1770年代のドイツの教科書を見ますと、まず身体に関する言葉を覚え、次に教師の言葉に反応して、指示された身体の箇所を指す、という授業があったようです。教師の言葉に即座に反応する子供の身体をつくること、が意図された教科書です。また、その少しあとの教科書を見ますと、人の顔、姿、身体を見て、相手の人となりを解読する術について書いてあります。つまり、相手の身体に意味が、言葉が刻まれているという考えがそこにあります。そして、読み取るべき言葉は、人間が作った「文明」的なものでなく、相手が本質的に持っている「自然」なものでした。どちらの教科書にも共通することは、言葉「と」身体は関連している、という考えです。
心技一体、という言葉があります。心と技の両方を磨かなければいけない、という武道の教えです。テニスなどのスポーツにおいても、メンタルタフネス、平常心が必要とされます。心と身体は関連している、ということです。ですので、一流のスポーツ選手は、ルーティーンの動作をすることで、平常心を保つようにする人が多いのだと思います。
最近、「心の教育」という言葉をききます。字面から、心に働きかける教育、ということでしょうか。一方で、「躾」という言葉があります。身体を美しく整えることです。また、修身、という授業も昔はありました。身を修める、と書きます。こうした字面だけをみると、教育において注目されているのは、身体から心へと移っているように見えます。しかし、「心の教育」という言葉からは、そうした言葉と身体の関連性が見えてこないように見えます。身体であれば、そこに在るものであり、コントロールが可能ですが、心という形のないものをコントロールすることは難しいといえます。今日の学校制度は、近代の科学精神を背景として、合理性と効率性の発揮を目的に整備されていると言われています。形のあるものについては、合理性や効率性の追求はできそうですが、心という形のないものについてそうした追求はできそうに無いように思えます。それにも関わらず、旧来の学校制度を持って、心の教育に取り組もうとすれば、どこかでうまくいかない箇所がでてくるように思えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿