金曜日, 11月 24, 2006

教育文化臨床と言語

「学校に行きたくない」という気持ちを持つ生徒は「問題」なのでしょうか。
私が中高生だった1980年代では、「学校に行きたくない」という気持ちをもつことは問題視されず、それに伴う行動、意図的な遅刻やサボりが発見されたとき、それを問題として学校からの処罰や、先生からの注意を受けました。
現在の2000年代の中学高校でも、同じ気持ちを持つ生徒はいるでしょうし、その気持ちに沿った行動をとることを問題とし、それへの対処も同じように行われていることが多いようです。
ただ、私のころと異なるのは、「学校に行きたくない」という気持ちを持つ生徒のうち、ある条件に該当する生徒は「不登校」という名称で呼ばれるようになったことです。「学校に行きたくない」という気持ちは同じなのに、「不登校」と呼ばれることで、学校に来ないこと、多くは「来れない」という表現を使いますが、そのことがそれ以上語られなくなっているように見えます。
しかし、「学校に行きたくない」という気持ちをもち、実際に学校に来ない生徒を「不登校」と呼んでも、それだけでは何も解決しないのではないでしょうか。さらに言えば、「不登校」と呼ばれない生徒の「学校に行きたくない」という気持ちは、どうなるのでしょう。その生徒が学校に来なくなれば、「不登校」として片付けられるのでしょうか、それとも退学させられてしまうのでしょうか。
「学校に行きたくない」という表現は一緒でも、その理由は一人一人違うのではないでしょうか。「学校に行きたくない」という生徒に対して、「学校には来るものだ」という論理で答えても、相手は納得しないように思います。納得させないまま意に従わせようとすれば、強い口調でせまるか、来なければ罰を与える、という手段が、てっとりばやいので、しばしば選ばれるように思います。しかし、それでは、目の前にいる生徒と学校もしくは先生との関係を変えることにはならないでしょう。関係が変わらなければ、そこにある「問題」の解決の糸口も見つからないように思います。
例として、「不登校」を挙げましたが、そのほかにも学校で当たり前とされて、生徒が納得せずに従わされていることは多いと思います。また、生徒と学校・先生の間で起こる事象を「○○問題」として、それに対するパターン的な対応がとられることも多いでしょう。こうした対応は、まるで医者と患者の関係のようです。患者が「頭が痛い」「体がだるい」というと、医者がそれを「風邪です」と診断して、処方箋を出す。患者は処方箋に従って出された薬を飲めば回復する。ノロウィルスとか、B型肝炎とか、患者の状態にいろいろ名前をつけては、それに対する処方箋を出される。教育現場においても、同じように一つ一つの事象に名前をつけ、それに対する決まった処方を出せば問題が解決するのでしょうか。優秀な医者はむやみに薬を出さないといいます。それは、一人一人の患者をよく診て、何が本当に必要なのかをその都度考えるからでしょう。教育の現場においても、問題だからすぐにそれに対応する処方をする、という姿勢でなく、もしくは同じ言葉で事象を語るのではなく、一つ一つの事象を新たな視点で見直す、という姿勢が必要なのかもしれません。

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