「ドラエもん」では、主人公のび太をはじめ彼の遊び仲間は、近所の空き地に集まり、ガキ大将ジャイアンの指揮下、毎日のように遊び、小さな事件の展開をその遊びの中で経験している姿が描かれる。
そこには子供たちの阿蘇儀をめぐって、さまざまな近所の大人も登場する。野球ボールを庭に打ち込まれてかんかんになってのび太達を叱るおじさんや、のび太の遊び仲間の親達も、地域の小さな生活空間の中に登場し、子供達に関わっている。このような共同体の空間で、子供なりの小さな社会があり、世間がある。自分の思い通りにはいかない社会の壁をのび太は経験する。
学校においては、のび太は0点を取ることが多く、先生からはよく叱られ、「できない子」としての認識が先生、友達、のび太の間で共有されている。そこにはすでに学校でのテストの結果が学校での価値である、という社会が描かれている。
家庭においては、のび太は一人っ子であり、教育熱心なママと、大らかなパパ、そして便利な道具をつぎつぎと出してくれるドラエもんに囲まれている。このとき、ドラえもんはまさに科学技術の進歩による社会の変化を象徴している。しかし、便利な道具であるのに、のび太はいつも「サボり」や「悪用」のために使い、結果的には期待した利便性を得ることがない。このことは、科学技術は進歩したが、それを扱う人間に不信が残る社会や、ファミコンゲームのように仮想社会での万能感を膨らませる子供の姿などを象徴しているといえる。
時代をさかのぼり、「サザエさん」のカツオに焦点をあてて考えてみると、カツオは対等な存在である中島くんとよく遊びに行く。しかし、その姿はカツオが野球の道具をもち、中島くんはメガネをかけて、やや冷静にカツオと応対していることが多い。このことは、子供は活発に遊んでいることに価値があった、ということを象徴しているともいえる。先生に成績のことで叱られた後の対応をみても、カツオが舌を出して軽く受け止めているのに対し、のび太は落ち込み時に涙を流す姿が頭に浮かぶ。つまりは、学校でのテストの成績の重要度がのび太の時代の方が高まったことを象徴しているシーンであるといえる。
家庭においては、のび太は年のいった波平を父に持ち、姉のサザエとその夫であるマスオ、両者の子供であるたらちゃんと同居する大家族の一員として描かれている。また、のび太のパパ・ママの役割と異なり、波平は威厳をもち厳格な躾をし、母親の舟が優しく隣でそれを眺め時になだめる役割を取っている。実際、のび太とその言葉遣いを比較してみると、カツオの方が敬語を使う頻度や大人としての言動を匂わせることが多いようにも感じる。
また、近所づきあいも多く、裏の家の人や、マスオの会社の同僚と家族ぐるみで付き合っている姿もよく描かれている。カツオをはじめとした子供は、こうした大家族や地域の人達によって構成された社会のなかで、社会の通念やあるべき行動をまなんでいたことが見て取れる。
時代を近づけ、「クレヨンしんちゃん」について考えてみると、年齢が学童期に入る前であることも影響しているが、友達と遊ぶ姿は少なく、自己中心的な価値観で構成された世界が描かれている。のび太と同じく一人っ子ではあるが、家庭の中での影響力が大きく、パパやママはそれに翻弄される姿が描かれている。地域社会との関わりが描かれることはほとんど無く、つねにしんちゃんのわがままで物語が進んでいく。その言動は子供であることに自覚的であるとさえ言え、時に冷めた見方をし、性的な大人の話にも首を突っ込む。社会の通念やあるべき行動を学ぶ機会が描かれることはほとんどないといえる。
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