姿が描かれている。地域社会との関わりが描かれることはほとんど無く、つねにしんちゃんのわがままで物語が進んでいく。その言動は子供であることに自覚的であるとさえ言え、時に冷めた見方をし、性的な大人の話にも首を突っ込む。社会の通念やあるべき行動を学ぶ機会が描かれることはほとんどないといえる。
教育問題
「不登校」が問題とされている。公立中学校で「不登校」と認定された子供が高等学校に入ってきたとき、二つの道がある。ひとつは入学式にも出席せずそのまま学校にも来ないパターン、もうひとつは、学校で活躍の場や友人を見出すパターンだ。
前者の例でいえば、高校の入学試験において生徒やその家族の意思を確認しているが、入学式直後の集団宿泊訓練には参加できず、そのまま学校にも来ないという事例があった。ここで問題とされるのは、「学校に来ない」ということと、「集団の中で生活できない」ということだ。
なぜこれらが問題となるのか。まず1つは、学校は学校の外以外のことについてはコントロールしづらい、という点が上げられる。学校に来ないことには教育的営為ができない、学校という敷地はそのまま学校の限界となっている、ということだ。
卑近な例えで言えば、学校は中華料理屋と同じであり、店に来てくれないことには料理がだせないのである。熱心な教師は家まで行って対応するだろうが、それは本筋ではなく、中華料理屋の出前と同じオプショナルな仕事である。
つまり、「学校にこない」ことが問題になる背景には、学校は効率的に知識を伝える機関である、という考えが見える。
もう1つは、学校は「集団で生活する能力を身に付けさせることが期待されているという認識があることだ。単に知識を得るだけであれば、教科書を読めばよく、先生の話を聞くだけなら通信講座を聞けば良い。しかし、クラスメートと一緒の空間で、コミュニケーションをとりながら授業を受け、行事に参加する、という体験が重視されているために、「集団生活ができない」ことが問題になるのだ。
こうした認識に立ったとき、不登校「問題」をどのように解釈だろうか。子供の視点に立てば、「知識を得るだけなら自分で勉強したい」、「みんなとあわせるのは苦痛だから一人で家にいたい」ということになるだろう。こうした子供たちに学校はどのようなアプローチや工夫が必要になるのだろうか。それは、「学校でしか体験できないこと」ということに、教師が自覚的になることであるといえる。
学校が特異的であるのは、同年代の子供が同じ空間で長時間生活する、ということがまず挙げられる。この仕掛けは、自分の考えを常に相対的に把握するために有意に働く。また、利害関係なく一緒に何かを懸命にすることは、協調して何かを行うことに対する抵抗を軽減したり肯定的に解釈する土台となるだろう。こうした価値観は、将来社会に出るうえで有意だ。なぜなら、社会とは協調して価値を生み出す世界であるからだ。
もう1つの不登校のパターンは、高校で活躍の場や友人を見出すパターンであった。実際に、インタビューした子供が昔は不登校だったが今は友達がいて学校に来るのが楽しい、とか、先生のサポートを受けながら国公立大学に合格することができた、テニス部でレギュラーになることを目標に頑張っている、など、中学生のときには不登校だったことがわからないくらいに、意欲的に学校生活に取り組む子供がいる。
このとき、問題となるのは中学生の時は、学校に「活躍の場がなく」「友達がいなく」「先生のサポートがない」ということであろう。心理学者マズローによれば、人間の欲求は段階的に生まれ、それは生存(食欲、睡眠欲)、安全(いじめられない)、親和(友達がいる)、自己顕示(自分の活躍の場がある)、自己実現(将来の目標を見出す、自分の生きる目的を自覚する)の順であるという。こどもにとって、学校がそうした欲求を喚起し満たせる場所であったのかどうか、ということが不登校問題の背景に在るといえる。
前者の例でいえば、高校の入学試験において生徒やその家族の意思を確認しているが、入学式直後の集団宿泊訓練には参加できず、そのまま学校にも来ないという事例があった。ここで問題とされるのは、「学校に来ない」ということと、「集団の中で生活できない」ということだ。
なぜこれらが問題となるのか。まず1つは、学校は学校の外以外のことについてはコントロールしづらい、という点が上げられる。学校に来ないことには教育的営為ができない、学校という敷地はそのまま学校の限界となっている、ということだ。
卑近な例えで言えば、学校は中華料理屋と同じであり、店に来てくれないことには料理がだせないのである。熱心な教師は家まで行って対応するだろうが、それは本筋ではなく、中華料理屋の出前と同じオプショナルな仕事である。
つまり、「学校にこない」ことが問題になる背景には、学校は効率的に知識を伝える機関である、という考えが見える。
もう1つは、学校は「集団で生活する能力を身に付けさせることが期待されているという認識があることだ。単に知識を得るだけであれば、教科書を読めばよく、先生の話を聞くだけなら通信講座を聞けば良い。しかし、クラスメートと一緒の空間で、コミュニケーションをとりながら授業を受け、行事に参加する、という体験が重視されているために、「集団生活ができない」ことが問題になるのだ。
こうした認識に立ったとき、不登校「問題」をどのように解釈だろうか。子供の視点に立てば、「知識を得るだけなら自分で勉強したい」、「みんなとあわせるのは苦痛だから一人で家にいたい」ということになるだろう。こうした子供たちに学校はどのようなアプローチや工夫が必要になるのだろうか。それは、「学校でしか体験できないこと」ということに、教師が自覚的になることであるといえる。
学校が特異的であるのは、同年代の子供が同じ空間で長時間生活する、ということがまず挙げられる。この仕掛けは、自分の考えを常に相対的に把握するために有意に働く。また、利害関係なく一緒に何かを懸命にすることは、協調して何かを行うことに対する抵抗を軽減したり肯定的に解釈する土台となるだろう。こうした価値観は、将来社会に出るうえで有意だ。なぜなら、社会とは協調して価値を生み出す世界であるからだ。
もう1つの不登校のパターンは、高校で活躍の場や友人を見出すパターンであった。実際に、インタビューした子供が昔は不登校だったが今は友達がいて学校に来るのが楽しい、とか、先生のサポートを受けながら国公立大学に合格することができた、テニス部でレギュラーになることを目標に頑張っている、など、中学生のときには不登校だったことがわからないくらいに、意欲的に学校生活に取り組む子供がいる。
このとき、問題となるのは中学生の時は、学校に「活躍の場がなく」「友達がいなく」「先生のサポートがない」ということであろう。心理学者マズローによれば、人間の欲求は段階的に生まれ、それは生存(食欲、睡眠欲)、安全(いじめられない)、親和(友達がいる)、自己顕示(自分の活躍の場がある)、自己実現(将来の目標を見出す、自分の生きる目的を自覚する)の順であるという。こどもにとって、学校がそうした欲求を喚起し満たせる場所であったのかどうか、ということが不登校問題の背景に在るといえる。
身体
近代社会において、学校とはある意味で、「文字を修得する、身に付ける」機関であるといえる。文字を子供に刻みこむことは、すなわち近代の法や原則を子供たちの身体に刻みこむ営みである。
基礎学力とは、すなわち近代社会で生活するうえで必要な読み・書き・計算の能力、すなわち文字の習熟であるといえる。学校や教師は、効率的に子供を文字文化の世界へ取り組むための方法を模索する過程で独自の教育文化を生み出した。
例えば、黒板に向かって机に座る、時間を区切って全員一律に同じ(範囲)の学習をさせる、先生を権威ある存在としその指示には従うべきだとする、などといったことは、そうした教育文化の生み出した、効率的に文字を刻み込むための仕掛けである。仕掛けは単純で型(パターン)がある方が使いやすい。頭髪指導、服装指導、校則指導、あいさつ指導、授業態度指導、集団行動指導など、教師の指導に子供がなれるほど、文字は刻みやすい。
こうした教育文化は、子供を学習身体として変貌させていった。すなわち、いかに教育した内容を素直に受け取る子供の方が価値が高い、「良い子」である、という考えである。そして、素直に受け取れない子供は「悪い子」であり、そうした子供に対しては、まずはこれまでの型をもって、学習身体を作り上げることからはじめる。子供が抵抗すればさらに強い力で型にはめ、それでも受け入れない子供がいれば学校からはじき出す。
しかし、型は固定的である。こどもの親が以前の親と異なり、生活のリズムが変わり、携帯電話やITなど生活を取り巻く環境が変われば子供の価値観も変わる。リストラや不況、若手経営者の台頭などに象徴されるように変化する社会を見れば、将来に対する考え方も変わる。子供が変化しているのに、指導のパターンが以前のままでは、そこにズレが生じる。そもそも、今後どのような文字を子供に刻めばよいかということも揺らいでいる。
基礎学力とは、すなわち近代社会で生活するうえで必要な読み・書き・計算の能力、すなわち文字の習熟であるといえる。学校や教師は、効率的に子供を文字文化の世界へ取り組むための方法を模索する過程で独自の教育文化を生み出した。
例えば、黒板に向かって机に座る、時間を区切って全員一律に同じ(範囲)の学習をさせる、先生を権威ある存在としその指示には従うべきだとする、などといったことは、そうした教育文化の生み出した、効率的に文字を刻み込むための仕掛けである。仕掛けは単純で型(パターン)がある方が使いやすい。頭髪指導、服装指導、校則指導、あいさつ指導、授業態度指導、集団行動指導など、教師の指導に子供がなれるほど、文字は刻みやすい。
こうした教育文化は、子供を学習身体として変貌させていった。すなわち、いかに教育した内容を素直に受け取る子供の方が価値が高い、「良い子」である、という考えである。そして、素直に受け取れない子供は「悪い子」であり、そうした子供に対しては、まずはこれまでの型をもって、学習身体を作り上げることからはじめる。子供が抵抗すればさらに強い力で型にはめ、それでも受け入れない子供がいれば学校からはじき出す。
しかし、型は固定的である。こどもの親が以前の親と異なり、生活のリズムが変わり、携帯電話やITなど生活を取り巻く環境が変われば子供の価値観も変わる。リストラや不況、若手経営者の台頭などに象徴されるように変化する社会を見れば、将来に対する考え方も変わる。子供が変化しているのに、指導のパターンが以前のままでは、そこにズレが生じる。そもそも、今後どのような文字を子供に刻めばよいかということも揺らいでいる。
まなざし
例えば、学校現場で「生徒の問題行動が気になる」とか「学級崩壊が止まらない」という言葉を私たちが口にすることがある。
これは、そうした状況を、ある一定の価値の視点(まなざし)に立ったときの認識である。ここに、近代科学の背景にある「観察のまなざし」や、「制作のまなざし」の発生をみることができる。
「観察のまなざし」は、「相手と距離を置き客観的に観察する」という教育文化のパターンを、「制作のまなざし」は「人間の成長発達の過程は人間によって統御することが可能である」という教育文化のパターンを生み出す。
一方で、「観察のまなざし」は私たち自身を問題状況の外に立たせる。また、「制作のまなざし」は私たちの統御できないことは問題だという認識を持たせる。
こうしたパターンは、次のような近代的な変質に至る。すなわち、当事者ではなく、「こうあるべきだ」と外から言う評論家やスローガンを唱えるだけの政治家のような教育関係者を産む教育文化である。結果、問題を現場で解決にあたる人間が減り、固定化された問題を語る言葉に馴れて耳を貸す人間が減り、問題である事象は解決されないままとなる危険性がある。
このように変容した教育文化を深耕し、問題を解決するには二つのまなざしをもつ必要がある。
ひとつは、「横のまなざし」である。教育現場の問題を、教育的視点だけで見るのでなく、社会や家庭、食生活などさまざまにリンクする教育以外の視点からも捉えていく構えである。
もうひとつは、「縦のまなざし」である。問題を語る言葉の背景にある事象は何か、なぜそのことを「問題」と捉えるようになったのか、というように、問題を1つ上に昇った視点で見る構え(メタ認識)である。
これは、そうした状況を、ある一定の価値の視点(まなざし)に立ったときの認識である。ここに、近代科学の背景にある「観察のまなざし」や、「制作のまなざし」の発生をみることができる。
「観察のまなざし」は、「相手と距離を置き客観的に観察する」という教育文化のパターンを、「制作のまなざし」は「人間の成長発達の過程は人間によって統御することが可能である」という教育文化のパターンを生み出す。
一方で、「観察のまなざし」は私たち自身を問題状況の外に立たせる。また、「制作のまなざし」は私たちの統御できないことは問題だという認識を持たせる。
こうしたパターンは、次のような近代的な変質に至る。すなわち、当事者ではなく、「こうあるべきだ」と外から言う評論家やスローガンを唱えるだけの政治家のような教育関係者を産む教育文化である。結果、問題を現場で解決にあたる人間が減り、固定化された問題を語る言葉に馴れて耳を貸す人間が減り、問題である事象は解決されないままとなる危険性がある。
このように変容した教育文化を深耕し、問題を解決するには二つのまなざしをもつ必要がある。
ひとつは、「横のまなざし」である。教育現場の問題を、教育的視点だけで見るのでなく、社会や家庭、食生活などさまざまにリンクする教育以外の視点からも捉えていく構えである。
もうひとつは、「縦のまなざし」である。問題を語る言葉の背景にある事象は何か、なぜそのことを「問題」と捉えるようになったのか、というように、問題を1つ上に昇った視点で見る構え(メタ認識)である。
教育文化の発生と変容の様態について
教育文化とは、教育的営為を条件付け、方向付ける価値の一定パターンであるといえる。それは、形を為して目に見えるものとして人間の周りにあるというのではなく、むしろ人間とその人間が制作するものとの間(あわい)を為すものとして見立てることができる。
育児文化の変容
現在のようなトーンで育児文化の変容が問題になり始めたのは、高度経済成長期以降のことです。急激な産業化が、家族の構成や役割の変化を促しました。家族が小規模化し、お父さんは会社に働きに、お母さんは家で炊事洗濯、というモデルが広く普及したものもこのころです。その後、1970年代に入り、育児不安や育児ノイローゼという言葉が一般化しました。その後、家族意識はさらに変化し、1990年代になると、多様化と個人化が進みます。これらは家族機能の低下を意味しました。
女性の社会進出が少子化の原因という指摘もありましたが、就労と出産・育児を両立させる育児制度の不備が問題。
女性の社会進出が少子化の原因という指摘もありましたが、就労と出産・育児を両立させる育児制度の不備が問題。
死ぬこと・生きることをめぐる教育文化
人間は自分がこの世に誕生したときと、この世から去るときのことについては、語ることができない。「死ぬこと」は、誰しもに訪れる事柄だが、それは言葉で体験や経験として語られることを拒否するかのように伝えるには難しい事柄です。国家は、その「死」を操作可能なものとするため、死亡時刻と死因を記録し、社会から隔離します。家族の死、友人の死、知人の死、隣家の死、人の死はその人との生前のかかわりの深さによって異なります。死は、その人とのこの世の繋がりの終焉を意味しています。その人の死を考えることは、その人との繋がりを見つめなおすことです。それは、将来の自分の死のイメージとなります。目の前の死を、科学的に心臓が停止することと、と理解するだけでは、そうしたイメージは十分に描けないのではないでしょうか。さらにいえば、生きることが良いことで、死ぬことが悪いこと、というような関係さえ、一方的なイメージに過ぎないのかもしれません。このような乏しいイメージしかないままに、「いのちを大切にしよう」と言われても、その言葉は身体に染み込まないのではないでしょうか。
言葉と身体
1770年代のドイツの教科書を見ますと、まず身体に関する言葉を覚え、次に教師の言葉に反応して、指示された身体の箇所を指す、という授業があったようです。教師の言葉に即座に反応する子供の身体をつくること、が意図された教科書です。また、その少しあとの教科書を見ますと、人の顔、姿、身体を見て、相手の人となりを解読する術について書いてあります。つまり、相手の身体に意味が、言葉が刻まれているという考えがそこにあります。そして、読み取るべき言葉は、人間が作った「文明」的なものでなく、相手が本質的に持っている「自然」なものでした。どちらの教科書にも共通することは、言葉「と」身体は関連している、という考えです。
心技一体、という言葉があります。心と技の両方を磨かなければいけない、という武道の教えです。テニスなどのスポーツにおいても、メンタルタフネス、平常心が必要とされます。心と身体は関連している、ということです。ですので、一流のスポーツ選手は、ルーティーンの動作をすることで、平常心を保つようにする人が多いのだと思います。
最近、「心の教育」という言葉をききます。字面から、心に働きかける教育、ということでしょうか。一方で、「躾」という言葉があります。身体を美しく整えることです。また、修身、という授業も昔はありました。身を修める、と書きます。こうした字面だけをみると、教育において注目されているのは、身体から心へと移っているように見えます。しかし、「心の教育」という言葉からは、そうした言葉と身体の関連性が見えてこないように見えます。身体であれば、そこに在るものであり、コントロールが可能ですが、心という形のないものをコントロールすることは難しいといえます。今日の学校制度は、近代の科学精神を背景として、合理性と効率性の発揮を目的に整備されていると言われています。形のあるものについては、合理性や効率性の追求はできそうですが、心という形のないものについてそうした追求はできそうに無いように思えます。それにも関わらず、旧来の学校制度を持って、心の教育に取り組もうとすれば、どこかでうまくいかない箇所がでてくるように思えます。
心技一体、という言葉があります。心と技の両方を磨かなければいけない、という武道の教えです。テニスなどのスポーツにおいても、メンタルタフネス、平常心が必要とされます。心と身体は関連している、ということです。ですので、一流のスポーツ選手は、ルーティーンの動作をすることで、平常心を保つようにする人が多いのだと思います。
最近、「心の教育」という言葉をききます。字面から、心に働きかける教育、ということでしょうか。一方で、「躾」という言葉があります。身体を美しく整えることです。また、修身、という授業も昔はありました。身を修める、と書きます。こうした字面だけをみると、教育において注目されているのは、身体から心へと移っているように見えます。しかし、「心の教育」という言葉からは、そうした言葉と身体の関連性が見えてこないように見えます。身体であれば、そこに在るものであり、コントロールが可能ですが、心という形のないものをコントロールすることは難しいといえます。今日の学校制度は、近代の科学精神を背景として、合理性と効率性の発揮を目的に整備されていると言われています。形のあるものについては、合理性や効率性の追求はできそうですが、心という形のないものについてそうした追求はできそうに無いように思えます。それにも関わらず、旧来の学校制度を持って、心の教育に取り組もうとすれば、どこかでうまくいかない箇所がでてくるように思えます。
教育文化臨床と言語
「学校に行きたくない」という気持ちを持つ生徒は「問題」なのでしょうか。
私が中高生だった1980年代では、「学校に行きたくない」という気持ちをもつことは問題視されず、それに伴う行動、意図的な遅刻やサボりが発見されたとき、それを問題として学校からの処罰や、先生からの注意を受けました。
現在の2000年代の中学高校でも、同じ気持ちを持つ生徒はいるでしょうし、その気持ちに沿った行動をとることを問題とし、それへの対処も同じように行われていることが多いようです。
ただ、私のころと異なるのは、「学校に行きたくない」という気持ちを持つ生徒のうち、ある条件に該当する生徒は「不登校」という名称で呼ばれるようになったことです。「学校に行きたくない」という気持ちは同じなのに、「不登校」と呼ばれることで、学校に来ないこと、多くは「来れない」という表現を使いますが、そのことがそれ以上語られなくなっているように見えます。
しかし、「学校に行きたくない」という気持ちをもち、実際に学校に来ない生徒を「不登校」と呼んでも、それだけでは何も解決しないのではないでしょうか。さらに言えば、「不登校」と呼ばれない生徒の「学校に行きたくない」という気持ちは、どうなるのでしょう。その生徒が学校に来なくなれば、「不登校」として片付けられるのでしょうか、それとも退学させられてしまうのでしょうか。
「学校に行きたくない」という表現は一緒でも、その理由は一人一人違うのではないでしょうか。「学校に行きたくない」という生徒に対して、「学校には来るものだ」という論理で答えても、相手は納得しないように思います。納得させないまま意に従わせようとすれば、強い口調でせまるか、来なければ罰を与える、という手段が、てっとりばやいので、しばしば選ばれるように思います。しかし、それでは、目の前にいる生徒と学校もしくは先生との関係を変えることにはならないでしょう。関係が変わらなければ、そこにある「問題」の解決の糸口も見つからないように思います。
例として、「不登校」を挙げましたが、そのほかにも学校で当たり前とされて、生徒が納得せずに従わされていることは多いと思います。また、生徒と学校・先生の間で起こる事象を「○○問題」として、それに対するパターン的な対応がとられることも多いでしょう。こうした対応は、まるで医者と患者の関係のようです。患者が「頭が痛い」「体がだるい」というと、医者がそれを「風邪です」と診断して、処方箋を出す。患者は処方箋に従って出された薬を飲めば回復する。ノロウィルスとか、B型肝炎とか、患者の状態にいろいろ名前をつけては、それに対する処方箋を出される。教育現場においても、同じように一つ一つの事象に名前をつけ、それに対する決まった処方を出せば問題が解決するのでしょうか。優秀な医者はむやみに薬を出さないといいます。それは、一人一人の患者をよく診て、何が本当に必要なのかをその都度考えるからでしょう。教育の現場においても、問題だからすぐにそれに対応する処方をする、という姿勢でなく、もしくは同じ言葉で事象を語るのではなく、一つ一つの事象を新たな視点で見直す、という姿勢が必要なのかもしれません。
私が中高生だった1980年代では、「学校に行きたくない」という気持ちをもつことは問題視されず、それに伴う行動、意図的な遅刻やサボりが発見されたとき、それを問題として学校からの処罰や、先生からの注意を受けました。
現在の2000年代の中学高校でも、同じ気持ちを持つ生徒はいるでしょうし、その気持ちに沿った行動をとることを問題とし、それへの対処も同じように行われていることが多いようです。
ただ、私のころと異なるのは、「学校に行きたくない」という気持ちを持つ生徒のうち、ある条件に該当する生徒は「不登校」という名称で呼ばれるようになったことです。「学校に行きたくない」という気持ちは同じなのに、「不登校」と呼ばれることで、学校に来ないこと、多くは「来れない」という表現を使いますが、そのことがそれ以上語られなくなっているように見えます。
しかし、「学校に行きたくない」という気持ちをもち、実際に学校に来ない生徒を「不登校」と呼んでも、それだけでは何も解決しないのではないでしょうか。さらに言えば、「不登校」と呼ばれない生徒の「学校に行きたくない」という気持ちは、どうなるのでしょう。その生徒が学校に来なくなれば、「不登校」として片付けられるのでしょうか、それとも退学させられてしまうのでしょうか。
「学校に行きたくない」という表現は一緒でも、その理由は一人一人違うのではないでしょうか。「学校に行きたくない」という生徒に対して、「学校には来るものだ」という論理で答えても、相手は納得しないように思います。納得させないまま意に従わせようとすれば、強い口調でせまるか、来なければ罰を与える、という手段が、てっとりばやいので、しばしば選ばれるように思います。しかし、それでは、目の前にいる生徒と学校もしくは先生との関係を変えることにはならないでしょう。関係が変わらなければ、そこにある「問題」の解決の糸口も見つからないように思います。
例として、「不登校」を挙げましたが、そのほかにも学校で当たり前とされて、生徒が納得せずに従わされていることは多いと思います。また、生徒と学校・先生の間で起こる事象を「○○問題」として、それに対するパターン的な対応がとられることも多いでしょう。こうした対応は、まるで医者と患者の関係のようです。患者が「頭が痛い」「体がだるい」というと、医者がそれを「風邪です」と診断して、処方箋を出す。患者は処方箋に従って出された薬を飲めば回復する。ノロウィルスとか、B型肝炎とか、患者の状態にいろいろ名前をつけては、それに対する処方箋を出される。教育現場においても、同じように一つ一つの事象に名前をつけ、それに対する決まった処方を出せば問題が解決するのでしょうか。優秀な医者はむやみに薬を出さないといいます。それは、一人一人の患者をよく診て、何が本当に必要なのかをその都度考えるからでしょう。教育の現場においても、問題だからすぐにそれに対応する処方をする、という姿勢でなく、もしくは同じ言葉で事象を語るのではなく、一つ一つの事象を新たな視点で見直す、という姿勢が必要なのかもしれません。
教育を語る言葉の病
私たちが教育について考えるとき、すでにある視点が存在し、その視点が教育に意味を与えるのと同時に制約も加わっているといえます。例えば、人間の在り方やその始まりを問うこと自体が、すでにそうした視点に基づいています。
その視点に基づき作られたのが学校制度です。教育的に意味があると考えられ、形をつけることが可能なものを選んで組織化したものです。その視点から外れたものは、学校制度の中には組み込まれません。しかし、組み込まれなかったとしても、私たちに対する影響はあります。例えば、「地域ぐるみの子育て」ということが当てはまります。
教育を考えるとき、すぐに頭に浮かぶのは学校のあり方となりますが、学校はもともと、いく通りにもある考え方や感じ方の一つを形作っただけのものです。教育を考えるとき、どのような経緯を経て、その考え方や感じ方を選んだのか、という問いが必要でしょう。考えるべきテーマは、理想の教育ではなく、なぜその理想が語られるようになったかということだといえます。そのような視点に立てば、その理想を追うなかで、何を排除してきたかも見えてくるでしょう。
例えば、「持つ」という語り方があります。教師の言うことを理解する力をもっている、良い性格を持っている、というときの「持つ」です。教育を語る上で、「持つ」という言葉を使えば、それは同時に「持っていない」世界を作っていることになります。そして、「もっていない」世界は排除し、「持つ」もしくは「持たせるようにする」ことを対象として教育について語ることになるのではないでしょうか。そして、「もっていない」ことは問題となります。学校に行く意欲を持っていない、学習する能力を持っていない、そうした言葉を無意識に使ってはいないだろうか。
こうした言葉は、何かを語る際には便利です。語る対象に付随するいろいろな歴史や状況も含めて、包括的に相手に伝わっていると思えます。同じようなこととして、「問題」とか「難しい子供」などという言葉も挙げられるでしょう。しかし、そのような言葉で物事を語ろうとしたとき、もしくは語られるのを聞いたとき、私たちはそのまま受け止めるべきではないのかもしれません。なぜ、そのことを問題と思うようになったのか、なぜ相手はこの言葉を使っているのだろうか、そのプロセスに目を向けることが、私たちのとらわれている近代のまなざしから脱却するひとつの手段だといえます。
その視点に基づき作られたのが学校制度です。教育的に意味があると考えられ、形をつけることが可能なものを選んで組織化したものです。その視点から外れたものは、学校制度の中には組み込まれません。しかし、組み込まれなかったとしても、私たちに対する影響はあります。例えば、「地域ぐるみの子育て」ということが当てはまります。
教育を考えるとき、すぐに頭に浮かぶのは学校のあり方となりますが、学校はもともと、いく通りにもある考え方や感じ方の一つを形作っただけのものです。教育を考えるとき、どのような経緯を経て、その考え方や感じ方を選んだのか、という問いが必要でしょう。考えるべきテーマは、理想の教育ではなく、なぜその理想が語られるようになったかということだといえます。そのような視点に立てば、その理想を追うなかで、何を排除してきたかも見えてくるでしょう。
例えば、「持つ」という語り方があります。教師の言うことを理解する力をもっている、良い性格を持っている、というときの「持つ」です。教育を語る上で、「持つ」という言葉を使えば、それは同時に「持っていない」世界を作っていることになります。そして、「もっていない」世界は排除し、「持つ」もしくは「持たせるようにする」ことを対象として教育について語ることになるのではないでしょうか。そして、「もっていない」ことは問題となります。学校に行く意欲を持っていない、学習する能力を持っていない、そうした言葉を無意識に使ってはいないだろうか。
こうした言葉は、何かを語る際には便利です。語る対象に付随するいろいろな歴史や状況も含めて、包括的に相手に伝わっていると思えます。同じようなこととして、「問題」とか「難しい子供」などという言葉も挙げられるでしょう。しかし、そのような言葉で物事を語ろうとしたとき、もしくは語られるのを聞いたとき、私たちはそのまま受け止めるべきではないのかもしれません。なぜ、そのことを問題と思うようになったのか、なぜ相手はこの言葉を使っているのだろうか、そのプロセスに目を向けることが、私たちのとらわれている近代のまなざしから脱却するひとつの手段だといえます。
教育的まなざしの増殖
学校を通じて教育することは本当によいことなのだろうか。勉強をして新しいことを学ぶことは正しいことなのだろうか。その答えはわからないけれども、知識を得ることで、自分と世界のかかわり方が変わる、ということは確かだといえそうです。
今の日本では、学校で義務的に学ぶ言語は日本語と英語です。これらの言語を使えるようになることは、日本と英語の通じる国で生きていくうえで必要なことのひとつです。つまり、言語を学ぶということは、単に能力を向上させるということ以外に、その国の社会や制度の体系、文化を理解する、という意味も含まれているといえます。植民地で支配国の言語を学ばせたり、多数の民族のいる国で統一の言葉を設定するのには、言語教育にこうした影響力があるためです。私たちは言語なしに思考できないことを考えると、言語を学ぶことは考え方や感じ方までも規定してしまうともいえます。
教育の意図とは別の作用がでることも考えられるでしょう。教育を薬に例えると、がん細胞を抑えようとして投与した薬によって、確かにがん細胞は減少したけれども、副作用として免疫力が低下する、ということもあるでしょう。社会的な要請に基づき教育をしたけれども、そのことにより思わぬ結果までも招いてしまう、ということです。良かれと思ってしたことが、すべて良い結果になる、ということはありえないでしょう。おそらく何かしらの副作用が相手には生じてきます。すべてを完璧にはできない。教育する側は、そのことに自覚的でなければ、取り返しのつかない事態を招くかもしれません。
私たちは教育を通じて、どういったことを実現しようとしているのでしょうか。昔と今を大きく隔ててることとして、科学の進歩があげられます。そこに今の社会の精神の特徴があります。科学とは、わからないものはXと置き、世界を理解しようとすることです。世界を理解するものは、世界を作り出すこともできるでしょう。完全に世界を理解しているものは、昔は神様だとされていました。科学はその神様に成り代わるものなのです。神様は完全です。したがって、科学の精神を背景とした教育の目標とは、その完全な世界を実現することと言えるかもしれません。しかし、いくら進歩を続けても、完全な世界は実現しそうにありません。そこで、私たちは、科学ができる前の状態に着目しました。人間の手が加わっていない自然な状態こそ、完全な世界であると考えたのです。その自然な状態に還ることが、教育の新たな目標になりました。しかし、忘れてはいけないのは、還るべき起源もまた、人間が作り出したという事実です。
アヴェロンの野生児の話は、「教育の限界」と「教育の目標とする状態」について再考する材料となりそうです。教育の結果、思うような効果が現れない場合に、その原因が相手にあるのか、教育する側にあるのかはわかりません。また、何を実現すべき状態とするかは、時代によって変わります。教育する際には、教育のもつ影響力の大きさを十分に意識し、その教育行為がもつ良い面と悪い面について考える必要があるといえます。
今の日本では、学校で義務的に学ぶ言語は日本語と英語です。これらの言語を使えるようになることは、日本と英語の通じる国で生きていくうえで必要なことのひとつです。つまり、言語を学ぶということは、単に能力を向上させるということ以外に、その国の社会や制度の体系、文化を理解する、という意味も含まれているといえます。植民地で支配国の言語を学ばせたり、多数の民族のいる国で統一の言葉を設定するのには、言語教育にこうした影響力があるためです。私たちは言語なしに思考できないことを考えると、言語を学ぶことは考え方や感じ方までも規定してしまうともいえます。
教育の意図とは別の作用がでることも考えられるでしょう。教育を薬に例えると、がん細胞を抑えようとして投与した薬によって、確かにがん細胞は減少したけれども、副作用として免疫力が低下する、ということもあるでしょう。社会的な要請に基づき教育をしたけれども、そのことにより思わぬ結果までも招いてしまう、ということです。良かれと思ってしたことが、すべて良い結果になる、ということはありえないでしょう。おそらく何かしらの副作用が相手には生じてきます。すべてを完璧にはできない。教育する側は、そのことに自覚的でなければ、取り返しのつかない事態を招くかもしれません。
私たちは教育を通じて、どういったことを実現しようとしているのでしょうか。昔と今を大きく隔ててることとして、科学の進歩があげられます。そこに今の社会の精神の特徴があります。科学とは、わからないものはXと置き、世界を理解しようとすることです。世界を理解するものは、世界を作り出すこともできるでしょう。完全に世界を理解しているものは、昔は神様だとされていました。科学はその神様に成り代わるものなのです。神様は完全です。したがって、科学の精神を背景とした教育の目標とは、その完全な世界を実現することと言えるかもしれません。しかし、いくら進歩を続けても、完全な世界は実現しそうにありません。そこで、私たちは、科学ができる前の状態に着目しました。人間の手が加わっていない自然な状態こそ、完全な世界であると考えたのです。その自然な状態に還ることが、教育の新たな目標になりました。しかし、忘れてはいけないのは、還るべき起源もまた、人間が作り出したという事実です。
アヴェロンの野生児の話は、「教育の限界」と「教育の目標とする状態」について再考する材料となりそうです。教育の結果、思うような効果が現れない場合に、その原因が相手にあるのか、教育する側にあるのかはわかりません。また、何を実現すべき状態とするかは、時代によって変わります。教育する際には、教育のもつ影響力の大きさを十分に意識し、その教育行為がもつ良い面と悪い面について考える必要があるといえます。
教育的まなざしの誕生
例えば、私が教育について語るとき、そこに教育的まなざし、というものが存在します。まなざしは、構え、と言い換えてもよいかもしれません。その構えは、生まれた国やその社会でのルールや多くの人が納得する考え方によってある程度決まってくるでしょう。と、同時に、私がどのような体験をしてきたかによっても変わってくるでしょう。したがって、そのまなざしは常に変化しているものであるといえます。つまり、今教育について、私が当たり前と考えていることは、別の時には当たり前でない可能性もあるということです。
例えば、先生が黒板に字を書けば、私はそれをノートに書き写すことを当たり前と考えます。ともすれば、ノートに書き写すだけで授業が終わることもありました。そのときは、それで授業を受けた、という充実感を持っていたのかもしれません。しかし、今から振り返れば、書き写すだけならプリントをもらえばよかったとも考えられます。別の例で言えば、授業はいすに座ってみんなが前を向いて受けるものだと考えがちです。しかし、江戸時代の寺子屋の様子を描いた挿絵をみると、皆好きな方向を向いて、正座をしています。つまり、板書を写すことも、いすに座って授業を受けることも、今の学校はそうあるべきだという考え方をもとにして、当たり前と考えられているといえます。
こうした考え方を支える見方には、3つのまなざしがあるといわれています。
ひとつは、「発見・分類・一望のまなざし」です。例えば、コロンブスはアメリカ大陸を「発見」しましたが、アメリカ大陸もそこに住んでいた人も、コロンブスが見つける前から存在していました。しかし、それらは、コロンブスが見つけた途端に、「アメリカ大陸」であるとコロンブスに分類されてしまいます。その瞬間に、あたかもアメリカ大陸はコロンブスのもののようになってしまっています。
もうひとつは、「観察・計測・記録のまなざし」です。先のように発見した新しいものを、私たちは観察し、記録します。その際、私たちは一定の尺度をあて計測します。そして、計測し得るもののみをまなざしの対象とします。
もうひとつが、「製作・計画・作用のまなざし」です。先のように観察し得るものは、また製作し得るものであるという考えにいたります。
このようなまなざしは、教育を考える上でどのような影響を与えるでしょうか。ひとつは、相手は自分の思い通りに育っていくものだ、という思い込みにつながるということでしょう。そして、思い通りにならないことは、問題だと捉えてしまうかもしれません。しかし、思い通りにならないこともあるという限界を知る必要があるでしょう。もうひとつは、自分は問題から一歩はなれた存在である、と考え勝ちになることでしょう。問題と考えられる事態は相手と自分とのお互いの関係の中で生まれているものだ、という認識をもち、自分のあり方についても常に問いかけを忘れない姿勢が必要であるといえます。
例えば、先生が黒板に字を書けば、私はそれをノートに書き写すことを当たり前と考えます。ともすれば、ノートに書き写すだけで授業が終わることもありました。そのときは、それで授業を受けた、という充実感を持っていたのかもしれません。しかし、今から振り返れば、書き写すだけならプリントをもらえばよかったとも考えられます。別の例で言えば、授業はいすに座ってみんなが前を向いて受けるものだと考えがちです。しかし、江戸時代の寺子屋の様子を描いた挿絵をみると、皆好きな方向を向いて、正座をしています。つまり、板書を写すことも、いすに座って授業を受けることも、今の学校はそうあるべきだという考え方をもとにして、当たり前と考えられているといえます。
こうした考え方を支える見方には、3つのまなざしがあるといわれています。
ひとつは、「発見・分類・一望のまなざし」です。例えば、コロンブスはアメリカ大陸を「発見」しましたが、アメリカ大陸もそこに住んでいた人も、コロンブスが見つける前から存在していました。しかし、それらは、コロンブスが見つけた途端に、「アメリカ大陸」であるとコロンブスに分類されてしまいます。その瞬間に、あたかもアメリカ大陸はコロンブスのもののようになってしまっています。
もうひとつは、「観察・計測・記録のまなざし」です。先のように発見した新しいものを、私たちは観察し、記録します。その際、私たちは一定の尺度をあて計測します。そして、計測し得るもののみをまなざしの対象とします。
もうひとつが、「製作・計画・作用のまなざし」です。先のように観察し得るものは、また製作し得るものであるという考えにいたります。
このようなまなざしは、教育を考える上でどのような影響を与えるでしょうか。ひとつは、相手は自分の思い通りに育っていくものだ、という思い込みにつながるということでしょう。そして、思い通りにならないことは、問題だと捉えてしまうかもしれません。しかし、思い通りにならないこともあるという限界を知る必要があるでしょう。もうひとつは、自分は問題から一歩はなれた存在である、と考え勝ちになることでしょう。問題と考えられる事態は相手と自分とのお互いの関係の中で生まれているものだ、という認識をもち、自分のあり方についても常に問いかけを忘れない姿勢が必要であるといえます。
教育文化とは何か
教育文化とは、教育を受ける人に、どのような教育をするかということを決める基準となるものです。
教育とは、社会で生活するうえで必要な知識を得たり、技術に習熟するために支援をすることです。
文化とは、その社会で好ましいとされる行動や考え方を意味します。
その文化をどのように伝達するかも、文化が異なれば違ってきます。
文化は、たとえば親から子と受け継がれるものですので、まず歴史的に見ていく必要があります。
また、文化は社会において作られていくものですので、社会についても見ていく必要があります。
歴史的に教育文化を見ていきますと、教育文化は、それを見る人と見られるものがお互いに作用しあって語られるものであるといえます。たとえば、ゆとり教育について語る場合、これを受けていない人と受けた人ではその語られ方に違いが出てくるでしょう。つまり、一方だけを「正しい」とか「間違っている」とは論じられないものであるといえます。最近、ニュースでは「教師が悪い」「文科省がいけない」などと語られますが、その語り口以外の視点を見る側が意識する必要があるといえます。さらに言えば、「教育することは善いことだ」という考え方さえ、別の視点で考えてみる必要があるといえます。
社会的に教育文化を見るうえでは、次の3つの視点が考えられます。一つは、教育的意図どおりの方向に相手の態度・行動が変化した場合、もうひとつは教育的意図とは反対に相手の態度・行動が変化した場合、もうひとつはいずれの変化も見られない場合です。このように考えた場合、教育をする人は常に教師、学校とは限りません。親や地域社会の影響も考える必要があります。また、こちらの意図とは違った反応を示すのですから、相手の変化を主とした視点で観察し、考察する必要があります。教育する側の視点ではなく、教育される側の視点です。さらに言えば、どの程度対象に近づいてみるかをいう距離も意識しておく必要があるでしょう。一人の親として子供をみる距離でみるのか、もっと距離をとって日本とアメリカの文化の違いからみるのか、その中間、たとえば日本のなかでの代々医者をしている家庭と花屋の家庭の違いなど、各家庭が属している集団の違いをみていくのか。
つまり、教育文化は、見る人と語る対象の関係によって変化するものであることを踏まえ、自分の受けてきた教育を見つめなおし、対象の文化的背景との関係を含めて見ていく必要があるということです。
教育とは、社会で生活するうえで必要な知識を得たり、技術に習熟するために支援をすることです。
文化とは、その社会で好ましいとされる行動や考え方を意味します。
その文化をどのように伝達するかも、文化が異なれば違ってきます。
文化は、たとえば親から子と受け継がれるものですので、まず歴史的に見ていく必要があります。
また、文化は社会において作られていくものですので、社会についても見ていく必要があります。
歴史的に教育文化を見ていきますと、教育文化は、それを見る人と見られるものがお互いに作用しあって語られるものであるといえます。たとえば、ゆとり教育について語る場合、これを受けていない人と受けた人ではその語られ方に違いが出てくるでしょう。つまり、一方だけを「正しい」とか「間違っている」とは論じられないものであるといえます。最近、ニュースでは「教師が悪い」「文科省がいけない」などと語られますが、その語り口以外の視点を見る側が意識する必要があるといえます。さらに言えば、「教育することは善いことだ」という考え方さえ、別の視点で考えてみる必要があるといえます。
社会的に教育文化を見るうえでは、次の3つの視点が考えられます。一つは、教育的意図どおりの方向に相手の態度・行動が変化した場合、もうひとつは教育的意図とは反対に相手の態度・行動が変化した場合、もうひとつはいずれの変化も見られない場合です。このように考えた場合、教育をする人は常に教師、学校とは限りません。親や地域社会の影響も考える必要があります。また、こちらの意図とは違った反応を示すのですから、相手の変化を主とした視点で観察し、考察する必要があります。教育する側の視点ではなく、教育される側の視点です。さらに言えば、どの程度対象に近づいてみるかをいう距離も意識しておく必要があるでしょう。一人の親として子供をみる距離でみるのか、もっと距離をとって日本とアメリカの文化の違いからみるのか、その中間、たとえば日本のなかでの代々医者をしている家庭と花屋の家庭の違いなど、各家庭が属している集団の違いをみていくのか。
つまり、教育文化は、見る人と語る対象の関係によって変化するものであることを踏まえ、自分の受けてきた教育を見つめなおし、対象の文化的背景との関係を含めて見ていく必要があるということです。
近代に特徴的な教育文化について、特に問題となると考えられる点について
近代に特徴的な教育文化について、特に問題となると考えられる点は、「教育について考え語る際に、自分をその状況の外に置き、自分への問いかけを忘れてしまいがちになること」であるといえます。
そこで、近代の教育文化を支える考え方や見方を、「まなざし」と呼び、その特徴を見ていきます。
一つは、「発見・分類・一望のまなざし」です。これは、発見したものを自分の知識世界に網羅し、自分の頭の中に地図あるいは知識の一覧表を作り上げようとするまなざしです。
このまなざしは、「見ることは知ることである」「発見されて初めて存在を認められる」という教育文化のパターンを生む背景となっています。
同時に、「見えないものは知りえないものとして問題にしない」、「発見された対象は、発見者が名付け、扱うことができる」という考え方を生み出す背景となります。
もう一つは、「観察・計測・記録のまなざし」です。これは、新しい世界で出会った、それまでは未知であったものを、観察し計り、記録することで、発見したものをより正確にしようとする考え方です。
このまなざしは、「相手と距離を置き客観的に観察する」「あらゆるものを均質な単位によって換算する」「見たのもを記録し、蓄積する」という教育文化のパターンを生む背景となっています。
同時に、「自らを観察者として状況の外の立場に設定する」「生徒の理解や発達を計量可能な能力のみに限定して判断する」「相手との関係性よりも、相手を観察対象として記録することを第一に考える」という考えを生み出す背景となります。
もう一つは「制作・計画・作用のまなざし」です。これは、先に挙げたような「まなざし」に基づけば、人間を自在に制作することが可能であるとするまなざしです。
このまなざしは、「人間の成長発達の過程は人間によって統御することが可能である」という教育文化のパターンを生む背景となっています。
同時に、「計画どおりにいかないということを、失敗や欠陥としてその相手を切り捨てる。」という考えを生み出す背景となります。
上記で見てきたような「まなざし」には、教育は自分と相手との相互の関わりのなかで営まれるものである、という視点が欠けています。それは、人間が人間を作るということの限界に対するセンスが鈍くなることも意味しています。このことが、近代に特徴的な教育文化の問題であるといえます。
そこで、近代の教育文化を支える考え方や見方を、「まなざし」と呼び、その特徴を見ていきます。
一つは、「発見・分類・一望のまなざし」です。これは、発見したものを自分の知識世界に網羅し、自分の頭の中に地図あるいは知識の一覧表を作り上げようとするまなざしです。
このまなざしは、「見ることは知ることである」「発見されて初めて存在を認められる」という教育文化のパターンを生む背景となっています。
同時に、「見えないものは知りえないものとして問題にしない」、「発見された対象は、発見者が名付け、扱うことができる」という考え方を生み出す背景となります。
もう一つは、「観察・計測・記録のまなざし」です。これは、新しい世界で出会った、それまでは未知であったものを、観察し計り、記録することで、発見したものをより正確にしようとする考え方です。
このまなざしは、「相手と距離を置き客観的に観察する」「あらゆるものを均質な単位によって換算する」「見たのもを記録し、蓄積する」という教育文化のパターンを生む背景となっています。
同時に、「自らを観察者として状況の外の立場に設定する」「生徒の理解や発達を計量可能な能力のみに限定して判断する」「相手との関係性よりも、相手を観察対象として記録することを第一に考える」という考えを生み出す背景となります。
もう一つは「制作・計画・作用のまなざし」です。これは、先に挙げたような「まなざし」に基づけば、人間を自在に制作することが可能であるとするまなざしです。
このまなざしは、「人間の成長発達の過程は人間によって統御することが可能である」という教育文化のパターンを生む背景となっています。
同時に、「計画どおりにいかないということを、失敗や欠陥としてその相手を切り捨てる。」という考えを生み出す背景となります。
上記で見てきたような「まなざし」には、教育は自分と相手との相互の関わりのなかで営まれるものである、という視点が欠けています。それは、人間が人間を作るということの限界に対するセンスが鈍くなることも意味しています。このことが、近代に特徴的な教育文化の問題であるといえます。
感覚が失われることの生物学的意味について
身体にとって感覚の生物学的意義とは、感覚を通じて身体がおかれた環境を正確に判断し、正しい行動に結びつけることであると言えます。したがって、感覚が失われることの生物学的意味とは、単純に「感じが薄い」ということではなく、そうした判断を損ない、「環境に適応するための正しい行動をする際に大きな影響を与える」ことだと言えます。
通常わたしたちは物があれば、見たり、聞いたり、触ったりすることによって、それが何であり、それがどこにあり、どのような形をしているかを判断することができます。また、寒ければ厚着をしたり、暑ければ服を脱ぐという行動をとります。これらはいずれも身体にとって外的環境の情報に関わる感覚ですが、食べ過ぎればおなかが痛くなるように、身体の内部環境についての情報も感覚を通じて知ることができます。感覚が失われることとは、こうした判断ができなくなり、結果適切な行動ができなくなることを意味します。
さらに言えば、温度感覚が失われると火傷につながる危険性が生じますし、痛覚が失われると自らの体に危害が加わっているのに気付かない、という問題が生じます。触覚や圧覚を失えば、細かい作業をしにくくなると考えられます。こうした表在感覚以外にも、脚についての運動感覚や位置感覚といった深部感覚が失われることが転倒の原因になることも考えられます。平衡感覚が失われれば姿勢を正しく保つことが困難になるでしょう。
このように感覚を失うことは、ある感覚を感じなくなるということばかりではなく、運動機能障害という様式で現れてくることもあります。
感覚は、意識に上りさまざまな精神活動と結びつきます。視覚情報は最後には記憶と照らし合わせてそれがなんと言う名前を持った物体であるか、という判断と結びつきます。また、聴覚情報は相手の言葉が何を意味しているのかという理解に結びつきます。
このように、ヒトは耳で言葉を聞いて、文字を見て言語を習得し、話す・書くという行動につなげます。そればかりではなく、習得した言語を用いて物事を考えたり、判断したりするような行動をとります。
言語を用いたコミュニケーションはこれらの感覚機能に依存しているといえます。したがって、これら感覚を失うことはこうしたコミュニケーションや思考にも支障をきたすことを意味すると言えます。
通常わたしたちは物があれば、見たり、聞いたり、触ったりすることによって、それが何であり、それがどこにあり、どのような形をしているかを判断することができます。また、寒ければ厚着をしたり、暑ければ服を脱ぐという行動をとります。これらはいずれも身体にとって外的環境の情報に関わる感覚ですが、食べ過ぎればおなかが痛くなるように、身体の内部環境についての情報も感覚を通じて知ることができます。感覚が失われることとは、こうした判断ができなくなり、結果適切な行動ができなくなることを意味します。
さらに言えば、温度感覚が失われると火傷につながる危険性が生じますし、痛覚が失われると自らの体に危害が加わっているのに気付かない、という問題が生じます。触覚や圧覚を失えば、細かい作業をしにくくなると考えられます。こうした表在感覚以外にも、脚についての運動感覚や位置感覚といった深部感覚が失われることが転倒の原因になることも考えられます。平衡感覚が失われれば姿勢を正しく保つことが困難になるでしょう。
このように感覚を失うことは、ある感覚を感じなくなるということばかりではなく、運動機能障害という様式で現れてくることもあります。
感覚は、意識に上りさまざまな精神活動と結びつきます。視覚情報は最後には記憶と照らし合わせてそれがなんと言う名前を持った物体であるか、という判断と結びつきます。また、聴覚情報は相手の言葉が何を意味しているのかという理解に結びつきます。
このように、ヒトは耳で言葉を聞いて、文字を見て言語を習得し、話す・書くという行動につなげます。そればかりではなく、習得した言語を用いて物事を考えたり、判断したりするような行動をとります。
言語を用いたコミュニケーションはこれらの感覚機能に依存しているといえます。したがって、これら感覚を失うことはこうしたコミュニケーションや思考にも支障をきたすことを意味すると言えます。
水曜日, 11月 08, 2006
小学校校長のリーダーシップのエスノグラフィー
小学校校長のリーダーシップのエスノグラフィー
篠原 清昭
教育経営学研究紀要、1997、第4号、77-84
「エスノグラフィー」と呼ばれる研究方法について知るため、いくつかの研究発表を読んでみる。
「学校文化」というが、「文化」をどう描けばよいかまだつかめていない。
どのような形式で書いていけばいいのか、まずは内容よりも構成に着目してみてみることにする。
最初に、対象のプロフィール、状況(場面)説明、課題を挙げている。
次に、行動分析に入る。行動分析は、「時間・空間」と「ワーク」の二つで行っている。
前者は、いつ、どこにどのくらいいたか、という分析で、その割合を出している。
後者は、どういった作業をしているかを具体例を交え記録し、その割合を出している。
このとき、校長のリーダーシップスタイルとワークの関係を解釈している。
次に、ワーク分析のうち、コミュニケーションに焦点をあて、その意味を分析している。
ここでも、リーダーシップとコミュニケーションの関係を解釈している。
ただし、その分類の根拠となる理論については説明がない。
分類の方法や、どのような事象を捉えてそのような分類にしたのか、については調べる必要がある。
また、今回の観察からは、観察者のアクションがどのように影響したかという記述がないことから、消極的参与観察のスタンスが取られていると推察する。
最後に、企画会議でのフィールドノーツが示される。ここでは、時間を左端に、発言者はその横に、観察記録(会話など)がその左に記載されている。会議などを録音したものを後で書き起こしているのかもしれないが、音声だけでは同一人物かどうかはわからないので、メモは不可欠だろう。次に、会話の流れ(文脈)を解釈するが、このとき会話の内容と発言した時刻を一緒に引用している。また、対象である校長の発言比率とその意味の割合を示している。
また、時折「省察インタビューより」として、後のインタビュー内容から、校長がどのような意図でそうした行動を行ったかをはさんでいる。
参考図書として、PTA広報誌や書籍「校長のリーダーシップ」を挙げている。http://www.bk1.co.jp/product/1446291
篠原 清昭
教育経営学研究紀要、1997、第4号、77-84
「エスノグラフィー」と呼ばれる研究方法について知るため、いくつかの研究発表を読んでみる。
「学校文化」というが、「文化」をどう描けばよいかまだつかめていない。
どのような形式で書いていけばいいのか、まずは内容よりも構成に着目してみてみることにする。
最初に、対象のプロフィール、状況(場面)説明、課題を挙げている。
次に、行動分析に入る。行動分析は、「時間・空間」と「ワーク」の二つで行っている。
前者は、いつ、どこにどのくらいいたか、という分析で、その割合を出している。
後者は、どういった作業をしているかを具体例を交え記録し、その割合を出している。
このとき、校長のリーダーシップスタイルとワークの関係を解釈している。
次に、ワーク分析のうち、コミュニケーションに焦点をあて、その意味を分析している。
ここでも、リーダーシップとコミュニケーションの関係を解釈している。
ただし、その分類の根拠となる理論については説明がない。
分類の方法や、どのような事象を捉えてそのような分類にしたのか、については調べる必要がある。
また、今回の観察からは、観察者のアクションがどのように影響したかという記述がないことから、消極的参与観察のスタンスが取られていると推察する。
最後に、企画会議でのフィールドノーツが示される。ここでは、時間を左端に、発言者はその横に、観察記録(会話など)がその左に記載されている。会議などを録音したものを後で書き起こしているのかもしれないが、音声だけでは同一人物かどうかはわからないので、メモは不可欠だろう。次に、会話の流れ(文脈)を解釈するが、このとき会話の内容と発言した時刻を一緒に引用している。また、対象である校長の発言比率とその意味の割合を示している。
また、時折「省察インタビューより」として、後のインタビュー内容から、校長がどのような意図でそうした行動を行ったかをはさんでいる。
参考図書として、PTA広報誌や書籍「校長のリーダーシップ」を挙げている。http://www.bk1.co.jp/product/1446291
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