夏目漱石の「坊ちゃん」が発表されてのは1906年であるが、その中に「(ある日、街で天麩羅蕎麦を4杯食べたら)翌日、黒板に大きな文字で、天麩羅先生と書いてある。」という描写がある。これは、教師の一挙一動がすぐに伝わるくらいの小さな街であることを示すくだりではあるが、ある意味生徒が先生に関心をもっていることを示すことでもあるといえる。また、大学生の心理描写をする作品はあっても、学童期のこどもの心理描写をしている作品は多くは無く、概ね屈託無く笑い、悪戯はするものの純朴な姿が描かれている。
一方で、2000年に発表された重松清の「ナイフ」という小作品集では、中学生の描写として次のようなくだりがある。
「あたしは二年B組のハブになった。誰も口をきいてくれない。目が合うと薄笑いを浮かべて顔を背け、廊下ですれ違う時には大袈裟な仕草で身をかわす。」(「ワニとハブとひょうたん池で」)
「駅前には、いつものように若い連中がたむろしていた。(中略)聞こえよがしの大きな音をたてて、毒々しいガラのシャツを着た男が路上につばを吐いた。バイクに乗った男が無意味なクラクションを、表紙を付けて鳴らした。ブレザーの制服姿の女子中学生が放り捨てたコンビニエンスストアの袋が、風に舞って、ロータリーの中央の噴水池にまで飛んでいった。」(「ナイフ」)
これらの描写からは、中学生の子供と教室内でのいじめがセットで描かれていること、公序良俗の意識の欠けた子供達が街で固まって存在しているシーンが描かれている。
教室内でのいじめや、反社会的な若者は明治の時代にはなかったわけではない。
ただ、こどもの置かれている状況に対する問題意識が高まったや、問題を抱える年代が低年齢化していることは、これら描写の比較から浮き彫りにされているといえる。
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