例えば、私が教育について語るとき、そこに教育的まなざし、というものが存在します。まなざしは、構え、と言い換えてもよいかもしれません。その構えは、生まれた国やその社会でのルールや多くの人が納得する考え方によってある程度決まってくるでしょう。と、同時に、私がどのような体験をしてきたかによっても変わってくるでしょう。したがって、そのまなざしは常に変化しているものであるといえます。つまり、今教育について、私が当たり前と考えていることは、別の時には当たり前でない可能性もあるということです。
例えば、先生が黒板に字を書けば、私はそれをノートに書き写すことを当たり前と考えます。ともすれば、ノートに書き写すだけで授業が終わることもありました。そのときは、それで授業を受けた、という充実感を持っていたのかもしれません。しかし、今から振り返れば、書き写すだけならプリントをもらえばよかったとも考えられます。別の例で言えば、授業はいすに座ってみんなが前を向いて受けるものだと考えがちです。しかし、江戸時代の寺子屋の様子を描いた挿絵をみると、皆好きな方向を向いて、正座をしています。つまり、板書を写すことも、いすに座って授業を受けることも、今の学校はそうあるべきだという考え方をもとにして、当たり前と考えられているといえます。
こうした考え方を支える見方には、3つのまなざしがあるといわれています。
ひとつは、「発見・分類・一望のまなざし」です。例えば、コロンブスはアメリカ大陸を「発見」しましたが、アメリカ大陸もそこに住んでいた人も、コロンブスが見つける前から存在していました。しかし、それらは、コロンブスが見つけた途端に、「アメリカ大陸」であるとコロンブスに分類されてしまいます。その瞬間に、あたかもアメリカ大陸はコロンブスのもののようになってしまっています。
もうひとつは、「観察・計測・記録のまなざし」です。先のように発見した新しいものを、私たちは観察し、記録します。その際、私たちは一定の尺度をあて計測します。そして、計測し得るもののみをまなざしの対象とします。
もうひとつが、「製作・計画・作用のまなざし」です。先のように観察し得るものは、また製作し得るものであるという考えにいたります。
このようなまなざしは、教育を考える上でどのような影響を与えるでしょうか。ひとつは、相手は自分の思い通りに育っていくものだ、という思い込みにつながるということでしょう。そして、思い通りにならないことは、問題だと捉えてしまうかもしれません。しかし、思い通りにならないこともあるという限界を知る必要があるでしょう。もうひとつは、自分は問題から一歩はなれた存在である、と考え勝ちになることでしょう。問題と考えられる事態は相手と自分とのお互いの関係の中で生まれているものだ、という認識をもち、自分のあり方についても常に問いかけを忘れない姿勢が必要であるといえます。
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