「不登校」が問題とされている。公立中学校で「不登校」と認定された子供が高等学校に入ってきたとき、二つの道がある。ひとつは入学式にも出席せずそのまま学校にも来ないパターン、もうひとつは、学校で活躍の場や友人を見出すパターンだ。
前者の例でいえば、高校の入学試験において生徒やその家族の意思を確認しているが、入学式直後の集団宿泊訓練には参加できず、そのまま学校にも来ないという事例があった。ここで問題とされるのは、「学校に来ない」ということと、「集団の中で生活できない」ということだ。
なぜこれらが問題となるのか。まず1つは、学校は学校の外以外のことについてはコントロールしづらい、という点が上げられる。学校に来ないことには教育的営為ができない、学校という敷地はそのまま学校の限界となっている、ということだ。
卑近な例えで言えば、学校は中華料理屋と同じであり、店に来てくれないことには料理がだせないのである。熱心な教師は家まで行って対応するだろうが、それは本筋ではなく、中華料理屋の出前と同じオプショナルな仕事である。
つまり、「学校にこない」ことが問題になる背景には、学校は効率的に知識を伝える機関である、という考えが見える。
もう1つは、学校は「集団で生活する能力を身に付けさせることが期待されているという認識があることだ。単に知識を得るだけであれば、教科書を読めばよく、先生の話を聞くだけなら通信講座を聞けば良い。しかし、クラスメートと一緒の空間で、コミュニケーションをとりながら授業を受け、行事に参加する、という体験が重視されているために、「集団生活ができない」ことが問題になるのだ。
こうした認識に立ったとき、不登校「問題」をどのように解釈だろうか。子供の視点に立てば、「知識を得るだけなら自分で勉強したい」、「みんなとあわせるのは苦痛だから一人で家にいたい」ということになるだろう。こうした子供たちに学校はどのようなアプローチや工夫が必要になるのだろうか。それは、「学校でしか体験できないこと」ということに、教師が自覚的になることであるといえる。
学校が特異的であるのは、同年代の子供が同じ空間で長時間生活する、ということがまず挙げられる。この仕掛けは、自分の考えを常に相対的に把握するために有意に働く。また、利害関係なく一緒に何かを懸命にすることは、協調して何かを行うことに対する抵抗を軽減したり肯定的に解釈する土台となるだろう。こうした価値観は、将来社会に出るうえで有意だ。なぜなら、社会とは協調して価値を生み出す世界であるからだ。
もう1つの不登校のパターンは、高校で活躍の場や友人を見出すパターンであった。実際に、インタビューした子供が昔は不登校だったが今は友達がいて学校に来るのが楽しい、とか、先生のサポートを受けながら国公立大学に合格することができた、テニス部でレギュラーになることを目標に頑張っている、など、中学生のときには不登校だったことがわからないくらいに、意欲的に学校生活に取り組む子供がいる。
このとき、問題となるのは中学生の時は、学校に「活躍の場がなく」「友達がいなく」「先生のサポートがない」ということであろう。心理学者マズローによれば、人間の欲求は段階的に生まれ、それは生存(食欲、睡眠欲)、安全(いじめられない)、親和(友達がいる)、自己顕示(自分の活躍の場がある)、自己実現(将来の目標を見出す、自分の生きる目的を自覚する)の順であるという。こどもにとって、学校がそうした欲求を喚起し満たせる場所であったのかどうか、ということが不登校問題の背景に在るといえる。
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