近代社会において、学校とはある意味で、「文字を修得する、身に付ける」機関であるといえる。文字を子供に刻みこむことは、すなわち近代の法や原則を子供たちの身体に刻みこむ営みである。
基礎学力とは、すなわち近代社会で生活するうえで必要な読み・書き・計算の能力、すなわち文字の習熟であるといえる。学校や教師は、効率的に子供を文字文化の世界へ取り組むための方法を模索する過程で独自の教育文化を生み出した。
例えば、黒板に向かって机に座る、時間を区切って全員一律に同じ(範囲)の学習をさせる、先生を権威ある存在としその指示には従うべきだとする、などといったことは、そうした教育文化の生み出した、効率的に文字を刻み込むための仕掛けである。仕掛けは単純で型(パターン)がある方が使いやすい。頭髪指導、服装指導、校則指導、あいさつ指導、授業態度指導、集団行動指導など、教師の指導に子供がなれるほど、文字は刻みやすい。
こうした教育文化は、子供を学習身体として変貌させていった。すなわち、いかに教育した内容を素直に受け取る子供の方が価値が高い、「良い子」である、という考えである。そして、素直に受け取れない子供は「悪い子」であり、そうした子供に対しては、まずはこれまでの型をもって、学習身体を作り上げることからはじめる。子供が抵抗すればさらに強い力で型にはめ、それでも受け入れない子供がいれば学校からはじき出す。
しかし、型は固定的である。こどもの親が以前の親と異なり、生活のリズムが変わり、携帯電話やITなど生活を取り巻く環境が変われば子供の価値観も変わる。リストラや不況、若手経営者の台頭などに象徴されるように変化する社会を見れば、将来に対する考え方も変わる。子供が変化しているのに、指導のパターンが以前のままでは、そこにズレが生じる。そもそも、今後どのような文字を子供に刻めばよいかということも揺らいでいる。
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