学校を通じて教育することは本当によいことなのだろうか。勉強をして新しいことを学ぶことは正しいことなのだろうか。その答えはわからないけれども、知識を得ることで、自分と世界のかかわり方が変わる、ということは確かだといえそうです。
今の日本では、学校で義務的に学ぶ言語は日本語と英語です。これらの言語を使えるようになることは、日本と英語の通じる国で生きていくうえで必要なことのひとつです。つまり、言語を学ぶということは、単に能力を向上させるということ以外に、その国の社会や制度の体系、文化を理解する、という意味も含まれているといえます。植民地で支配国の言語を学ばせたり、多数の民族のいる国で統一の言葉を設定するのには、言語教育にこうした影響力があるためです。私たちは言語なしに思考できないことを考えると、言語を学ぶことは考え方や感じ方までも規定してしまうともいえます。
教育の意図とは別の作用がでることも考えられるでしょう。教育を薬に例えると、がん細胞を抑えようとして投与した薬によって、確かにがん細胞は減少したけれども、副作用として免疫力が低下する、ということもあるでしょう。社会的な要請に基づき教育をしたけれども、そのことにより思わぬ結果までも招いてしまう、ということです。良かれと思ってしたことが、すべて良い結果になる、ということはありえないでしょう。おそらく何かしらの副作用が相手には生じてきます。すべてを完璧にはできない。教育する側は、そのことに自覚的でなければ、取り返しのつかない事態を招くかもしれません。
私たちは教育を通じて、どういったことを実現しようとしているのでしょうか。昔と今を大きく隔ててることとして、科学の進歩があげられます。そこに今の社会の精神の特徴があります。科学とは、わからないものはXと置き、世界を理解しようとすることです。世界を理解するものは、世界を作り出すこともできるでしょう。完全に世界を理解しているものは、昔は神様だとされていました。科学はその神様に成り代わるものなのです。神様は完全です。したがって、科学の精神を背景とした教育の目標とは、その完全な世界を実現することと言えるかもしれません。しかし、いくら進歩を続けても、完全な世界は実現しそうにありません。そこで、私たちは、科学ができる前の状態に着目しました。人間の手が加わっていない自然な状態こそ、完全な世界であると考えたのです。その自然な状態に還ることが、教育の新たな目標になりました。しかし、忘れてはいけないのは、還るべき起源もまた、人間が作り出したという事実です。
アヴェロンの野生児の話は、「教育の限界」と「教育の目標とする状態」について再考する材料となりそうです。教育の結果、思うような効果が現れない場合に、その原因が相手にあるのか、教育する側にあるのかはわかりません。また、何を実現すべき状態とするかは、時代によって変わります。教育する際には、教育のもつ影響力の大きさを十分に意識し、その教育行為がもつ良い面と悪い面について考える必要があるといえます。
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