私たちが教育について考えるとき、すでにある視点が存在し、その視点が教育に意味を与えるのと同時に制約も加わっているといえます。例えば、人間の在り方やその始まりを問うこと自体が、すでにそうした視点に基づいています。
その視点に基づき作られたのが学校制度です。教育的に意味があると考えられ、形をつけることが可能なものを選んで組織化したものです。その視点から外れたものは、学校制度の中には組み込まれません。しかし、組み込まれなかったとしても、私たちに対する影響はあります。例えば、「地域ぐるみの子育て」ということが当てはまります。
教育を考えるとき、すぐに頭に浮かぶのは学校のあり方となりますが、学校はもともと、いく通りにもある考え方や感じ方の一つを形作っただけのものです。教育を考えるとき、どのような経緯を経て、その考え方や感じ方を選んだのか、という問いが必要でしょう。考えるべきテーマは、理想の教育ではなく、なぜその理想が語られるようになったかということだといえます。そのような視点に立てば、その理想を追うなかで、何を排除してきたかも見えてくるでしょう。
例えば、「持つ」という語り方があります。教師の言うことを理解する力をもっている、良い性格を持っている、というときの「持つ」です。教育を語る上で、「持つ」という言葉を使えば、それは同時に「持っていない」世界を作っていることになります。そして、「もっていない」世界は排除し、「持つ」もしくは「持たせるようにする」ことを対象として教育について語ることになるのではないでしょうか。そして、「もっていない」ことは問題となります。学校に行く意欲を持っていない、学習する能力を持っていない、そうした言葉を無意識に使ってはいないだろうか。
こうした言葉は、何かを語る際には便利です。語る対象に付随するいろいろな歴史や状況も含めて、包括的に相手に伝わっていると思えます。同じようなこととして、「問題」とか「難しい子供」などという言葉も挙げられるでしょう。しかし、そのような言葉で物事を語ろうとしたとき、もしくは語られるのを聞いたとき、私たちはそのまま受け止めるべきではないのかもしれません。なぜ、そのことを問題と思うようになったのか、なぜ相手はこの言葉を使っているのだろうか、そのプロセスに目を向けることが、私たちのとらわれている近代のまなざしから脱却するひとつの手段だといえます。
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